辿る

野口マッハ剛(ごう)

辿る

 やりたいことは特にないのだろう。成人式を八年前の二十歳の時に行かなかったのも、人と人の空気に馴染めないというところにあったのだろうか。アルバイトは十六の秋から始めて、十年ほど勤めて辞めた。つまり、アルバイトや仕事の経験はその飲食店でしかない。自分でもよく持ったなと思う。仕事の内容は調理や清掃、小さな倉庫での食材などの出し入れ。十年ほど続いたアルバイトを辞めた理由は色々あって、その中でも体調を崩したのが最大の原因だろう。仕事をやらなくなって、治療に専念すること約二年。その間はなるべく自分を鈍感に生きようと努めた。敏感なら体調が悪くなるからだ。刺激にできるだけ触れない。それが功を奏することはあまりなかった。病院に通院すること十三年。その間に通院先を転々とすることはあったし、通わない期間も勿論あった。とまあ、ここでは詳しく話さないことにする。長くなるから。現在、自分は二十八である。

 自宅、と言っても父親と二人暮らしだが、夜は一人の時が多かった。父親が泊まり勤務であることが影響する。想像してみてほしい、静かな夜にひとりで過ごすときの孤独を。それを楽しめる人なら問題はないのだが、自分はその孤独をどうやり過ごすかで悩んでいる。早くに眠りにつけばいいだけの話だが、実際は何かをやらなくては、と一人で苦悩するのである。

 その代わりに朝と昼が好きなのだ。太陽が顔を出しているその時間帯が自分の休息を感じるのだ。町を散歩したり、駅前まで自転車を走らせ本屋を巡ったり。この時だけは全ての悩み事から解放される。

 もうひとつの楽しみと言えば、京都に父親と出かけて神社やお寺を巡るのも好きだ。何から名前を挙げればよいのか悩むが、ここでは秘密ということにしよう。教えたいのだがまだまだ京都についてはわからないものや知らないことが多すぎる。だから言わないでおこう。

 さて、今日は父親と久しぶりのドライブなのだが、寒い時期とあって、あまり外出はしたくない。けれども、この時ぐらいしか遠出は出来ないし、少しは父親との会話もしてみたいものである。自分がベラベラと一方的に話しては、父親はハンドルを操作しながら適当に聞いているのだと思われる。タバコを助手席で吹かしては、父親も運転しながら吸っている。タバコの本数を減らして節約しろと父親からは言われてなんとも言えない気分になる。世知辛い。

 助手席の窓を全開にして流れる景色を見つめる。目に映るけれども何も面白くはない。むしろ不愉快に思えて仕方がなかった。どうしてだろうと考えてみて、ああ、自分が何もしていないからだなと思う。仕事が出来ない、何かをするわけでもない。そんな毎日を罪のように思えて仕方がなかった。

 いつもの大神宮に連れて行ってもらっても、どこかで満たされない感覚がある。自分が自分でないような、何とも言えない気持ちになるのである。以前はワクワクとした気分があったのに、それをどこかに置いてきたような心情なのだ。勿論、大神宮に参拝出来て有難いのだが、なお空虚な感じになるのだ。つまり、自分が空っぽの何かの入れ物になったかのような。

 今はちょっとだけ昼を過ぎ、昼食の時間なのだが、父親は夕方の三時に食べようと言った。自分はそれに従い、また助手席に座る。車が少しタバコでヤニ臭かった。続けて父親がハンドルを握る。

 どこに行こうか? その話となる。

 すると父親はこう言う。本山寺に行こうか。

 本山寺とは、一度も行ったことのないお寺である。確か、神峯山寺よりも奥にあるお寺だと思われる。しかし、情報が少なすぎて自分はちょっと行くのをためらう。神峯山寺なら何度も車で山を登って参拝はある。本山寺とはどんなものだろう。好奇心に負けて自分も賛成をする。山を甘く見ている自分。

 父親は車を山へと走らせる。タバコを吸う自分たち。少しだけ何か期待をしている。

 次第に町から山へと車で入る。林道があって、そこを昇る。

 なに、すぐに着くだろう。自分と父親は本当に軽い気持ちで車中話している。

 神峯山寺の正面の門の前を横切って、ドライブ感覚で昇る。早く着かないかとタバコを吹かしている自分。途中に登山客と思われる人とすれ違う。よくわかりもせずに自分たちは冗談を言い合う。

 道はコンクリートで舗装されている。けっこう車でも長いと感じられる道中。道の脇に参拝者用の駐車場があった。ここからは降りて登るしかない。先に言うと自分たちの服装は登山用ではなかった。

 さて登ろうか。

 道を登ってすぐのところに屋根が見える。中を覗いてみる。お地蔵さんが居る。長椅子も両脇にある。自分は合掌をして本山寺を目指す。下山する登山者とこんにちはと挨拶する。この時は体力に余裕がある自分。コンクリートで舗装されている道はくねくねとしていたり、なかなか目的地に着かない。左が斜面で右が崖のようになっている。それにしても長い。こうなったら意地でも辿り着いてやろう、そんな気分であった。

 登り道に七丁と彫られてある四角い石が。長さは四、五十センチだろうか。よし、あとは登りきるだけだと意気込んだ。だが、なかなか姿を現さない本山寺。少しだけおかしいと感じ始める自分。振り返ると父親は随分と後ろに登ってきている。

 そして、おかしいと感じたものが姿を現した。六丁と彫られている四角い石が先ほど同様に道の脇にあった。妙な感じを受ける。つまり、勘違いをしていたのだ。七丁はあと三丁ではなくて、残り六丁なのだ。

 ゼイハアと休みつつも意地で登る。

 お地蔵さんに途中の道で出会えば合掌をして。

 無我夢中で登る、と言うよりも登山になっていた。脚は重たく感じられる。正直に言えば舐めていた。しかし、引き返そうにも道がある。登れど登れど道が続く。

 振り返ってみると父親の姿が確認出来ない。

 自分は少しの不安に襲われながらも登る。のどが渇いた、水を持ってきていない。水が飲みたい。ああ、いつになれば本山寺は見える!

 余裕がなくなっている。普段から楽を選んできた自分からすればこれは苦しみである。いったい自分は何をしているのだろうと考え始める。けれども道はくねくねと上へ上へと続く。意地でも登って行った。

 ようやく見えたのは鳥居のような門、柱が二つあり紐が繋がって木材だろうか、たくさん垂れている。名前を知らないのは恥ずかしいことだ。

 もうしばらく歩かねばならないが進むことにする。

 そして、ようやく本山寺に到着することが出来た。最後の石段を登り切り、本山寺を拝めることが出来た。呼吸が小刻みに荒いが、自分はお賽銭を入れて合掌する。その間に何を思っただろう。

 自分の中での本山寺とは何か?

 それは、まるで参拝というより己に対する問いかけでもあった。

 ここに着くまでは自分が何をしてきたか。また、何のための参拝なのか。

 答えはとうとう見つからず。

 石段を下り始めて、やっと父親の姿を見る。安心した。父親が参拝している間、自分は備え付けの灰皿のそばでタバコを吸う。そんなタバコよりも水が恋しい、のどは渇ききっている。そうか、上手く言葉には出来ないが、こういうことなのだろう。本山寺とは、辿り着くまでの道こそが人の生に似ているのかもしれない、と。普段から楽を取れば、あとから苦労がやってくると、そう教えてくれた気がした。飽くまでも主観で思うのだけれども。

 そうして、下山となる。

 本山寺とは、自分の中で何なのか?

 道を下る車中、タバコを吹かす。

 考えれば考えるほどに答えは思考の中でグニャグニャとなる。

 自分はどうして生きているのだろう。

 やはりわからないままである。

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