23/ 聖と、翠と、ふたりきりの時間

 


 帰り道。自宅のマンションが見えてきたところでふとそれを見上げて、翠は隣家の様子に気付く。

 翠の家は、既にひと足先に、冴さんが帰っているのだろう。バイト上がりというこの時間帯の、濃い群青色をした夜空の下、ここから見上げる窓には明々と、そこに活動を、生活を示す灯りが光り、くっきりとその輝きを浮かび上がらせている。

 一方、その隣。

 対照的に、聖せんぱいの家には、そこに熱を感じさせる灯りはない。ひっそりと夜空の色に埋もれて、暗く、遠目にも静まり返っているのがわかる。

 今日、せんぱいは学校を休んでいるけれど。具合はやっぱりまだ、悪いままなのだろうか? あるいはすっかりもう、寝入ってしまっているのだろうか?

 ──翠は知らない。今、彼女が見上げるその先に、脳裏へと描いた少女の姿が存在し得ないこと。

 ひとつ年上の少女は、その大切に想う少年のためにこの街を密か離れている。少女が暮らすその家は今、もぬけの殻。

 知る由もなくただ想像をし、翠は案じている。

 たとえ知ったとしても翠は、せんぱいが周囲へと偽りを行ったことを責めはしないだろう。そうするのが少女と少年の関係性にあっては、当たり前の行動であったとひどく納得をして受け容れるに違いない。

 ああ、そうするべきだったんだ。

 そうなるのが、正しかった。

 翠はきっと、そう思う。

 

「ごはん、ちゃんと食べたのかな。──食べられたのかな」

 

 なにかつくって、持って行ってあげようかな。

 でも眠っていたら、起こしてしまうのも悪いか。そのように、せんぱいのことを案じながら。

 翠は、涼斗せんぱいのことも想う。

 筆を折ろうとしている、少年のこと。彼に自分が、なにをできるのだろう。

 こういうとき、いったい誰に──相談をすれば、いいのだろう?

 わからないし、知らない。

 せんぱいたちのことだけじゃない。

 翠は。

 自分の歩く道の先に、待つものさえ。

 

     *   *   * 


 涼斗ははじめ、なにも言わなかった。

 

「待って」

 

 そのまま、ただ無言に。無言に、両者のあいだに沈黙は続いた。

 申し訳程度にタッチパネルを彼は操作して、やはり申し訳程度にフライドポテトとコーラを注文して。短く、「同じでいい」と聖に問うた。

 彼へと曖昧にしか応じられなかった聖だった。彼はそれを同意と受け取ってか適当に、端末を操作して。

 それで、やおら立ち上がる。

 だから聖は思わず彼の手を引いた。袖口を引っ張られて、たたらを踏んで。無表情のままに涼斗は首を左右に振る。

 別に、どこか行こうってわけじゃない。

 ──トイレ。少し、ひとりで考えたくもある。少し、だけ。

 乱暴でなくそっと指を払って、涼斗は行った。彼が席を外しているあいだにコーラがふたつ、ポテトが運ばれてきた。

 お昼の駅弁は広げはしたものの、その殆どを残してしまった。だというのにお腹はまるで空いていない。きっとそれは涼斗だってそうだ、飲食店に入ったのだから、また夕方のなにか食べてもおかしくない時間帯だからと、半ば義務感にも似た意識でそれを注文したに過ぎない。

 よくない客、迷惑な客なのだろうと、自身料理店でアルバイトをする聖は密か自嘲する。

 

「聖」

 

 引き戸を開いて戻ってきた涼斗はひと息には自分のいた場所に戻らず、聖を背後から呼ぶ。

 

「涼斗。──なに?」

「聖はこれから、どうするの」

 

 どうって。──どうするなんて、そんなの。

 わかんないよ。涼斗がどうするかも、わからないのに。言えないそれらの言葉がぐるぐると、頭の中を回る。

 こんなに私は彼に対し、臆病だっただろうか……付き合おうなんて、告白までしておいて。

 戻りざま、一本だけフライドポテトを指先に拾って彼はそれを銜える。腰を下ろすとじっと、涼斗は聖の返答を待つように再び、黙りこくる。

 

「……涼斗こそ、どうするの。こんなことして。こう、なって」

 

 だから聖が口を開くしか、ない。

 

「私は帰らない。戻らないよ」

「聖。それは──」

「私、涼斗の答えをまだ聞いてない。涼斗と一緒にいる」

 

 臆病なくせに、口を開けば出てくるのは強引な言葉。思考と発言が矛盾している、と自分でも思う。

 少しずつ冷めて、湿気ていくポテトの山を挟んで。ふたりは目と目を向けあう。

 

「涼斗と一緒にいる。涼斗と一緒に、帰る」

 

     *   *   * 


 そう。やっぱり涼斗は答えない。聖の向けた選択肢に──その、問いに。


「……涼斗っ」

 

 結局殆どコーラも、ポテトも手つかずのまま、ふたりは居酒屋をあとにした。出がけ、ほぼまるごと残っているポテトに気付いた店員さんが気をまわして、ファーストフード店がそうするみたいに紙袋に包んで、聖にそれを持たせてくれた。

 お金は涼斗が有無を言わさずすべてを支払った。

 彼だってわかっているはずだ。涼斗はアルバイトをしていない。この街にやってくるまでの交通費用も、宿泊費用も、こういった飲食代もすべて、彼が拒み、そこに居場所がないと感じた両親によって与えられたお金によって賄われていること。

 もちろん気付いていないわけがない。目を背けているのかもしれないし、現実にただそうするよりほかに術をもたないだけなのかもしれない。

 

「……あの、涼斗。ここ、っ」

 

 聖よりも先に立ち、涼斗はずんずん、歩いていった。

 フライドポテトの紙袋を抱え、小走りにするように聖は彼を追いかけていく。

 

「来てくれて、嬉しかった。話せてよかった。話を聴いてくれて助かった。でも、ここにはついてきてって頼んだわけじゃない」

 

 自分勝手に、非難めいて言ってるわけじゃないんだ。それらの言葉を発する彼と聖の前には、どこの地方都市にもあるありふれたロゴ、その目立つ看板と、自動ドア。全国チェーンのビジネスホテルのそれが、佇んでいる。

 説明されなくてもわかる。ここがきっと、この街での彼の、逗留先。

 その入り口を前にして、彼は聖へと向き直る。これまでずっと背中を向けていた涼斗が、居酒屋ですらあまり視線をあわせようとしなかった少年がまっすぐに、こちらを見る。

 

「俺は、聖は帰るべきだと思う。話を聴いてくれただけで十分だ」

 

 だからこれ以上は、求めない。求めちゃ、いけない。

 

「聖も、選んでよ。俺に選べっていうのなら。俺からはこうしてほしいって、求めないから」

 

 ずるいのはわかってる。でも、選んで。残るのか。帰るのか。

 彼の発した選択肢は、後者を選ぶということは、それはつまり──……。

 息を呑むとともに、聖の頬に仄か、朱が差す。とくんと大きくなった鼓動が、ポテトの紙袋を抱いたそこに鳴ったのが聴こえた。

 

「居場所なんてわからない。けど、ひとまず俺はここにいる」

 

 彼とともにいると言ったのはほかでもない、聖自身だ。

 今夜、一緒にいるということ。……このホテルに、一緒にいるということ。

 ホテル。俺が予約した時点で、俺で満室だった。

 そう言った彼と、今夜一緒にいる。それはふたりきりの部屋で、ふたりきりの時間を過ごすということだった。

 

     *   *   * 


「ひょっとして、雪村 翠さん?」

 

 その人影にはじめて気付いたのはエレベーターホールを出て、自宅の部屋のある階の、玄関が立ち並ぶその廊下に折れたときだ。

 翠はそこに、ひとりの少女を見る。

 ツーサイドアップの、黒髪──なぜだろうそれは初対面のはずなのに、すごく見覚えのある、黒の光沢をそこに湛えているように思えた。

 スマートフォンの画面に視線を落とし、膝を曲げて彼女がしゃがみこんでいたのは隣家……すなわち、聖せんぱいの家の前。

 両耳にケーブルのつかないイヤホンをはめたその少女は、怪訝な視線をちらと向けつつ歩み寄る(彼女のいるその場所と、翠の進行方向が同じなのだからそれは当たり前のことだ)翠の気配を察すると顔を上げ、一度はがっかりしたように、つまらなそうに──そして二度目、ぽんと両手を叩くと、華やいだ表情で立ち上がり、翠に話しかけたのである。

 

「え。……そう、ですけど?」

 

 見ず知らずの相手である。

 せんぱいの家の前で、誰だろう、なにをしているんだろう。そんな疑問だけを抱きその様子を窺っていた。まさかあちらから話しかけられるなどとは思ってもみなかった──言葉尻や口調、雰囲気からたぶん年下の、高校生ではないと思う、セーラー服の少女。

 よくよく見ればその着衣はセーラーカラーだけれど、一般的な学生服の簡素なものとは違う。

 こまごまと刺繡がしてあったり、デザインが少し凝っていたり。はじめから意図して「そういう」つくりの服なのだとわかる。袖からして少しあまりがちで、指先までが隠れている。どこかなにかの制服として必要によってそれを彼女が着込んでいるのでなければ、敢えて好んで、そうして身に着けているのだろう。一般的な普段着とはあまり呼べない、そんな独特な着衣だった。

 そのセーラー服はワンピースで、スカート部分の裾の丈も太腿より少し上くらいまでしかなくって。……下になにか、穿いているのだろうか? わからない。

 

「やっぱり。きっとそうだと思ったんだー」

「?」

 

 しかし少女の見せる屈託のない、幼さを残すその笑顔は翠がはじめ抱いた印象のとおり、年下と思しき邪気のなさを感じさせるものだった。

 

「よく、話に聞いてるよ。携帯のメッセージやら、電話やら。お姉ちゃんから、翠さんのこと」

「お姉……ちゃん?」

 

 だから、誰。

 この女の子も。彼女が言うところの、「お姉ちゃん」って。

 少女は指さす。自分が佇んでいた、その家の玄関。その部屋の扉を。そして自身の名を告げる。

 

「メイ。──柊 命(ひいらぎ めい)です。柊 聖の妹です。ついさっき、海外から戻ってきたところ。翠さんのことはかねがね、聞いてます。お姉ちゃんがいつも、お世話になってます」

 

 その存在を、名前を。──当人のその口から発せられてようやく、翠は該当をする記憶に思い至った。

 知らない相手じゃ、ない。聖せんぱいに妹がいること。無論、知っている。

 海外にいたはずじゃあ、という困惑はたった今、彼女自身が戻ってきたばかりだと言ってひと足先に打ち消されたばかり。それでも困惑するのは与えられた衝撃とともにそこに、まだ残る「なぜ」「どうして」があるから。

 事実はごく、シンプル。

 彼女は、戻ってきた。

 ただそれだけのことが、不意に翠の目の前にあった。

 聖せんぱいではなくせんぱいの妹が、突然に翠の前に、現れたのだった。

 

 

          (つづく)

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