白い姫が笑う

森田季節

第1話

「ついに邪教の記録が見つかったんですよ!」

 研究室の外に聞こえたら誤解をされそうな発言とともに、千夏(せんか)がうやうやしくテーブルに虫食いだらけの古記録を置いた。

 廊下に響いてないだろうなと後ろのドアを一瞥してしまいながらも、狐虎(ここ)は目の前のコーヒーを横にスライドさせた。この古記録は確実に近世まではさかのぼるだろう。コーヒーをこぼしたら取り返しがつかない。

「千夏、邪教って表現使うの、やめろ。オカルト系の研究室だって思われるから」

「狐虎ちゃんの名前でそう言われても説得力ないですけどね。キラキラネームならぬつよつよネームですしぃ」

「そっちこそ、初見殺しネームだろ。誰だって、『ちなつ』か『ちか』って読む。『せんか』ってなんだ。二十四節気の隠された二十五個目か?」

 名前のことを言われると、狐虎は条件反射で顔をしかめる。変わったお名前ですね――誰だって、そう言うしかないだろう。気にしないふりをするのは無理だ。両親が離婚して、名づけの親の母とはめったに顔を合わせないが、いまだに、いや、今でこそ腹が立つ。何が「狐のように賢く、虎のように勇ましく育ってほしかった」だ。お前は我が子が狐や虎になってほしいのか? 『聊斎志異(りょうさいしい)』か。『山月記』か。だいたい娘を勇ましくさせようとするな。実際、そこそこ勇ましくなった。

「ごめん、名前の地雷踏んじゃったからしばらく煙も立ってるでしょうけど、話を聞いてくださいよ」

 ずいっ。千夏はその古記録を狐虎のほうに押し付けるようにテーブル上でスライドさせた。

 狐虎の目に『白山深秘要諦(はくさんじんぴようたい)』というタイトルが目に入る。宗教学の研究室に在籍し、日本中近世の宗教史で博士課程の狐虎にはすぐに話が読めた。

「白山信仰の古記録か。別に邪教でも何でもないだろ」

 白山信仰は立山(たてやま)と並ぶ北陸の名山である白山の周辺で発展した信仰だ。

 ほかの地域と異ならず修験道の影響が色濃い。奈良時代の伝説的な修験者である泰澄(たいちょう)が、十一面観音の化身である白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)に導かれて、白山を開いたといった話が中世では広く知られていた。

「この本は、江戸時代中期に写されたもので、その当時にはすでに廃絶していた白姫寺(しらひめでら)という寺の奥ノ院についてのことを記録しているんです」

 狐虎の言葉など無視して千夏は説明を続ける。

 そこに狐虎が引っかかる部分があった。

「江戸時代、つまり廃仏毀釈の前につぶれてた寺ってことか」

 白山信仰も修験道の関係で仏教要素が強烈に入っていた。いや、神道のほうに教義めいたものはないから神祇(じんぎ)の要素を入れた仏教の亜種みたいなものか。

 だが、明治初期の徹底的な神仏分離政策でそれは引きはがされた。

 もっともきれいに分離できはしない。全身の皮をはがれた人間が生きていられないようなものだ。信仰も同じだ。

 その時期に廃絶した寺や、寺とみなされていたのに神社として再出発するしかなかった宗教施設も多かった。

 だが、千夏の話が正しければ、その寺は明治維新を待たず江戸時代中期には消滅していたことになる。

「まあ、江戸時代や戦国時代につぶれた寺なんて腐るほどあるし、由来のわからん古代寺院が発掘すると出てきたりするから、寺がつぶれることには不思議もないけど。後継者がいなきゃ廃絶するだろ」

「いいえ。邪教としてつぶされたんですよ」

 千夏はくりくりした目で楽しそうに断言して、古記録の最初の一ページ目をめくった。軽く毛先をカールさせたショートボブは、千夏をモルモットみたいなげっ歯類の小動物のように見せる。

「別にわたしの妄想じゃないです」妄想だと思われそうだからか、千夏は最初に言った。「書き写した人間がいきさつを書いてます。奥ノ院に入った修行者の多くが戻ってこないので、奥ノ院への参詣道を閉ざすよう沙汰があり、寺も廃絶したと。ここに書いてることをそのまま信じれば元禄(げんろく)年間につぶされたらしいです」

 元禄年間――令和の今から数えてざっと三百年とちょっと前というところか。

「ふうん。その寺がどこにあるのかわからないから、沙汰を出した主体が幕府かどっかの藩かは知らないけど、権力につぶされた寺という点では面白いかもな。近世権力がいかに寺をつぶしたかなんて、そんなに研究もなさそうだし」

 廃仏毀釈で消滅した寺も、戦国時代に武装して大名と戦って焼かれた寺も、すぐに想像ができるが、江戸時代に消された寺というのはなかなかない着眼点ではないか。狐虎は素直に感心した。

 千夏は母親の腹の中に頭のねじでも忘れてきたのではないかというぐらい天然なところがあるし、他人のパーソナルスペースにずかずか踏み込んでくるほどにデリカシーが欠落しているが、その行動力ゆえに若手研究者としてそれなりに評価されていた。

 あと、小動物のような女子が入ってくるのを鼻の下を伸ばさないまでも好意的に受け取る男の研究者も多かった。いや、女性ウケも悪くなかった。かわいいものが、なおかつ真面目なら五割増しでよく見える。

 ちゃんと論文を発表するだけじゃない。もうちょっとやわらかい媒体にホラーやオカルトや伝説のような記事まで寄稿している。去年の夏なんて、怪談ナイトやリアル百物語といった都内のトークイベントにまで参加していた。もはや、ホラー界隈のちょっとした業界人だった。

 そんな千夏が出してきた資料だから、その古記録もそれなりの価値はあるんだろう。どこから掘り出してきたのかわからないが、よくもまあ、こんなものを見つけてくるものだ。

 それに引き換え……。

 つい、狐虎の頭に自虐的な意識が上ってくる。

 地元の千葉県の妙見信仰と竜神信仰のつながりを調べたいと博士課程にまで来てしまったものの、かつての印旛沼いんばぬまの面積がずいぶん縮小したみたいに少ない資料はあっという間に干上がってしまった。

 考えてみれば、修士課程に進む時でさえ、教授に「地域史は身動きがとれなくなる」と注意されていたのに。それに気付くのは、いつだって取り返しがつかなくなってからだ。千夏に差を開けられっぱなしだ。一緒に暮らしているのに、才能は文化のように伝播しないらしい。

「権力がどう宗教をつぶしたか――ですか。それも大事ですけど」

 その言い方は大事だと思ってない証拠だぞと狐虎は思う。

 はあ、千夏いったい何を求めてるんだ。狐虎はその先を待つ。

「わたしはもっと純粋に研究を楽しみたいんです」

 そう言い切る千夏が狐虎は憎らしかった。

 権力がいかに宗教を迫害したか、たしかに論文にはしやすいテーマだし学会誌にも載せやすい。

 だが、それをやってわくわくするのかと問われれば、そんなわけはない。

 ただ、オーソドックスじゃない研究テーマでやっていけるのは千夏みたいな神に祝福された人間だけだ。イロモノでやっていける自信も覚悟も狐虎にはない。

「やっぱりわたしはフィールドワークのほうが好きなんです。邪教を発掘できるなんて最高じゃないですか。というわけで、行ってきます」

 実に楽しげな声で千夏は言った。

「三百年前に消えたぐらいだから、奥ノ院への道はとっくに廃道なんです。さらに途中からは沢登りすら必要な、道でもなんでもない先にあるんですよ。まさに誰も寄り付かない秘境にある邪教の遺跡なわけです。これだけでもロマンがあるじゃないですか」

 みじめに聞いていたら、千夏の暴走が想像以上なので、狐虎は驚いた。

「いやいや! 沢登りって、それ、登山系のスポーツの中でも最も危険なやつの一つだぞ! 多分、標高がクソ高い山をスキーで駆け下りるやつの次ぐらいにヤバい。スキーで降りるのは日本では禁止されてると思うから、実質一番危険なやつ!」

 研究対象の社寺は低山にあることが多いので、その延長線上で軽登山をたしなむこともあるし、千夏と登ったこともあるが、沢登りなんて無茶苦茶だ。

 沢というとせせらぎのような優しいもののように聞こえるが、滝をロープワークとクライミングの技術で垂直に進むところも珍しくない。

 落下して即死するならまだしも、救助のヘリも寄り付けない岩肌にへばりついて数時間苦しみながら落命することだってある。どんな上級者でも運が悪ければ、落石が頭にぶつかってそこでおしまいだ。道中で転落死しているシカやカモシカを見ることすら稀ではない。スポーツと言うより、冒険と形容するのが正しい。

 その手のことは以前に興味本位で借りた沢登りガイドにすら書いてあった。

 そして、初心者が一人で沢には行くなという注意書きが必ずある。

「大丈夫、大丈夫。そこは訓練してからいきますよ。とにかく、この奥ノ院には何かあります。邪教扱いされてつぶされた跡地を掘って何か出てきたらすごい発見じゃないですか! ナマの邪教のタイムカプセルですよ!」

 千夏のあまりにも無邪気な笑顔を前に、狐虎はあっさりと説得を諦めた。

 結局、本当に楽しくてやっている奴に、努力でどうにかやっている奴が勝てるわけはないのだ。

「浮かない顔をしてますけど、ちゃんと戻ってきますよ、狐虎ちゃん」

 狐虎の頭にぽんと千夏の手が置かれた。

 子供みたいに小さな手だ。しかも、保冷材を最初に乗せた時みたいに涼しい手。

「根拠がない。研究者なのに、資料的根拠がないなんて論外だ」

 そうは言ってみたものの、止める気もなければ、もう応援しようと思いはじめている自分がいる。一緒の家に住む人間が家族なら、千夏の成功は家族の成功なのだ。

「わたしが断言してることがなによりの根拠ですよ、狐虎ちゃん」

 乗せた手で、くしゃっと髪を握ったので、さすがに狐虎は怒った。

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