予期せぬ提案ー②



 紫乃は震える口で、少しずつ、少しずつ、目の前の2人に、先程あった事を話す。

 初対面の2人にここまで話していいのだろうか、と紫乃は戸惑ったが、烏間の瞳に、紫乃は不思議と口を開くしかなかった。

 父が負債を負った事。その負債を長谷川氏が肩代わりした事。負債と引き換えに家宝の翡翠を渡した事。そして。


「…私を、長谷川氏の息子の嫁に、と」


 詰まる喉から、無理矢理言葉を押し出す。口にするのもおぞましい、と紫乃は思った。

 3人の間にしばしの沈黙が訪れる。紫乃の話が終わるのを見計らっていたかのように、椿は白い品のいいカップを三つ運んできた。

 目の前に置かれると、柔らかな湯気を漂わせ、紫乃には初めて嗅ぐ、香ばしいいい香りが鼻をくすぐった。黒々とした液体は、反した真っ白なカップの中で揺れている。


「よろしければこちらをどうぞ」


 笑顔で椿が差し出したのは、小さな入れ物が二つ。


「こちらがお砂糖で、こちらがミルクです」


 小さな入れ物の蓋を取り、椿は紫乃に丁寧に説明した。説明を受けて、どうしていいかわからない紫乃に、灯磨が声をかけた。


「紫乃様、珈琲は初めてでしょう?」

「はい、恥ずかしながら」

「いえいえ。まだ一般的ではありませんからね。珈琲はこのままだと少々苦味の強い飲み物なんですよ。ですから、お好みでお砂糖とミルクを入れると飲みやすいのですが、お入れしても?」


 椿が置いてくれた小さなスプーンを手に取り、灯磨は笑顔で砂糖の入った入れ物を掴んだ。どうやら、彼は紫乃に世話を焼きたいようで掴んだスプーンを離す気配はない。紫乃も好意を無下にはできず、灯磨の提案を了承した。


「お願いいたします」


 弱々しい返事をきくと、灯磨はますます嬉しそうに、にっこりと人懐っこい笑顔を見せると、手慣れた様子でさらさらと紫乃のカップに砂糖を入れた。そして隣のミルクも注ぎ入れると、カップの中をクルクルとかき混ぜる。

 真っ黒だった液体が、ミルクの白を含んで綺麗な胡桃色くるみいろに変わった。


「さぁどうぞ」


 促されて、紫乃は恐る恐る口に一口含む。

 香ばしい香りと、砂糖の甘み、ミルクのまろやかさ、微かな苦味。初めての美味しさに紫乃は驚き頬がつい緩む。


「おいしいですか?」

「はい、とても」


 ならよかった、と嬉しそうに灯磨は返事をすると、さりげなく自身のカップにも砂糖とミルクを注いでいた。しかもそれは紫乃に入れたよりも、多く見える。


「入れすぎだ」


 それを見た烏間が、しかめっ面で、真っ黒なままのコーヒーを啜りながら言った。


「甘い方が美味しいんですよ。朔様には分からないと思いますが」


 わずかにとろみが付いているように見えるその珈琲を、美味しそうに口にしながら灯磨は言った。すると、まるで分かりたくもない、とでも言いたそうに、烏間はため息をつくと、また珈琲を一口、口に含んだ。




「ところで」


 珈琲のおかげか、少し空気が緩んだところに、烏間が口を開く。


「長谷川の息子と、結婚したいか?」


 その悍ましい質問に、紫乃の思考は一瞬止まってしまった。そんなわけがないだろう、と紫乃はわずかに怒りが込み上げる。


「したいわけがありません」


 口に出した後で、こんなこと簡単に言ってしまってよかったのだろうか、と紫乃は少しだけ後悔する。彼が、自分の味方とは限らないのに。

 紫乃の答えを聞き、わずかに烏間の口角が上がったように見えた。


「そうか」


 烏間は短く言うと、また珈琲に口をつける。カップに口をつけるたび、彼の長いまつ毛が伏され、目元に影をつける。窓から入り込んだ美しい光が、その端正な顔に映り、紫乃はその度に目を奪われた。


「…今週末に、長谷川の家で宴が開かれるそうだ」


 目を伏せたまま、まるで独り言のように烏間は言う。突然なんの話か分からず、紫乃は首を傾げた。何故、長谷川邸の宴の話などするのか。


「西洋かぶれの長谷川らしい、長谷川邸の庭で行われる洋装での宴のようだ」


 ようやく、烏間は伏せた目を紫乃へと向ける。瞳の中に、光が映り込み、宝石のようだった。

 紫乃は烏間の言いたいことが分からず、眉を寄せる。


「その宴に招待されているんだが、困ったことに同伴者を1人連れて行かなくてはならない」

「それが、どうかされたのですか?」


 にやり、と悪い笑顔を烏間は浮かべて言う。

 紫乃はその顔に嫌な予感がする。


「八雲殿、ぜひその宴に俺と行ってはもらえないか」


 大岩で頭を殴られたように、紫乃の頭はぐらりとする。

 長谷川邸に行く?宴?しかも烏間と?

 なぜそんな提案をされるのか訳がわからず、紫乃は固まってしまう。

 大嫌いな長谷川邸に、今日会ったばかりの、しかも冷酷無慈悲と噂される烏間と行くだなんて、想像しただけで紫乃の身体を震えさせた。


「…申し訳ありませんが、お断りを」

「もしも」


 紫乃は精一杯、断ろうと震えながら言うが、烏間はそれをかき消すように言った。


「宴に行くのならば、結婚や家宝の件、俺がなんとかしてやろう」

「え?」


 それは紫乃にとってまたとない話だった。言われた言葉を理解するのに時間がかかるほど、ありがたい事だった。

 この烏間と宴に行くだけで、悍ましい結婚の話が無くなり、大切な翡翠が戻ってくるかもしれないなんて。

 けれど、そんな簡単に信用していいのか。初めて会ったと言うのに、何故この男がここまでしてくれるのか、と紫乃は怯える。なにか他に目的があるのか。もしあるならば、それはもしや長谷川が考えている事より恐ろしい事なのではないか。

 簡単には返事をできず、紫乃は俯く。


「朔様、紫乃様怯えちゃってるじゃないですか」

「何故怯える必要がある。助けてやると言ってるんだ」

「理由もなくいきなりは怪しいでしょう。それに宴に行くならー、なんて脅しですよ!脅し!紫乃様、申し訳ありません。突然のお話で、訳がわかりませんよね」


 助け舟を出すように、灯磨が会話に割って入る。烏間に慌てて注意するが、何が悪いんだ、と烏間は灯磨を睨みつけていた。


「実は、訳あって我々は長谷川様を懲らしめたいんですよ」

「おい灯磨」

「いいじゃないですか。宴に同伴していただくなら、紫乃様だって協力していただくわけですから」


 頬を膨らませながら、成人男性とは思えないほど可愛らしい顔で怒った表情をする灯磨。そんな灯磨の言葉を烏間は制止しようとしたが、灯磨は続ける。不満そうに烏間は黙って珈琲を啜った。


「詳しくは言えませんが、少し長谷川様はおいたが過ぎてまして。我々は長谷川様を懲らしめたい、紫乃様は長谷川様から家宝を取り返し、結婚話を白紙にしたい。利害の一致だと思うんですが、いかがでしょうか。絶対に紫乃様の悪いようにはしません」


 紫乃は自身を落ち着かせるために、ぬるくなった珈琲を口に含む。

 このまま悩んでいたって、長谷川の嫁になるだけだ。それはどうしたって避けたい。怪しいだろうが、選択肢は二つしかない。それならば、この目の前の男に賭けてみようか、と紫乃はごくりと息を呑み込む。


「わかりました。ですが、何故そこまでしてくださるのですか?」

「言ったでしょう。長谷川様を懲らしめたいんですよ。それに、こんな美しい女性が困っているのに、助けない紳士はおりませんよ。ね、朔様」


 烏間は黙ったまま、何も反応を見せなかった。

 灯磨は、困った人だ、と小さく漏らすと、窓から差し込む光を見た。


「…日が暮れ始めてくる頃ですね。そろそろ行きましょう」


 もうそんな時間になっていたのか、と紫乃はどきりとした。この店にいると、どうにも落ち着いてしまい、時間の流れが分からなかった。

 席から立ち上がり、紫乃は烏間に声をかける。


「あの、烏間さま」

「なんだ」

「お金は、後日お返しいたしますので」


 おずおずと言った紫乃に、烏間は盛大にため息をつくと、無視して椿の元へ行ってしまった。

 どうして、と紫乃が青い顔をしていると灯磨が笑って言う。


「大丈夫ですよ。協力して頂きますし、本当にお気になさらず」

「ですが」

「そのかわり、今週末、とびっきり美しくなってくだされば朔様は喜びますよ」


 にっこりと笑った後、灯磨先に店の外へ行ってしまった。

 どうしていいか分からず、紫乃は店の玄関の横に立ち、会計を済ませている烏間を待つ。

 会話の内容は、小声で話しているため聴こえないが、紫乃の目には烏間と椿は親密そうに見えた。柔らかな笑顔で椿の耳元で何かを囁く烏間。こんな一面もあるのか、と紫乃は思いつつ、じっと見つめるのは悪いような気がして、自然と目を逸らす。

 会計が終わると、椿は烏間から預かっていた上着を後ろから掛けて着させる。2人とも美男美女で絵のようにお似合いだ、と紫乃は思った。


「ご馳走様でした」


 紫乃は烏間と椿、2人に向けて頭を下げる。

 烏間は無愛想にも、黙ったまま店の外に行ってしまった。そんな烏間を困ったような笑顔で見送りながら、椿は紫乃に声をかける。


「お嬢様、またぜひいらっしゃってくださいな」

「はい、ありがとうございます」


 美しく笑う椿に、紫乃はまた頭を下げると烏間を追って店の外に出た。


 外に出ると、店の前には馬車が止まっていた。貧乏な紫乃は、馬車にはもちろん乗ったことがなく、いつも徒歩だ。

 珍しい馬車に目を奪われたが、よく見るとその馬車を引く二頭の馬は、どちらも艶やかな青毛で、とても美しく、利口そうな顔つきだった。

 紫乃の視線を感じ取っているのか、馬は二頭とも、澄んだ黒曜の瞳で紫乃を見つめていた。


「紫乃様、どうぞ」


 店から出てきた紫乃に気付き、乗り口の扉を開けて灯磨が手を差し出す。その手を掴み乗り込むと、俯き腕を組んで先に乗っていた烏間の隣に座る。


「失礼します」


 紫乃の小さな声に、烏間はちらりと紫乃を見たが返事はなかった。

 初めての馬車と、烏間の隣で紫乃は緊張し、着物の下はすでに汗だくだった。

 わずかに烏間に触れる体の右側が妙に熱かった。

 馬の手綱を握り座ると、灯磨は馬に優しく声をかけて、柔らかく手綱を揺らした。

 店から出て見送る椿に手を振り、紫乃は2人とともに馬車に揺られ家へと向かった。


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