中
「
山の裾野、木々の群れの中で雨龍は声を上げた。棲みかの池からの道の険しさの為か、少し息を切らしている。
椿からの返事はない。きっと頭があったなら傾げていたに違いないだろう。
「約束通り、あなたの名前を考えてきました」
苦節五日。悩み通した末に雨龍が決めたのは、愚直なまでに単純な名前だった。椿の言葉を何度も何度も
凝った名前を考えたところで、この椿に相応しいものを贈ることはできない。紅の花、常盤の葉を前にしてはどんな美辞麗句も霞んでしまう。半分はそんな諦念によるものだったが、
「良い名ですね」
当の椿は気に入ったようで、文句をつけることはなかった。
認められた。雨龍の心は昂り、羽根より高く舞い上がる。身体まで心につられそうなのを必死で堪えねばならなかった。不敬だと分かっていたが、今なら身一つで天へと昇れそうなほどだった。
「
椿は言った。いつからかは分からないが、椿は雨龍をこう呼ぶようになっていた。
「ええ、どうやら狐の頭領が亡くなったらしいのです。その後継選びで一悶着起きているようで」
「成程、それは気の毒に。でもせめて夜の間は静かにしてほしいですね。辺りを駆け回られて眠れもしません」
それを聞いて雨龍はらしくもなく顔をしかめた。高さの割には細い幹の傍に、たくさんの椿の花が落ちている。初夏の風が、雨龍の目の前でそれを重たそうに転がしていった。
澄んだ風の手に触られるならまだいい。獣の足がこれを踏みにじってゆく様なんて、雨龍は想像するのも嫌だった。夜になると騒ぎ出す狐たちは、雨龍が紅い花の一つさえ爪に掛けないようにしている事など知る由もない。
「あまり酷いようなら次の謁見で山神さまに陳情しましょうか」
「いえ、いいんです。それにしても、どうして動くものたちはわざわざ頭を立てるんでしょうね」
「動くものだからです。皆が方々に行かぬよう統率する者が必要なのですよ」
木である椿は自分の周りに起こることしか知らない。種の大きく異なる獣たちのいざこざも知ったことではない。それ故に、椿は雨龍に多くのことを尋ねた。重ねられる椿の問いに、雨龍はいつも丁寧に答えていった。
「では、その統率する者はどうやって決めるんですか」
「世襲の場合もあれば、実力だけで決まる時もあります。頭となるさだめの種族もいるでしょう」
「それは、雨さんのように?」
「わたくしのように、とは?」
「雨さんは池の主でしょう。けれどもあなたはあなたの話す友人たちのような、魚の中の王の家系でもなく、魚の中から長にと担がれたものでもない」
「……確かに、その通りです。わたくしは池に棲んでいる時から池の主で、友のように何か力や徳を積んだものではありません。わたくしが池の主なのは、たまたま龍の端くれに生まれついたからというだけなのですよ」
大鯰。金鯉。老亀。みな一介の畜生だったのが、徳を積み力を積み同族からの信頼を積み、水場の主となったものたちだ。たとえ王の家系に生まれたとしても、あやかしの世界ではそれらを得ずに先頭に立つことはそうそう無いことだった。人間よりも実力が物を言う世界であったからだ。
雨龍は、彼らとの交流の中で、それをどこか負い目に感じていた。雨龍自身が成龍になり大成を望むのも、ひとえに精進しなければ彼らに申し訳がたたないというのもあっただろう。
「あなたが力を積んだら何に成るのでしょう」
「おとなの龍になります。試験に合格すれば、天に仕える身になれるのです」
少しばかり熱のこもった雨龍の声も、これ以上椿の好奇心をくすぐらなかったらしい。椿はふぅんと返事したきり黙り込んだ。
今度は雨龍の番だった。雨龍は落ちきった椿の花を見渡して、恐る恐る言った。
「紅さん。落ちた花を、頂いてもよろしいでしょうか」
「どうぞ、お好きに」
かくして雨龍は、意中の相手の首を腕一杯に抱えて帰ることになった。持ちきれない分は吐き出して背に着けた大きな泡の中に。
業突く張りと詰られやしないか。髭が緊張でぴんとしたが、椿は何も言わなかった。地面に落ちた後だというのに、花の匂いはくらくらするほどに甘美だった。
その日から、池の水面に幾多の深紅の花が浮かび始めた。池の主ともあろうものが、それを仰向けに泳ぎながら眺めている。あまりにうっとりしているものだから、魚の群れの頭に「花など用意しなさって、色(恋人)でも出来たのですか」と訊かれてしまった。雨龍はまだ首を縦に振ることができないでいる。
雲が猫のように喉を鳴らし、激しい雨のしずくで地を穿つ日だった。高木にいかづちを落とす龍神の姿を垣間見て、
「いつかわたくしもああなってみせます」
と雨龍は息込んでいた。そして慌てたように、天を見上げていたその瞳で椿を見上げて言う。
「龍神になっても誓ってあなたにいかづちは落としません」
「神様が
椿はそんな雨龍に、呆れたように言い返した。
熱い日差しが降り注ぎ、あやかしさえも茹だらせるような日だった。
「雨さん、おれの下に来てください」
椿は雨龍を懐に招いて、自分の根と幹に寄り添わせた。時に幹に沿ってとぐろを巻くことさえ許した。椿の下は夏の青臭さに満ちていて、それが水の匂いに慣れた雨龍にとって新鮮ながらも心地良い。
「湿った身体が丁度良いんです。土が乾いて困っていて」
椿はそう言ったが、雨龍を招いた所はいっとう枝葉の茂る影だった。
幾多の木々が鮮やかな色に染まる日だった。冬支度をする獣たちと、涼しい風が木立を駆け抜ける。そうして楓や
「わたくしは楓の葉の紅よりも、あなたの花の紅の方が好きです」
つい気を大きくした雨龍はそんなことを口走る。けれども椿が黙ったのを見て、大きかった気はしょぼしょぼと萎んでいった。続きの言葉など浮かんでも来なかった。
その日魚たちは、池の主が水底でひどくたてがみを掻きむしるのを見た。
雪はまだ融けきらず、乾いた寒風が身を刺す日だった。水面の凍った池からようやく出てこれた雨龍は、椿の木に一輪だけ花が咲いているのを見た。今年に入って一番最初の花だろう。それはいつも花を咲かせる木の上部ではなく、低い位置にある枝から生じていた。
「こんなに低く咲かせては、獣に荒らされてしまいますよ」
「獣に荒らされるのを待っているんですよ。蛇のように長く、水よりも青い獣に」
雨龍はもう自分の心を抑えなかった。紅の花に接吻し、蜜を味わい薫りを嗅ぎ、椿の促すままにその花を手折った。
「後は期日を待つだけです」
「おめでとうございます。合格できるといいですね」
雨龍は真っ先に報告に行った椿に語る。湿った肌に、はらはら降り注ぐ椿の花粉をくっつけたまま。
しかしあれほど待ち望んだことなのに、そしてそれを椿に言祝がれているのに、どういう訳かあまり気が浮かない。首元の玉をつついては自分の三爪の手を見て、これで良いのかと自問するばかり。
五爪に憧れていた雨龍はどこへ行ってしまったのだろう。天を見上げる回数もこのところはめっきり減っていた。
首の痛みは減っていない。
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