紅雨

小金瓜

 どんな生き物にも必ず幼子だった時分があり、それは神獣の頂点である龍も例外ではない。竜巻を呼びいかづちを閃かせる龍とて、生まれたときからあのような威容を有するという訳ではなかったのだ。


 それは山神のお膝元、草木豊かな玻璃はり山に棲んでいた。長さ五尺(1.5メートル)ばかり、齡百と少しの、角のない龍の幼子。雨龍あまりゅうである。

 山には清濁さまざまなが水場が転々とある。雨龍の棲みかはそのうちのひとつ、山でいっとう濁った池だった。周りを葦と木々に囲われていて、濁水ながら魚たちが息づいている。雨龍はその中を、水流のようになめらかな身体で自在に泳ぎ回っていた。

 とはいえやることと言えば、池の水気すいきを整え、魚の群れに気を払ってやり、時折水面から顔を出して天を見上げることぐらいである。春秋一回ずつの山神への謁見を除いたら、なんとまあ単調な毎日だろうか。


 しかし雨龍は満足していた。元々おっとりした性であったから、取り立てていさかいも騒乱もない日々は望むところである。

 それに濁水を整え清くすれば、首元の玉に水の気が貯まっていく。これを水気で満たすことで、成龍となるための試験が受けられるのだ。天に仕えて万物に恵みを与えることを、雨龍は人の一生よりも長い間夢見ていた。





 ある年の春、山神への謁見の日のこと。滞りなくことを終えた雨龍は、友である大鯰に声を掛けられた。大鯰は山のふもとにある沼の主である。領有している水草の屋敷で、宴会をするので来ないか、と。

 雨龍は二つ返事で誘いに乗った。ほか、同じ水場の主である金鯉や老亀なども同席する、気心知れた者たちとの酒の席。

 どれほど楽しかったかは、帰りの雨龍の様子を見れば明らかだった。葦草とくるくる踊るさま、まさしく浮かれた酔っぱらい。もっとも雨龍は自分が下戸であることを自覚していた為、酔いよりむしろ浮かれの方が強かった。


 夕暮れ空に木々の梢が影を刻んでいた。その下で、雨龍は三本しかない爪を使い、雪の残った草むらを器用に踏み分ける。

 しかし呆けたまま出歩いたためか、あるいは性悪な狐狸こりの仕業か。少しも歩かないうちに、雨龍は自分が今どこにいるのか判らなくなってしまった。年に二度しか池を離れないし、山の環境は刻々と変化する。迷うのも無理はない。

 今や空も木も茜に染まり、かなり暗くなっていた。池の濁水よりは先が見えるが、自身の鼻先さえ分からなくなるのも時間の問題だろう。


 しばらくでたらめに歩いた雨龍は、いつも天を見上げる時のように、細長い身体を目一杯縦に伸ばして辺りを見回す。これをすると時折首が痛むのだが、少しでも視界を広げたかったのだ。──そうやっていると、ふと茜色の世界の一ヶ所が、少し違う色をしていることに気が付いた。

 近づいてよく見ると、それは椿の木だった。長さは十三尺(約4メートル)ほど。椀に似た花は鮮やかな紅一色。中心には金の雄しべが寄り集まり、さながら黄昏時の日輪のように見える。けれどそれらの花は全て、雨龍が背伸びしても届かない高い位置に咲いていた。

 もっと近くで見てみたい。逸る気持ちに押され、雨龍が短い腕を伸ばした、その時。


「何してるんですか」


 澄んだ声がした。叩きつけるような短すぎる言葉、どこから発せられているのかも分からない。雨龍は先ほどのように、身体を縦に伸ばして首を廻らせる。


「あなたの目は節穴なんですか?」


 再び声。今度はどこからなのか、雨龍にもはっきり分かった。上からだった。

 ああ、と雨龍は嘆息する。そして今までの非礼を詫びるように頭を下げた。目の前の椿の木に向かって。


「失礼、木霊こだまの方だったのですね」


 これほどの樹木ともなれば、物言うのも当然であろう。事実雨龍の考えは当たっていた。人の姿こそ持たないものの、齡三百を越える古椿は当然のように口を利いた。


「こんな時間に何をしているんですか。見慣れない顔をしていますが」

「こんな時間にとは……。夜はあやかしものの時間ではありませんか」

「知りません。日が暮れたら眠りの時間です」


 にべもない椿の言葉は棘のようだ。もしかするとその枝葉の間にいばらでも飼っているのではないか。そう雨龍が思うほどに。

 けれど、知らずとはいえ先に無礼を働いたのは雨龍の方である。それに美しいものに棘は付き物ではないか。雨龍は改めて、自分の哀れな身の上を椿に弁明した。山の中腹の池に住んでいること。友の宴席に招かれた帰りであること、帰路の途中で道に迷ってしまったこと。


「それで辺りを見回していたとき、あなたの姿が目に留まり、わたくし……思わず見上げてしまったのです」


 あなたの花が美しくて。それがどうしても言えず、一時言葉に詰まった。けれど椿はそれを気に止めず、口と喉によらない声を紡ぎ出す。


「道理でここらでは見ない顔な訳です。まったく、てっきり花蜜目当ての獣かと思いましたよ。低い位置に花を付けたんじゃ奴等に荒らされてしまいますからね」

「申し訳ありません。もう二度とこんな非礼は致しません」

「分かれば良いんです。おれはもう寝ますから」

「はい、それでは。……おやすみなさい」


 見上げてばかりで痛む長首をもたげ一礼。雨龍は椿に背を向け再び歩き出す。もう空はほとんど藍色になって、陽光の残滓だけが西の方にこびりついていた。

 少し歩いたところで、さんざめく風と木々に混じって声が響く。


「ここは沼から東に進んだところ。日の入りに向かって進めば、少なくとも沼には戻れるでしょう」


 雨龍の歩みが止まった。その身体がとぐろを巻くように後ろを向き、暗闇に埋もれた草木を見つめる。けれど草木はどれも黙して語らなかった。





 次の日。日の高く昇っている正午の時である。

 椿の許を、雨龍は再び訪れた。その時椿は天道の恵みを目一杯受けているところだった。

 広がった椿の葉は艶やかで、光のしずくが上に乗っているかのよう。それがこぼれ落ちて地面に木漏れ日を作っている。昨日は暗くて椿も周りの木々もよく見えなかったが、日の下で見比べてもやはり椿は一番美しかった。


「また来たんですね」

「はい。あなたのおかげで、無事に池へ戻ることができました」

「おれは何もしていませんよ」

「昨日、わたくしに沼の方角を教えて下さいましたでしょう。今日はその御礼に伺いました」

「知りません。おおかた他の木が教えたんでしょう」


 椿はそう言ったが、昨日最後に聞いた声は明らかに椿のものだった。

 しかし礼と言っても、雨龍が椿のためにしてやれることなどたかが知れている。池の水はこの美しい木に捧げるには濁りすぎているし、自分は龍といえどもその末席の末席、たいした力を持っていない。御礼に伺ったと言っておきながら、本当に礼の言葉を述べることしかできないのだ。そのことに気付いてしまったので、雨龍は仕方なく椿の言い分を受け入れることにした。ただ、


「それではどうか、あなたのお名前を教えて頂けないでしょうか」


 往生際は悪かった。あやかしものにだって情はある。当の椿は否定しているが、恩人ならぬ恩樹の名前くらい覚えておきたいものだ。

 けれど椿は言う。自分に個としての名前はない。木に名前をつける酔狂者などいるものか、と。


「おれは椿です。紅色の椿。他に名前を持ったことはただの一度もありません」

「そうですか……」


 落胆の隠しきれない返事を返す。これでは雨龍も引き下がるしかない。名乗る名前を持たないのは自分も同じだったからだ。

 山に雨龍はひとりしかおらず、特段名前で不便してはいない。だがそれが仇になる時が訪れるなど、考えもしていなかった。いよいよ雨龍は、椿の許にいる口実を全て失った。

 もう椿には直接会わず、遠くからその姿を眺めるだけにしよう――雨龍はそう自分に言い聞かせ、舌に別れの言葉を乗せる。

 しかし椿はそれを遮った。


「次に来る時までに、おれの名前を考えておいてくれませんか」


 椿への情が雨龍の中にいっそう燃え上がったのは、この時からだ。

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