7.クッキーを渡してはいけません 第1話
あの時痛めた私の足は筋を軽く痛めただけで、二〜三日ほど湿布を貼っていれば治った。
温泉旅行以来、友梨さんたちと会う事もなくなっていた。それはそうだろう。八月に入って最初の日曜に友梨さんと湊さんはアメリカに立つのだ。今頃大忙しで引越しの準備をして遊ぶ間も惜しんでいるに違いない。
松岡くんからはお見送りに一緒に行きましょうと誘われている。
松岡くんとはあれ以来、仕事上での付き合いはあってもプライベートで関わることはなかったので、お見送りの日がちょっとだけ楽しみだった。
だけど私は楽しみでも、松岡くんにとっては悲しい日なんだ、……そう思うと胸がちくりと痛み出す。
「――しチーフ、月見里チーフ?」
「へっ、なに、あっ、なに結城さん?」
「どうしたんですか? 最近元気なさそうですよね?」
「そんなことないよ」
営業部内にいるのは私と結城さんと久保田課長と三山係長だけ。部長はどこかに油を売りに行っていると見て、あとは外回りだろう。
静かな空間に結城さんが声を潜めて話しかけてくる。
「えーー、ホントですか〜? そうだ、チョコあげますよ、元気出してくださいねっ!」
そう言うと結城さんはデスクの抽斗をあけ、こそこそと何かを取り出す。
「はい、どうぞ」
渡されたのはひと口チョコレート。
「いつの間に持ってきてたの?」
「だって集中切れちゃうんですもん!」
「切れちゃうって」
「内緒ですよ。でも月見里さんならいつでもあげますから言ってくださいね!」
「はは、ありがと。じゃあいただきます」
「どうぞ!」
もらったチョコの包みをこっそり開いて、それを素早く口に放り込んだ。
「ん〜、美味し」
「疲れた時には甘いものですよ! 元気出ました?」
「そうだね、ありがとう。元気出た!」
「良かった〜」
「あっ、そうだ」
「どうしたんです?」
「クッキー作るのって簡単?」
「まあ、お菓子作りの中では失敗は少ないと思いますけど」
「そっか……」
友梨さんの「克服して欲しい」と言う言葉が蘇る。
「作るんですか?」
「んー? でも私に作れるかな? って、まず器具から揃えないといけないよね」
「それなら私の家に来ませんか? 一通り揃ってますし、ちゃんと美味しいクッキーの作り方教えますよ!」
「ほんと!?」
その時の私には『克服すなわち手作りクッキー』という図式しか頭になかった訳なのだが、これがとても安易な考えだと分かるのはもう少し先の事。
*
「それでは、材料を量ります」
「はい、センセー」
八月最初の土曜。すなわちお見送りの前日。
結城さんの家にて、結城さんが貸してくれたフリル付のピンクの花柄のエプロンを付けて、薄力粉から量る。それから結城さんの指示通りに、1グラムの誤差もないよう全ての材料をきっちり量り終えると、ふるいを渡された。
「次は薄力粉をふるいに掛けます」
「ねえねえ、これってさ、やらなくても良くない?」
「ダメです。手間は惜しまないでくださいね。さあ入れますよ、手首を細かく動かしてしっかりふるってください」
「はーい」
私が持つふるいの上に結城さんが薄力粉を少しずつ落としていく。するとふるいの細かい目からさらさらと粉雪が舞い降りる。
細かく揺らすふるいに合わせて、さかさかと可愛い音を立てながら薄力粉の塊がゆっくりその姿を小さく変えていく。
「はい終わりです。次は柔らかくしたバターをクリーム状になるまで混ぜて、それから砂糖と混ぜ合わせます。白っぽくなるまでよく混ぜてください」
「はーい、分かりました〜」
今度は泡立て器を持ってシャカシャカと混ぜていく。
「柔らかくしてるって言ってもバターを混ぜるのはちょっと力がいるね」
「そうですね。でもすぐにクリーム状になりますよ、頑張ってください」
「はーい、あ、ほんとだ、ちょっとクリームっぽくなってきた!」
その後も結城さんの指示に従い、順番に卵黄、バニラエッセンス、それから薄力粉と混ぜていった。
「まとまってきたら、冷蔵庫で休ませますよ」
「休ませるってどれくらい?」
「んー、二時間くらいですかね?」
「にっ、二時間も!?」
「はい。でも大丈夫です。今日はすでに寝かせた生地が冷蔵庫にスタンバってます!」
「なにそれ! 結城さん最高! ってか3分クッキングみたい」
「へへ〜、用意がいいでしょ? さ、じゃあ今作ったのは冷蔵庫に入れて、先に寝かしておいた生地で型抜きしましょうね」
「はーい、センセー!」
見覚えのあるハートと星の型抜きを手に、広げた生地を優しく抜いていく。それを天板に乗せてあらかじめ予熱していたオーブンに入れた。
「それじゃあ焼いてる間に片付けをして、そしたらコーヒー淹れましょうか」
「はーい」
片付けが終わる頃、ほんのりと香ばしい香りが漂い始めていた。
焼き上がったクッキーをオーブンから出し、熱い天板からクッキーを下ろす。
「冷めたらラッピング出来ますよ。私が持ってるもので良ければ使ってください」
そう言って結城さんは棚から透明のラッピング袋と箱を持って来る。
「その箱はなに?」
「これはリボンですよ。お好きなリボン使ってくださいね」
箱の蓋を開けると中から色とりどりで幅も様々なリボンがロールのまま入っていた。
「なんかこれ手芸店で見るやつ?」
「そうなんですよ。好きなリボン見つけると私、ひと巻ごと買っちゃうんです」
そう言って結城さんは恥ずかしそうに、へへ、と笑う。その小首をかしげる姿が可愛いらしい。
「色んなリボンがあるんだね」
「そうなんですよ、リボンにわくわくしちゃうんです! レースのリボンとか、ちょっと特別感ありませんか? 男性へのプレゼントじゃなくて、同性へのプレゼントにレースを使うと喜ばれるんですよね〜」
「あ〜、分かるかも! 絶対可愛いよね! ピンクのリボンを一緒に合わせても可愛いし、ネイビーのリボンを合わせるとシックになるし!」
「そうなんです! 分かってもらえて嬉しい〜」
二人でリボンに盛り上がりながら、私はラッピングに使うリボンを選ばせてもらう。
「そうだな……、濃い色でもいいし淡い色でもいいよね……」
「それなら細いリボンにして、濃い色と淡い色を重ねてみたらどうです?」
「おおっ、なるほどね。さすが結城さん〜」
そうして私は冷めたクッキーを透明袋に入れて袋の口を二本のリボンで結んでとじた。
一本は濃い青色、もう一本は淡い水色で。
松岡くんは受け取ってくれるだろうか?
そう考える一方で、私が作ったものならなんとなく受け取ってくれるんじゃないかと、そんな気がしてわくわくしてしまっていた。
けれど根拠のない自信ほど怖いものはないのだと言う事を後で存分に知る事となる。
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