5.想いを自覚してはいけません  第1話

 仕事において私たちは上手くやっていた。淡々と取引先を新規開拓していく松岡くんに合わせて私の仕事も増え忙しくなり、社内での会話も自然と増える。


「月見里さん、あれどうなりました?」

「あれ? あれならデータにして松岡くんのパソコンに送ってるよ。あとさ、あっちのあれが共有されてなくてさ、こっちに送ってもらえるかな?」

「あー、あれ、ちょっと手直ししようと思ってるんですよ。明日でもいいですか?」

「いいよ〜、よろしく!」


 そんな会話をしている横にいた結城さんが目を見開いている。


「結城さん、どうした?」

「今の会話なんですか? 長年連れ添った夫婦みたいな……」

「え、何が?」

「気付いてないんです? 最早暗号ですよ。二人にしか分からない会話……。怖すぎる……。が何を示しているのか分かるなんて、……ヤバい! 怖っ!」

? あーそうだね、多分その内結城さんも取得するスキルだよ。その内、川辺が『あれ』って言ったら何の事か分かるようになるから〜」

「え〜〜、怖っ、やだな……」


 それを聞いていたのか川辺が「ヤダとか言わないで、軽く傷付く……」と嘘くさい演技みたいに言っているので、私と結城さんは目を見合わせて、さー仕事しよ、と川辺を無視して切り替えた。


 パソコンに向かいながら、そっかと思う。

 いつの間にか松岡くんとの意思疎通レベルが上がっていたんだ。その事がとても嬉しいと感じて、胸の中がふわふわとくすぐったくなっていた。



「月見里ー、19時すぎたよ? 私帰るけど大丈夫?」

「はい、大丈夫でーす。久保田課長お疲れ様でした〜」


 パソコンに向かう手を止め、時計を見る。


「わっ、ほんと19時過ぎてる」


 それから周りを見回すと残っているのは三山係長と松岡くんと私の三人だけだった。


「月見里さんあとどれくらいで終わりそうですか?」

「えっとね、あと30分くらいで終わらせたいんだけど……」


 いや、これはまだ一時間は掛かるかもしれない、とざっと残っている資料を確認する。


「松岡くんは終わりそう?」

「そうですね、僕もあと30分くらいでどうにか切り上げて、あとは明日に回します」

「そっか。じゃああと30分頑張ろっ!」


 そう二人で意気込む後ろを三山係長が通る。


「私はもう帰りますので。ではお先に失礼しますね。お疲れ様でした。あ、最後の人は電気消してくださいね」

「はーい! 三山係長お疲れ様でした〜」

「お疲れ様でした」


 三山係長の目尻に寄る二本の皺を見送って、私たちは自分で決めたあと30分という制限の中、仕事に励むことにする。

 そして黙々と資料に向かう私の耳に届いたのはお互いのペンや紙の擦れる音に混ざって聞こえる息遣いで、……あまり集中出来なかった事は松岡くんには内緒。



 ロッカールームで着替えている間にてっきり帰ったのだと思っていた松岡くんが会社の外で待っていた。


「あれ、帰らないの? 誰か待ってる?」

「はい、待ってました」


 その瞳ははっきりと私をうつしていて、私は慌ててしまう。


「わたしっ?」

「ほら帰りますよ」

「え……」


 戸惑う私を余所に松岡くんはゆっくり歩き出す。遅れて着いて行く私へと、お腹空きましたね、と松岡くんは小さくこぼした。


「夕飯いつもどうしてるんですか?」

「早く帰れたら作る日もあるけど、今日はコンビニで何か買って帰るかもね。松岡くんはどうしてるの?」

「僕もそんな感じですよ。作るのは得意ではないけど嫌いではないんで。手の込んでないものなら時間掛けずに作れますしね」

「へえ〜、よく作るものは何?」

「そうですね、野菜炒めとか……。あとはインスタントラーメンだったり、冷凍うどんとか、パスタソースがあればパスタ茹でたり、ですかね。月見里さんは何作るんです?」

「私はね味噌汁か野菜スープは作るよ。多めに作れば次の日の朝も温めて飲めるでしょ。あとは煮物が好きかな。中まで味が染み込んでる感じが好きなんだよね」

「いいですね」

「煮物?」

「はい」

「今度つくっ――あ、いや……」


 危うく『作ったらあげようか?』なんて言う所だった。松岡くんは他人が作ったもの食べれないのに。それに、私は松岡くんの家族でも恋人でもない、ただの同僚……。

 手作り料理をあげてもいいなんて言う大義名分はどこにもない。


 もう少しで駅に着く。そうしたら、お疲れと言って私たちはお互いに背中を向けるのだ。

 だけどまだ一緒にいたいと言う気持ちがむくり、むくりと起きて来る。ご飯食べに行こうよ――そう言えたらこのあとまだ一緒にいる事が出来るのに、中々私の口はそれを言う事が出来ない。

 あの日のように『月見そば二つ』と強引にどこかへ連れて行ってはくれないだろうかと他力な事を考える自分も出て来ていた。

 同僚とご飯に行くくらい大した事じゃないはずなのに、私の口からとうとうそのセリフが出る事はなく、駅に辿り着いた私たちは「お疲れ様」と言い合ってお互いに背中を向けた。

 途中で一度振り返ってみるものの、松岡くんはこちらを振り返ることなく人波に飲み込まれて姿を隠した。


「はあ……」


 大きな溜め息も駅構内の喧騒にすぐ掻き消されてしまう。この心にすくい始めた気持ちも自覚する前に消えてしまえばいいのにと願ったが、想いは大きく育つ一方のようであった。


 私が振り返る前に松岡くんが足を止めてこちらを見ていたなどという事をつゆほども知らず、私は電車に乗った。



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