第7話 とくとーせき

「俺は変わったよ。半年前とはなにもかも。お前と別の学校に行ってるし、親はいなくなるし、引きこもりだし……全部変わったんだよ」


 高校受験に落ちて。


 愛実とは別の学校に行って。


 両親がいなくなって。


 俺が入学した高校の最初の定期テストで学年十位を取ったけれど、全然嬉しくなかった。クラスのみんなから『藤堂とうどう君って頭いいんだね』と言われるたびに虚しくなって、この環境で勉強する意味を見出せなくなって、俺は学校に行かなくなった。ランク下げた高校で学年十位って、そんなの絶望と変わりないんだよ!


「それは智仁が変わったんじゃなくて、周りの環境が変わっただけだよ」


「どっちも同じだよ。俺はもう才能に打ち負かされたし、医者なんて目指してない。こんなやつ、生きてるだけ無駄なんだよ」


 俺は、あんなに努力したのに受験に失敗するような人間で。


 天才外科医と呼ばれていた愛実の父親の代わりに生きているのに、平凡な人間で。


 もし、あの事故で俺がそのまま死んでいたら、愛実の父親はいったいあと何人の人間の命を手術で救っただろうか。


「えっとね。もし、もしも私のお父さんが重荷になってるなら、ごめんなさい」


 愛実の沈んだ声が胸に突き刺さる。


「別に重荷なんて、そういう話じゃないから」


「でも私、ずっと気になってた。あの日、子供の私が言ってしまった言葉が、あなたを、あなたたち家族を、苦しめていたんじゃないかって」


 愛美の歪んでいく顔を見ていられなくなって、俺はまた目を逸らした。


 ――お父さんはどうして帰ってこないの? おかしいよ。だってこの子は生きているのに。


 幼い愛実は、そう言って俺たちのことを非難した。


 その事実が、永久に変わることはない。


 恨んでいないと言えば嘘になるかもしれない。


「だからいいって。全部、終わったことなんだ。俺の家族が弱かっただけなんだ」


 でもそれで、愛実が罪の意識を感じるのは、違うと思う。


 父親が死んで子供が悲しむのは当然なのだから。


「俺自身が弱かっただけなんだよ」


 そう。


 俺が弱かった。


 きっと努力が足りなかった。


 高校に落ちたって、なにくそここからだ! って思えばいいだけだった。


 つまり、俺には努力の才能も諦めずにやり続けるという才能もなかったのだ。


「……」


「……」


 二人の間にまた沈黙が訪れる。


 ああ、どうしてこんな関係になってしまったのだろう。


 俺があの日逃げたせいだ。


 愛実とこんなにもぎこちなくなるなんて思いもしなかった。


「ねぇ、智仁」


 そして、いつだってこの沈黙を破ってくれるのは、手を差し伸べてくれるのは愛実の方だ。顔の前にもってきた右手をじっと見つめて、どこか物悲し気に、


「あの日、この手を、離しちゃってごめんね」


 言いながら愛実は手を開いたり閉じたりしている。


「私、ずっと謝りたかったの。あの日のこと」


「別に。もう気にしてねぇし」


 そう言ってみた。気にしまくってるじゃないか今も! って心の中でツッコみながら。


「俺も、勝手に帰って悪かった」


「じゃあさ」


 愛実の声に緊張が混じる。


 頬も少しだけ赤くなる。


 そうやって濡れた瞳で真っすぐ見つめられると、心臓の鼓動が鳴りやまない。


「あの時、私が離しちゃったこの手を、またつなぐことはできないかな?」


「それは無理だ」


「どうして?」


「だって俺たちはもう別れたんだから」


 愛実といると、いつだって俺は劣等感に苛まれる。


 惨めになる。


 嫌なことばかり思い出す。


「別れたなんて、どっちも言ってないじゃん」


「半年も話してなかったし、そもそもつき合うなんてどっちも言わなかったんだから、そういうことだろ」


「そういうことってどういうこと?」


「とにかくもう俺たちは無理だってことだよ」


 愛実は神様に選ばれ、医者になるためにこれからも努力し続けられる人間なのだから、いつ劣等感でキレるかわからない俺なんかと一緒にいたら損をする。


 お前にはもっと、なんでもできる、いい男がお似合いさ。


「でも……わたしはやっぱり智仁と」


「俺はもうお前と!」


 復縁する気はない。


 キッパリとそう言おうとした時、ゆちあが「んにゃぁ」というとろんとした声を出しながら起き上がった。


「おかーさん、おとーさん、おはよ」


 開いているのか開いていないのかわからないほど細い目を手で擦っていたゆちあは、


「あっ!」


 といきなり叫んで目をがばっと見開く。にぱっと太陽のように輝く笑みを浮かべながらソファを飛び下りて、


「ここ、ゆちあのために空けてたんでしょ?」


 俺と愛美の間にすぽっと座った。


「ここが、ゆちあのっばしょー。おとーさんとあかーさんのあっいだー」


 即興の歌を作るほど嬉しさを爆発させているゆちあが、右手で愛美の左手を、左手で俺の右手を握る。


 その小さな手は、とても暖かかった。


「ここがゆちあの、とくとーせきー」


 ゆちあはまず愛美の方を向いた。


 たぶんおかーさんにほほえみかけたのだと思う。


 続けて俺にも無邪気な笑顔を向けてきた。


「うん。やっぱりゆちあのとくとーせきは落ち着くなぁ」


 ゆちあが手をぎゅっと握り直した瞬間、心臓が大きく脈打った。


 顔を上げると、困惑している愛美と目があった。


「………………くはっ、ふはははは」


 どちらからともなく笑い出す。


 ゆちあが間に入っただけなのに、先ほどまでの陰鬱な空気が嘘のように消え去り、ハッピーオーラが満ち溢れていた。


 ゆちあを通して、二人の手が、あの時以来初めてつながった。


「そうか。ここが、ゆちあのとくとーせきか」


 俺は楽しそうに足をバタバタさせているゆちあの頭をわしゃわしゃなでてやる。


「うん。おとーさんの大きな手、安心するー」


「ゆちあ。おかーさんの手は?」


「おかーさんの手はね、柔らかくてすごい気持ちいい」


 ゆちあの言葉で思い出す。


 たしかに愛美の手は、俺より細くて小さいのに俺より柔らかかった。


「そっか。おかーさんもゆちあの手を握ってると、安心するし気持ちいいよ」


「やったぁ。おかーさんと同じだ!」


 幸せそうに会話をする二人を見て思う。


 ああ、こういうの、こういう空気、いいなぁと。


 二人の笑顔が生み出す波動をいつまでも浴びていたい。


 そばに二人の笑顔があるだけで、さっきまでの俺の悩みが、ひどく的外れで些細なことのように感じた。


「なぁ、愛美」


「ん?」


「いや、まあその……さっきの話なんだけど」


 喉に言葉がつっかえかけたが、なんとか押し出す。


「別にまあ、これからも会ってもいいかなって」


 脳まで熱くなっているのが自分でもわかった。


 こんなやつが『僕が愛実ちゃんを守る』なんて、よくもまあストレートに告白できたなぁと思う。きっとあのころは、恥ずかしいなんて感情をまだ知らなかったからだ。無知は無敵。いったいいつからこうなってしまったのだろう。


「えっと、ってことはじゃあ」


「ゆちあが俺のことおとーさんってて呼んでて、愛美のことをおかーさんって呼んでる。その二人が顔を合わせないわけにはいかないだろ。協力するとも言ったしな」


 ほんとに俺はどうしようもないな。


 いつから本当の気持ちを隠して、それっぽい理由をこねくり回すのがうまくなったのか。


「なーんだ。やっぱり智仁は優しいじゃん」


「別にこれくらい普通だろ」


「あっ! おとーさん顔真っ赤だ!」


 ゆちあに図星を指摘され、慌てて顔を逸らしたが、


「ほんとだね。おとーさん、鼻の先まで真っ赤だ」


 どうやら愛実にもばっちり見られていたらしい。


「うるせぇ。風呂上りでまだ熱いだけだよ」


 そう弁解したのに、ニヤニヤとした視線をやめない二人。なんかすげー恥ずかしいんですけど。


「ったく、調子狂うなぁ。トナカイに憧れてんだよ!」


 でも。


 この家に、こんな風に誰かの笑い声が広がるなんて二度とないと思っていた。


 だから、今のこの状況が懐かしくて心地よくて楽しくて、最終的には俺も混ざって三人で顔を見合わせながら笑い合った。

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