第21話 近づいて近づいて
八月を迎えても、僕と美侑は関係を続けていた。
ちゃんと言葉にして話し合ったわけではない。互いに終わりにしたくないという気持ちを言外に汲み取って、さもそういう約束だったかのように美侑は家に来るし、僕もそれを拒まない。
母さんが早く帰れるようになったので、美侑が晩御飯のおかずをおすそ分けに来ることはなくなったが、夏休みの日中などに一緒に勉強したり、雑談したりの生活を享受している。
そして夏祭りから二週間後。
僕らは少し都会の方へ遠出して、遊びに行った。
いわゆるデート……という扱いになるのだろうか。
僕も美侑も言葉にしなさすぎた。
夏祭りを一緒に過ごしたことにより、両者とも恋愛感情には気づいている。それどころか確信している、少なくとも僕は。
だからこそ僕や美侑は『告白』するタイミングを完全に見失ったのだ。
まだ一度も『好き』と言葉にして伝えていない。
言葉にしなくても手を繋げばわかる。
そう言えば聞こえはいいが、やはりもどかしい。
もしかしたら、大人になればいちいち言葉にこだわらないのかもしれない。あるいは同年代の高校生でも『ちょっと付き合ってみない?』の一言で事足りるカップルがいるかもしれない。
けれど、恋愛に臆病だった僕には明確な区切りみたいなモノが欲しくなる。
区切りがあれば、それが味方になって僕の背中を押してくれそうな気がするから。
ゆえに僕は今日、ある決心をしていた。
――美侑に告白する。
正直、今日のデートが始まる前から今に至るまで、ずっと『告白』という二文字が頭のいたるところに居座り、過度な緊張をしていた。
大型ショッピングモールに併設されている映画館で映画を観てから、色んな店を回った。
そこでは「これ、シュウに似合いそう」と見繕ってくれたメンズ用の銀のネックレスを購入した。(さすがに僕が支払うと申し出たが、美侑は自分が選んだんだし、私が払うと言って聞かなかった)
アクセサリーに今までまったく縁がなかったが、美侑がカッコイイと言ってくれるなら、今後も付けてみようなんて我ながらガードの緩い考えを働かせているものだ。
バイトで稼いだお金は意外と残っているので、惜しみなくデートに費やした。
銀のネックレスをキラリと首元で揺らしながら、僕たちは予約の必要がない、少し洒落た洋食屋で食事を取った。
高校生にしては背伸びをした店のチョイスだったかもと僕は内心浮足立っていたが、美侑も真剣にソワソワしていて、それを見ていると逆にこっちが落ち着けて、なんだかんだ楽しめた。
「シュウ、帰る前に少しだけ寄り道していい?」
駅から美侑の家までの帰路。彼女がそう言った。
「もう暗くなってるし、あんまり遅くならないなら」
「大丈夫、そんなに時間はかけないつもり。お気に入りの場所にシュウを連れていきたいだけ」
美侑の言うお気に入りの場所――彼女の家から徒歩十分程度の距離にある高台まで手を繋ぎ、歩幅を合わせた。
そして夜の帳が下りた今、僕と美侑は高台へと登り、見知った街の夜景を俯瞰しているのだ。
この高台はそれほど高さがあるわけではないが、僕たちが住む小さな街ぐらいは一望できるほど。ぽつぽつと家の明かりが散見され、先日の花火とはまた違った趣を感じる。ひとつひとつの光に派手さはないが、人が生きている目印みたいなものなので、不思議と温かさが瞳に映し出された。
「ほらっ! 見て、シュウ。意外と綺麗でしょ?」
前かがみになった美侑が両手で手すりを掴みながら声を弾ませた。
黒翡翠の双眸は夜景の光で爛々と輝いている。
学校での姿しか知らない人からすれば、ここまでテンションの高い美侑は想像できないだろう。でも、僕からすれば美侑の子どもっぽさはまったく違和感にならない。
他の人には見せない素顔を僕にだけ見せてくれていることに、言い知れぬ喜びが溢れてくる。
僕は美侑の隣まで歩く。双方の肩が触れるか触れないかのギリギリの距離感。そのまま僕と彼女の心理的距離を表しているようだ。
「確かに綺麗だけど、美侑、はしゃぎすぎ」
「だってお気に入りなんだもん、ここ。あ、ほら! あれ、シュウのお家じゃない?」
「明かりがついてるってことは母さん帰ってきてるな。ちゃんと飯作ってたらいいけど」
「とても息子が母親に向けたセリフとは思えないね」
「僕がいなければカップ麺とかで過ごしそうなんだよな」
「シュウってけっこう心配性だよね」
「美侑も大概だろ?」
「心配させるようなオーラぷんぷんな人に言われたくないんだけど?」
そんなオーラ出てるか?
皆目見当がつかない僕は頭の中で疑問符をたくさん浮かべていると、
「身に覚えがありませんってすごく顔に出てるよ? わざと?」
「見当違いも甚だしいな。顔だけじゃなく全身で出してる」
「もっとひどいじゃん」
せらせらと美侑が笑う。
会話は一旦ここで途切れ、近くの草むらからの虫の音だけが空気を震わす。
この高台には僕たち以外の人間がまったくいない。穴場的なスポットだから美侑はお気に入りなのだろうか。思えば僕もこんな場所を知らなかった。
今日は昼から夜までずっと美侑と一緒に過ごした。
欲の赴くままに美侑に話を振り、反対に美侑からもたくさんの話をされた。
元々、話すのが得意ではない僕だから一日の終盤ともなると、話題のストックが空になってしまうのも道理。それなのに、僕はまだ美侑と話し足りないと思っている。
バカというか滑稽というか。自分で言うのも何だが、頭がおかしいのではないか。それほどまでに美侑が、恋が僕を変えたというのだろうか。
僕は黙って美侑の立ち姿を眺める。
薄い生地の真っ白いオープンショルダーにより淡いミントグリーンのフレアスカートが清涼感を覚えさせる。髪型がいつもとは違って、ハーフアップに整えられている。
髪型を褒めた時すごく喜んでいたから、僕のためにわざわざ髪型を変えてきてくれたという勘ぐりは思い上がりではない……はず。
今日のデートを噛みしめるように回顧していると、美侑の方からあてどなく口を開いた。
「この高台にはね、つらくなった時に来るようにしていたの」
「つらくなった時……」
僕の不安げなリピートに、美侑は焦って訂正する。
「あ、今がつらいってわけじゃないよ。むしろシュウと一緒に過ごせて幸せだし……って幸せとか私、何言ってるんだろ、恥ずかしぃ……」
「恥ずかしいはこっちのセリフだ、バカ」
ふたりして顔を赤くし、磁石の反発のようにそっぽを向く。
数秒、沈黙が流れた後に美侑が話を続ける。
「話を戻すけどさ。シュウと出会う前から、正確には小学生の時からつらくなったらこの高台で街を見下ろすっていうのが習慣だったの」
美侑は視線を街へ送り直した。
「見下ろしたら楽になるのか?」
「うん。街の中に閉じ込められている間は周りが全部『自由』に支配されているように思えて息苦しいんだ。けれど、こうして高いところから見下ろせば、意外とこの世界って決まった動きをしているんだなって、再認識できるの」
街を指差す美侑。
「夜になったら自分の家に帰って、空が暗くなったら家の電気をつける。そして朝になったら学校や仕事に向かう。俯瞰すれば当たり前のことに目がいって、楽になるんだ。だからこの高台にはつらくて当たり前がわからなくなった時に来るようにしていたの」
どこもかしこもこの世は『自由』で溢れている。
多様性を重んじられたこの世界で、多くの人間が好き勝手に動いている。
けれど、根本にはルーティーンなるものが存在していて、無意識的に行動を制限している。
環境のほとんどが『自由』に囲まれた中、トラウマのある美侑はさぞ生きづらいことか。
彼女でなくても、人はついつい嫌なモノにばかり注意が逸れてしまうものだ。
必死に生きれば生きるほど、彼女の瞳には『自由』ばかりが映りだす。
それゆえに高台という安息の地を設け、こうしてたまに俯瞰する。一度、世界から距離を置けば、普段とは異なる視点の当たり前に気づける。
美侑はそうして踏ん張ってきたのだろう。
僕も美侑と同じように小さな街に目線をやった。
「どうして僕をこの高台に連れてきてくれたんだ?」
熱くなった頬を夜風がひゅるる、と冷ましてくれる。
美侑は夜風になびく黒髪を耳にかけた。
「報告するため……かな」
そう言った美侑は、高台の隅にある人ふたりが腰かけられそうなぐらい大きな岩の方へ、おもむろに歩いた。僕も彼女に続く。
「この岩は願いが叶うとか、縁起がいいとかそういう特別なモノじゃないんだけどね。私がつらい時は必ず見守ってくれたの。それに昔から少しも形が変わっていないところに安心さえできる。あまりの心強さに憧れすらしたっけ。面白いよね、岩相手に憧れなんて」
「美侑って昔から変わった人だったんだな」
「ちょっとぉ? 今も変人だってこと?」
「変な人なんてこれっぽっちも思ってない。風変わりとかエキセントリックとか断じて思い浮かべてないから」
「色んな言い方してくれたね?」
「いたいいたい。ごめんって」
美侑は僕の頬を摘まんで、引っ張ってきた。
クスクスと目を細めた美侑は「変な顔」としたり顔で言い、満足げに鼻を鳴らす。
「んで? 報告って何を報告するんだ?」
抓られた部分をさすりながら、僕は疑問を呈した。
美侑は左手をその岩の上に添え、目を閉じる。
そんな彼女を見ていると、どうやら僕にはまだまだ彼女の知らない一面が山ほどあるんじゃないかと思えてきた。
当然、美侑の高校以前の人生を僕は直接目にしたわけではない。
きっと彼女が目を閉じている間だけは、僕とは異なる時間が頭の中を流れているに違いない。
――寂しい。
おいおいマジか。
僕は岩に嫉妬しているのか。
僕の知らない彼女の過去を、目の前の岩は知っているかもしれないのだ。
彼女はつらい時によくここに来ると言っていた。つまり何に悩んでいるのか、彼女はそこの岩に打ち明けた可能性が高い。
結論は出た。
やはり僕は岩に嫉妬している。エキセントリックなのは僕の方じゃないか。
「……美侑?」
急に心許なくなった僕は耐えきれずに彼女の名前を口走ってしまう。
すると、美侑はゆっくりと目を開き、くるっと軽快に振り返る。
「よしっ。報告終わり!」
「え、は? もう終わったのか?」
「うん! 岩とはいつもテレパシーで会話してるから」
「ふざけてるのか本気なのかわからん」
るんるん、と美侑は後ろ手を組みながらタタタッと僕の横を通り過ぎる。
「何を報告したんだよ」
後ろ姿の美侑にそう言葉を投げかける。
目を閉じていた彼女の表情は真剣そのものだった。
報告とまで言うものだし、それにこの岩は彼女にとって大切なスポットのはずだから、何か重要なことをこの岩に知らせたに違いない。
美侑とけんかしたわけではないから良い報告だとは期待できるが、なにぶん彼女は言葉を発しなかったので、すなわち彼女のみぞ知る思惑。
固唾を呑んで待っていると、美侑が、
「少しだけ耳、貸して」
と恥ずかしそうに呟いた。
僕がその言を了承すると、美侑がバッといきなり身を翻し、僕の元へ駆け寄ってきた。
たじろぐ僕にお構いなく、美侑は一気に僕の耳元へ顔を近づけ、囁いた。
「大切な人ができました」
ほんの一瞬の出来事だった。
言い終わった途端に僕に背を向け、即座に、
「――って報告したの」
美侑は耳を真っ赤に染め、顔を両手で隠しながら言った。
転瞬、僕の頭の中が美侑でいっぱいになった。
ぼーっとして何も考えられない。
言語も情緒もすべて忘れ、ただ美侑の後ろ姿だけが呪いのように焼き付いて離れない。
息苦しくて、クラッとする。
――告白するなら今か。
魂にそうよぎった瞬間、身体中を這い回っていた痛みが一斉に引いた。
腹の底から冷えるように、やにわに落ち着きを取り戻した。
――何、ビビってんだ。まだ美侑を待たせるつもりか。
告白しなくても、実質、僕と美侑は付き合っているようなもの。今はまだ手を繋ぐだけに留まっているが、いずれそれ以上のことにも発展していくはず。
そうやって僕は何度も何度も先延ばしにしてきた想像以上の臆病者だ。
いい加減腹を決めろと喝を入れるが、裏側にはいつまでも言葉の影響力に怯えている僕もいる。
もはや告白が失敗するしないの次元ではなく、上手くいっている現状から一歩足を踏み出すのに勇気が出ないのだ。
例えるなら、地球の他にも生物が生きられる星を見つけたから、そこに移住しようと提案されても、地球での居心地が良いから居座りたくなる、そんな心情。
しばらく返事をしようとしない僕に我慢できず、美侑が声を上ずらせて、
「さ、そろそろ帰ろっか。もうここに用事ないし……」
「待ってくれ!」
気づけば僕は美侑を引き留めていた。
これ以上ないぐらいゆっくりと、ゆっくりと深呼吸をする。
やや裏返った声で、僕は宣言した。
「伝えたいことがある」
不思議なこともあるものだ。口をついて出た言葉がその持ち主に覚悟を決めさせるなんて。
――伝えたいことがある。
そこまで言い切ったんだ。もう引き下がれない。
未だ僕に背を向けている美侑が金鈴の揺れるような声で尋ねた。
「このままじゃダメ?」
「大事なことなんだ。僕は美侑の顔を見て話したい」
「で、でもっ。心の準備っていうか、緊張で顔、変になってると思うし……」
「僕はどんな顔でも気にしないから」
「本当に?」
「美侑の顔が見たい理由を今から僕に言わせてほしいんだ」
一度、言葉を紡いでしまえば、信じられないほどするすると続けられる。
自分とは思えないほど積極的な発言が連続し、身体に力が籠る。ギュッと拳を握る。
さっきまで頑なに振り向こうとしなかった美侑は、月が徐々に満月へと近づいていくように、僕にとって光のごとく眩しいその美しい顔を覗かせた。
辺りが暗いにも関わらず、夕焼けのような顔がはっきりと視認できる。
言うんだ、今から。
実感が湧いているようで、それでいて現実味を帯びない浮遊感に苛まれていて。
夢の中みたいにおぼろげな心地で、僕は微毒のような痛みに身を任せた。
「好きだ、美侑。美侑がいないとまともに楽しめないバカな僕と付き合ってくれるか?」
言った。
言ってしまった。
永遠に引き延ばされるかのような熱い時間は、美侑の一声で区切られる。
「……うん」
俯きながらも美侑は涼やかに、はにかんだ。
「シュウ、私も好き」
咲いた。
いちばんの笑顔が咲いた。
満開の桜が咲いた。
出会った当初は蕾すらなくて。
けれど、段々と春の兆しを僕に見せてくれた彼女。
「……美侑」
病熱にでも侵されているかのような僕は、はにかむ彼女の前髪を軽く払った。黒翡翠の瞳に僕を映したくて。
何も考えられない。何も感じない。
まさしく夢中。夢の中。
彼女の肩に手を置くと、遅れて彼女が僕の胸に華奢な手を添えた。
目を優しく閉じてその時を待つ美侑に、僕はちょっとずつ近づいた。
彼女の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
…………ッ。
甘い匂いが少しだけ遠ざかる。
どこか物足りなさそうに上目遣いをする美侑に、僕はつい本音を漏らした。
「可愛すぎ」
「ホントいじわる…………でも、好き」
どっちかが示し合わせるでもなく、自然と僕らは手を繋いだ。より多くの体温を分かち合える形は、美侑を家まで送り届けるまで続いた。
「じゃあね」と手を振る美侑が帰宅するのを見届けた後、ひとりになった僕は麻酔が切れたかのようにさっきの感触を脳内にグルグルと回し始めた。
唇は触れている瞬間よりも、触れた後の方がやたらと熱っぽかった。
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