9 無力な女神
「エリス様はお元気でいらっしゃるのかしら」
小さな生き神がポツリとそう言った。
「きっとお元気でいらっしゃると思いますよ」
横に座る母がそう言う。
「どうなさいました? なにかございましたか?」
姉のようなこの世のものと思えぬ美しい女神がそう聞く。
「いえ、そうではないのですが……」
小さなシャンタルは、よく見える場所にかけてある中の国の衣装を見上げ、ため息をついた。
「とても楽しかったな、と思って」
あのお茶会のことを言っているのだ。長く旅をしてきた者たちから聞く外の話は面白かった。
その上、こんな見たこともない衣装をいただいて、まるで夢をその手にしたかのように思えたのだ。
壁にかけてある中の国の衣装は2着、1着はエリス様が「手持ちのもので申し訳ない」と言ってくださった薄い緑と青の中間のような色のもの。暑い国ではこのような色が涼しそうで目にうれしいとおっしゃっていた。
もう1着はオーサ商会のアロ会長にいただいたもの。シャンタルが中の国の衣装を大層喜ばれていたので、ちょうど彼の国から仕入れていたというものから、華やかな濃い赤の色がグラデーションになっているものであった。
どちらもシャンタルの気にいったが、ずっと着ていることはできないことから、このようにして壁にかけ、時々羽織って楽しんでいる。
「わたくしが」
と、シャンタルがひっそりと言う。
「シャンタルの座を降りて、そしてマユリアになった時、このお衣装はどうすればいいのかしら」
あまり物に執着のないシャンタルではあるが、この2着だけは自分の手元に置きたいと考えているようだった。
「それはもちろん、シャンタルがいただいた物ですから、シャンタルがお持ちになられるといいと思いますよ」
「ほんと!」
マユリアの言葉にシャンタルの目が輝く。
先代とは違う黒い瞳、それがまるで光を放つように輝いた。
「では、では、わたくしがその後マユリアの座を降りて、そして人に戻った時は?」
「その時もお持ちになられていいと思いますよ。ですが……」
今度は母がそう言ってから、少し声を落とす。
「シャンタルがラーラの元から去られる日、その日のことなのですよね。それを思うとラーラはさびしさで胸がつぶれるようです……」
「ああ、ラーラ様!」
シャンタルがラーラ様に近づき、そっと手を握って言う。
「もしもわたくしが人に戻っても、ずっとずっとラーラ様の子どもです。ああ、どうすればラーラ様をおさびしくさせずにいられるのかしら」
「まあシャンタル」
ラーラ様が感激して小さな主の手をギュッと握り返す。
「申し訳ありません、シャンタルの御心を悩ませるようなことを言ってしまいました」
「まあ、お二人とも、一体いつの話をなさっていらっしゃるのです。まるで明日にでもその日が来るように」
そう言ってマユリアがクスクスと笑った。
「マユリア……」
今度はシャンタルがマユリアをさびしそうに見た。
「ですが、マユリアが人に戻られて、わたくしがその後を継ぐ日はもうすぐ来てしまいます」
そうなのだ。託宣がなされ、次代様の存在は確認されている。後は吉日にお迎えし、交代の日を待つばかりになっている。
「お迎えにはいつ行かれるのでしょうね」
ラーラ様が小さなシャンタルの手をしっかりと握ったまま聞く。
「もうそろそろだそうですが、まだはっきりとは決まっていないようですね」
エリス様が謁見に来られた日、小さなシャンタルは初めての託宣で次代様の存在を口にされた。もうすぐ次のシャンタルが宮にお迎えされ、交代の日に向けて動き出す。
前回は二千年で初めての異質な交代であった。
なので、今回は無事に平穏な、いつも通りの交代をと皆が望んでいる。
「マユリアはどうされるのですか?」
小さなシャンタルが心配そうに聞く。
「わたくしは、一度親元へ戻ろうと思います」
「お父様とお母様のところへ?」
「ええ」
「どのような方なのでしょうね」
「ええ、どのような方なのか、お会いして、それからこの後のことを考えたいと思っております」
「ここにお戻りになることは?」
「ええ、それも考えております」
「本当!」
小さなシャンタルがうれしそうにそう言ってから、
「でも、マユリアは後宮というところに行かれるとお聞きしました」
「どなたがそのようなことを?」
「セルマが」
「セルマが……」
シャンタルにまでそのようなことを言っているのかと、ラーラ様が怒りを覚える。
「シャンタル、決まったことではないのですよ」
「そうなのですか?」
「ええ、前回、確かにマユリアにそのようなお話がありました。ですが、今回は何も決まっておりません。マユリアはご自分が好きなところにいかれればよいのです」
その「好きなところ」に自分のそばは入るのだろうか。
小さなシャンタルはそう考えたが口には出さなかった。誰に言われなくとも、自分がそう言うことでマユリアを縛るのはよくないことだ、そう思っていたからだ。
侍女部屋で聞いてしまったあの会話、自分には常のシャンタルのような力がない、特に先代と比べると何も力がないに等しい。
その日からシャンタルは、力のない自分が何かを言うのはよくないことだとそう思っていたからだ。
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