4 おかえりなさい

 トーヤは湯船の湯にゆったりと体を沈めた。


「ふう、やっぱ風呂はいいな」


 トーヤは風呂が好きだ。

 戦場にいると風呂どころか水浴びすらできない時も多い。ほこりまみれの血まみれで何日も、という時だってある。


 そんな状態からでも無事帰還し、きれいに洗い流すと自分の手が血で汚れていることすら一瞬忘れる。


 八年前、トーヤがシャンタル宮で世話になっていた時、一番うれしかったのは実は風呂であった。いつでも入れる、独り占めできる、しかも温泉だ。

 食べ物に対してはそこまで思い入れがなかったもので、逆に量が多すぎると困ったぐらいだが、風呂に関しては本当にうれしかった。


 生まれ育った娼家は場末の場末の店ではあったが、商売が商売なだけに風呂の設備だけはきちんとしていた。

 普段は浮浪児たちに混じって町中をうろついて、汚れたら海に浸かったり、町外れにある川で水浴びをしたりしていたが、時に娼婦たちの合間に風呂を使わせてもらっていたりもした。主にミーヤが暇にしていて、風呂場が空いている時であったが、石鹸で頭から足の先まで洗ってもらい、温かい湯を使えるのが本当にうれしかった。


 トーヤの出身地では、庶民の家には風呂がないことの方が多い。多くはトーヤがやっていたように川や井戸の水で水浴びをするか、料金が払える時は大衆浴場に行ったりする。家に風呂があるなど贅沢中の贅沢であった。


 戦場暮らしをしていてもそれはほとんど変わらない。傭兵になってからは、時に風呂のある施設でキャンプをすることなどもあったが、やはり戦場では水浴び程度だ。

 戦場から戻ってどこかの町の娼家などに潜り込むと、そこではお湯を使えるのもうれしかった。

 宿を選ぶ場合でも、トーヤは風呂がどうかで判断して選ぶことが多い。宿によって全然違うからだ。少しぐらいなら料金を余分に払っても風呂のしっかりした宿を選ぶ。そのぐらい風呂好きだ。


 船の上では風呂には入れないものの、たまに降るスコールで体を洗ったり、ためた水と石鹸で体を清めたりできる。それでも戦場暮らしよりはましな感じがしていた。何しろ海上では砂埃がない。


 そんな中、宮では豪華な風呂に入り放題だったのが本当にうれしかった。


 風呂桶から肩を出し、胸のあたりまで浸かる姿勢になってゆっくり目をつぶる。

 そうしてゆっくり風呂に浸かりながら、今日の午後あったことを思い出していた。


 最初は最悪だと思った。数日前、アロからあんな話を聞いてから、ずっとミーヤと再会するのを怖がっていた。そしてベルの……


「くそっ、ベルのせいであんなことになっちまったんだよな」


 思い出して心底ムカつく顔になる。悪気がなかったのは分かっているが、あのせいでどれだけ悩んだことか。それにミーヤまで泣かせてしまった。


「そうだよな、まさかダルがな」


 そうつぶやいて小さく笑う。


 冷静に考えれば、そんなことがあるはずがない。

 それに気になるなら聞いてみればよかったのだ。

 それが怖くて聞けなかった。


 だからまあ、ベルの言ったことに振り回された自分が不甲斐ないと、ちょっとだけ反省をした。


「ちときつく叩きすぎたかな……」


 そう言いながらずるずると体を滑らせ、肩まで浸かる。


 結局は誤解だと分かった。そしてミーヤも自分がベルと「できてる」と思って怒っていたと分かった。


「ってことは、だ……」


 もっとずるずる鼻の下まで潜って考える。


 そういうことなんだよ。

 そう心の中で思う。

 怒ってた理由はそういうことなんだよ。

 そう何回も考え、今度はうれしくなってきた。


 誤解が解けた後、あまり時間がなかったのでどうやって連絡を取るかだけを決めた。あのトーヤの部屋の鍵だ。 


「鍵穴を横にしとく」

「横にですか?」

「ああ、あの鍵穴、普通は縦だろ? 鍵を開けた後なら緩めて横にしとけるから、その時は中にいるか、いなかったら手紙を置いとくってことにする」

「それはいいですが……」


 そう言ってミーヤが少し眉をひそめる。


「どうやって開けてるんです?」

「いや、まあ、そこはこの際目をつぶってくれよ」


 片目を閉じ、左手の人差し指を口に当て、内緒だという風にしてみせる。


「仕方ないですね、状況が状況ですし」


 ミーヤもふうっと息を吐き、黙認してくれることになった。


「助かるよ」

「他ではやらないでくださいね?」


 釘を刺される。


「分かってるよ。だからベルには教えてねえしな」

 

 冗談めかして言う。


 そうして細かいこをといくつか決め、順番に部屋から出ることになった。

 

 外の様子を見ながら先にミーヤが部屋から出ることにした。あまりに長く部屋を開けると、何かがあった時にまずいかも知れない。


「本当は私が鍵を閉めたかったんですけどね」


 そう言ってちょっとトーヤを睨む。


 そうしてドアに手をかけてから、


「あ……」


 もう一度手を放して戻ってきた。


「なんだ、なんかあるのか?」

「ええ、忘れてました」


 ミーヤは一度目をつぶり、ゆっくりと開けるとトーヤを見上げ、にっこりと笑ってこう言った。


「おかえりなさい」


 思い出しながら、トーヤはどうすればいいか分からなくなり、ブクブクと頭まで湯に浸かってしまった。

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