紙片 3枚目:I’m not Alice.


 あの瞬間、あの記憶を、オレは嫌という程に鮮明に覚えている。絵を描くのが下手なオレでも、忠実に再現ができそうなほど鮮明に、自身の脳にこびりついて離れない記憶。



「『なに、これ?どういうこと?』と思ったアリスは、ウサギを追って野原を走り出し、ちょうどウサギが生垣の下の大きな巣穴にぴょーんと飛び込むところを見届けました。

次の瞬間、アリスも飛び込んでいました。

一体どうやってまた出てこられるかなんてちっとも考えずに。


 …もしぼくたちがアリスと白ウサギなら、どっちがアリスだろうか。」


 オレの双子の片割れ、時司光春(コハル)は、徐に、彼女の双子の片割れであるオレ、時司光春(ミハル)に問いかけました。




"I'm not Alice."




「……オレでしょう。ずっとコハルのことを追いかけてるんですから。」


 オレたちは、顔がよく似た、典型的なミラーツインズでした。

 優秀でなんでもできる人柄の良いコハル。頭はわるいし、何をやってもうまくいかない、ひねくれたオレ。そんなコハルを、ずっと追いかけてきました。後ろについて、ずっと。

 それが苦であったわけではありません。

 優秀な子供である“時司光春”が大好きだった両親はコハルを愛していました。しかし、まるで不要物のように捨て置かれているそんなオレを、コハルは愛してくれましたから。


「……………。そうだね。そうかもしれない。」


 そういって、徐にコハルは靴を脱ぎました。

 高文連も間近に迫った美術室。だというのに、他の美術部員は皆おらず、コハルとミハル、ただ2人だけ。というのも、作品が終わらなさすぎるので、皆作品を家に持ち帰り、缶詰をしているんですよね。

 夕日の差し込む8月のこの教室はしっかり暑くて。気分だけで風の入らない網戸になった窓に。コハルは手をかけカラカラ。


「アリスは白うさぎを追いかけて、うさぎの巣穴に飛び込みました。」


 コハルは靴を放り投げて、その窓に足をかけました。


「なんてね。」


 あの瞬間、あの記憶を、オレは嫌という程に鮮明に覚えている。絵を描くのが下手なオレでも、忠実に再現ができそうなほど鮮明に、自身の脳にこびりついて離れない記憶。


 靴紐をたゆたせ舞う放り投げられた上靴。

 ウサギみたいにふわふわと舞う愛しい彼女の髪。

 大好きな、大好きな片割れの笑顔を携えた顔。


「ま」

「っ」

「て」


『次の瞬間、アリスも飛び込んでいました。』


『一体どうやってまた出てこられるかなんてちっとも考えずに。』




「…もしぼくたちがアリスと白ウサギなら、どっちがアリスだろうか。」

 なぜ彼女があのような質問をオレに投げかけたのか。その正しい解はなんだったのか。

 いまだにオレには、わからないままでした。


「お早う、”光春(コハル)”。」


 目が覚めた。

 蛍光灯の明かりが久々に視界に入り、眩しい。4階からコハルと共に落下し、地面に叩きつけられたオレは、目を覚ましました。


 時司 光春(コハル) として。


 オレたちの生死の事実は、捻じ曲げられていました。コハルは打ち所が悪く、4階という高さからでも死亡。ミハルは打ち所がよく、4階という高さからでも骨折といくつかの内臓破損で済んでしまったのです。

 しかし気がつけば、死亡したのは「時司 光春(ミハル)」、そう処理されていました。自分が死んで、コハルが生きていることになっていたのです。

 何故両親は、オレ2人に同じ漢字で「光春」という名前を与えたのでしょうか。それは、両親としては、"優秀な子供がいる"という概念が存在すればよかったからなのです。一人の、そう行った概念の子供がいれば。

 それからというもの、両親は今まで自分に向けたことのないような笑顔を向け、自分が優秀になるように育て始めましたた。

 本当のコハルは、いなかったことになってしまったのです。死んでしまったから。

 そうして、オレが、コハルになったのです。


 ドロドロとした感情、グラグラと揺れる視界。あれ日からずっと、自分が生きているのかも死んでいるのかもわからないまま、コハルの死体の皮を被って生かされている。

 無性器障害を持っていたオレたちは肉体の作りも良く似ていて。彼女と同じように髪を伸ばしたオレは、どこからどう見てもコハル、でした。そこにある精神なんて、どうでもいい。そう。ただのテセウスの船。


 どうか、どうかまた、オレはいきなければなりません。ただの死体になったオレは、もう足なんてなくて。立つこともままなりません。

 でも、またいきて、立ち上がらなければならないのです。

 アリスがいない物語なんて、不思議の国のアリスじゃありませんから。

 先に巣穴へ落ちて行った白ウサギを、追いかけなくちゃ。

 だって、ウサギは寂しいと死んじゃうでしょう。


 だからこそ、またいきて、立ち上がって一歩を踏み出すんです。

 そして、強く、地面を蹴って。

 今度こそ。


 一緒に死にましょう、コハル。



─ 現代童話 / Next page

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Notes 漂本 @N2_0328

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