第112話 アビスフォートの獄囚 ②

 ダズリンヒルの北方、険しい山間部に築かれた、広大な監獄。それがアビスフォートである。

 堅牢な石塀に四方を囲まれ、たとえそこを乗り越えたとしても、周辺は見渡す限り、草木の乏しい岩山だ。逃亡は難しいだろう――人間には。


 しかし、現在エイダンをぶら下げている者は、人間ではない。翼を持ち、夜陰に紛れて音もなく飛行出来る。


「流石に警備が厳重だな。各棟の屋上にも二人ずつか」


 エイダンには薄らとした篝火かがりびしか見えないが、グリゴラシュの目は、闇の中をはっきりと見通せるらしい。恐らく警備の目を搔い潜る経路で、砦の周囲を旋回すると、彼は南側にそびえる一際ひときわ高い塔の屋上へと、ひっそり降り立った。


「寒い。帰りたい」


 煉瓦造りの床に両足がつくなり、エイダンは二の腕を擦り、ぶつくさと零す。


「黙ってろ。見つかるぞ」

「見つかったらダズリンヒルに帰して貰うけん……」


 これはどう考えても誘拐であり、不法侵入だ。善良な市民としてエイダンが取るべき行動は、正規軍に保護を求める事である。……その正規軍にも、以前誘拐された気がするが。さらわれやすい体質なのだろうか?


「そいつは駄目だ」


 エイダンの思考は、グリゴラシュのにべもない一言で打ち切られた。見れば、彼は翼を畳み、人間の若者の姿に戻っている。施設に忍び込むのに、翼と角の生えた大男のままでは不便と判断したのだろう。


「見張りが来る。ここで少し待ってな」

「え――」


 引き止める暇もなく、暗闇の向こうにグリゴラシュの姿が消えてしまい、エイダンは困惑する。こう暗くては、たとえ待つなと言われた所で身動き出来ない。

 が、周囲に目を凝らしているうちに、遠くからランタンの灯りが近づいてきた。あれが、見張りの兵士だろうか。

 エイダンがそちらに足を踏み出そうとした途端、不意に光が大きく揺れた。重い物の倒れる音が、二度ばかり響く。


「出てきていいぞ。片づけた」


 間を置かず、グリゴラシュの呼びかけが飛んできた。


「な、何しとんさる!?」


 エイダンは、泡を喰って灯りの元へと駆け寄る。

 予想通り、夜間警備中だったと思われる兵士二名がそこに倒れていた。急いで具合をたが、呼吸も脈拍も穏やかで正常だ。


「何だよ、無闇に殺したりする訳ないだろ。眠らせただけだ」


 安堵したエイダンを、むすっとした顔でグリゴラシュは見下ろし、兵士から奪い取ったランタンを、「ほら、持て」と突きつける。


「暗くなると何も見えないってんだから、人間は不便だよな。それより、これで分かったか?」

「……なんが?」

「闘技祭では手加減して、わざと負けてやっただけだ。俺が本気を出せば、人間なんかに負けるって事はあり得ないんだからな」


 思わぬ物言いに、エイダンは面食らい、「はぁ」と気の抜けた相槌を打った。

 ひょっとしてこのグリゴラシュという魔物モンスターは、外見の印象よりも大分幼い人格の持ち主なのだろうか。そういえば、コヨイにも年齢不詳なところがある。


「何だグリゴラシュ。まだその件でへそを曲げていたのか?」


 声と共に、とばりからすり抜けるようにして、夜空からヴァンス・ダラが姿を現した。

 コヨイも、彼の隣に控えている。


 ――という事は、サングスターは振り切られてしまったのだろう。


 無事でいれば良いのだが、とエイダンは不安を覚えた。

 ヴァンス・ダラやコヨイからは、別段残忍で狂暴な印象は受けないのだが、如何せん埒外の力の持ち主ゆえに、どんぶり勘定で大雑把な面がある。骨折くらいまではかすり傷だと考えていそうだ。


「当たり前だろ。俺はもっと全力で楽しみたかったのに、父上のうっかりで」

「この姿の事か? ……悪かった、そう膨れてくれるな。ギデオンが観覧に来るとは思わなかったものでな」


 苦笑を漏らしてから、ヴァンス・ダラはアビゲイルの姿に変わり、三角帽子を下げてみせる。


「あのう」


 父子水入らずの会話に、横槍を入れるのもどうかと思えたが、エイダンは遠慮がちに挙手をして発言した。


「ほんで、ヴァンス・ダラさんらは、ここに何の用で来んさったん? 何で俺まで連れて?」


 ヴァンス・ダラがエイダンの方へと向き直る。同時に、彼は男の姿へと戻った。どうもこの早変わりには慣れない。


「知れた事だ。我々は、正規軍にいくらかの伝手つてがあってな。このアビスフォートに、カリドゥス・カラカルなる男が囚われていると聞いた。今回の事件の首謀者として」

「軍の内部に伝手があるって、大分えらい事……いや、今はええわ。確かにカリドゥスさん、逮捕されてここにおるらしいですね」

「彼を脱獄させる」

「はぁ、そがぁにごうげな……ええっ!?」


 数拍遅れてからエイダンが目を丸くして叫ぶと、「声が大きいヨ、エイダンくん」とコヨイに注意された。


「いやいや、いけんよそんなん。犯罪です」

「それがどうかしたか?」

「……」


 さらりと返され、エイダンは文字通り閉口する。

 遵法精神を持ち合わせず、しかもそれで不都合が起きないくらいに強靭な人間を説得出来る程、彼は弁が立つ訳ではない。


「エイダン・フォーリー」


 と、ヴァンス・ダラは、生徒を指導する教師のような調子で説いた。


「俺はお前に敬意を表して、首都ダズリンヒルの戦いの幕引きを担った。貧民街の民草は救われ、一方、蛇身の悪王アジ・ダハーカはほふられた」

「はい。あれは、ほんまに助かりました。あんがとうございます」

「しかし、これでは身贔屓みびいきが過ぎるだろう。結果的に、シルヴァミストの貴族共を利するばかりというのも気に食わん。少しは均衡を保たねば」

「えっ、じゃけぇて、カリドゥスさんを逃がすん?」


 カリドゥスは、エイダンの目の前でホウゲツを殺そうとした男だ。エイダン自身も危ない所だった。無罪放免にして安全な相手だとは思えない。

 その過去に、同情すべき点があったとしても。


「もう少しの間、贔屓にしてくれるちゅう訳にはいかんですか。俺らを……いんや、この国の人らを」


 ヴァンス・ダラがその気になれば、自分など何の抑止にもならないと分かってはいたが、エイダンは真剣に訴えた。

 するとヴァンス・ダラが、くっく、と低い笑いを漏らす。


「お前は全く、お行儀の良い事だな。俺が認める程の魔力と胆力を秘めながら何故、国だの人だのに忠義を捧げている」

「な、何を言うて――」

「まあ、良い。引き止めたいならば、ついて来い」


 黒いローブの裾を翻して、ヴァンス・ダラは石造りの屋上を歩き始める。

 今一つ、人の話を聞いているのかいないのか分からないマイペースぶりは、相変わらずだ。エイダンは困り果てながらも、とにかく彼の後を追った。


 前方に扉が見えたかと思うと、音もなくそれが開く。

 扉には鉄製の錠が下がっているように見えるが、ヴァンス・ダラがどうにかして壊したのだろう。最早彼のなす事にいちいち驚きたくない、とエイダンは疲れた頭の隅で考える。

 眼前にあるのは、外よりも更に暗い、監獄への入口。


 ――とにかく、彼らに付き合うしかなさそうだ。


 エイダンはランタンを掲げ、一呼吸ついて長杖を持ち直し、屋内への一歩を踏み出した。



   ◇



 塔の中を少し見て回るだけでも、この監獄が、相当な凶悪犯を収容するのに使われてきた事はすぐに推察出来た。

 独房の一つ一つに、複数の加護石が仕掛けられている。障壁結界と、魔術を無効化する呪術が篭められているらしい。牢を閉ざす鉄格子自体も頑強だ。


 そしてエイダンは――ヴァンス・ダラの先導に従い、最奥の独房にあっさりと侵入してしまった。


 牢内の寝台にぼんやりと腰掛けていたカリドゥスは、突然現れた一行に、流石に驚いた風だった。


「……お前は」


 一行の最後尾に所在なく突っ立つエイダンを、カリドゥスが睨みつける。どうやら、顔を覚えられていたらしい。

 今の彼は長い髪を下ろしていて、服装は上下とも、生成きなりの簡素な衣服となっていた。右腕の特徴的な籠手も外されている。

 前に遭遇した時より、いくらか顔色が悪いようにも見えた。それはエイダンも、お互い様かもしれないが。


「カリドゥス・カラカルだな?」

「そういうそっちは――」


 ヴァンス・ダラから名を呼ばれたカリドゥスは、目の前の黒衣の魔術士と、左右に控える男女に視線を投げ、再度口を開いた。


「まさか、アジ・ダハーカを殺した……魔杖将まじょうしょうか?」


 言うなり彼は、意外にも冷めた笑みを口の端に浮かべる。


「取り調べの役人が、俺を自白させるために適当なホラでも吹いてんのかと思ってたが。本当にいたのかよ」

「アナタも、魔杖将の事は知ってるのネ? 流石お父様ネ!」


 コヨイがはしゃいだ声を上げ、カリドゥスはやはり冷淡な目を彼女に向けた。


「何なんだよ、ぞろぞろと。俺の命も奪いに来たのか? ……どうせ待ってりゃ処刑だぜ」


 カリドゥスは肩を竦め、右脚を庇うような仕草で寝台に乗り上げ直した。マディが彼の脚を射抜いたと言っていたのを、エイダンは思い出す。まだその時の傷は、完治していないらしい。


「しかも、何だってその治癒術士ヒーラーがいるんだ。お前、伝説の闇の魔術士の仲間だったのか?」


 そんな大物には見えないが、とカリドゥスがエイダンをじろじろと観察する。エイダンは急いで首を横に振った。


「んなっ、しゃきらもなぁ。俺だって何で自分がここにおるんか、分からんのじゃって」


 そう主張すると、カリドゥスはふんと鼻先で相槌を打ってから、剣呑に両目を細める。

 瞬き程の間に、手負いの囚人は、獲物を前にした獣へと顔つきを変えていた。


「と、すると……手土産か? 丁度、処刑台への道連れが欲しかった所だ。今この状態でも、そいつ一人くらいなられるぞ」


 その言葉は冗談でも脅しでもなさそうだった。そして実際、今すぐに相手が飛びかかって来たとしたら、エイダンの方が不利だ。


 エイダンが一歩、後退すると、コヨイが膨れっ面で二人の間に割って入った。


「チョット、エイダンくんどうするつもりヨ。お父様! ワタシ、やっぱりこの人嫌いネ」

「落ち着け、コヨイよ。カリドゥス・カラカル、お前もそう殺気を剥き出しにするな」


 ヴァンス・ダラが鷹揚な態度で場を宥める。とはいえ、この状況を作り出した張本人は彼なのだが。

 いい加減真意を明かして欲しい、とエイダンは、最強にして気まぐれな闇の魔術士の横顔を見上げた。


「ここから出たいか?」


 前触れもなく、ヴァンス・ダラの問う声が牢内に響く。

 無論、カリドゥスに向けられたものだ。

 カリドゥスは僅かに困惑の色を覗かせたが、すぐにまた冷え切った目つきに戻り、石の壁へと、無気力に背を預けた。


「逃がしてくれようってのか。……ここを出て、それでどうなる」


 疲れ果てたような、投げやりな声色だ。


「生きる気があるなら生かしてやる」


 対するヴァンス・ダラの回答は明朗である。

 そして彼は何を思ってか、携えていた長杖を大きく掲げ、とん、と床を突いた。そのまま、片手を離す。


 当然、杖は支えを失い床に倒れる――かと思いきや、そうはならない。先端は細まり、明らかに直立するような形状ではないのだが、まるで自らの意志を持つかのごとく、いびつな杖はそこに立ち続けている。


「――?」


 エイダンは我が目を疑って、ランタンをかざした。

 いささか頼りない灯りの向こうに、長大な杖の影が伸びている。鎌を思わせる異様な頭部の装飾と、刃の付け根に当たる箇所に嵌め込まれた、赤々とした加護石。


 人の拳よりもう少し大振りの、その加護石が、突如としてと蠢いた。


 ランタンの火が揺れたせいで錯覚を起こしたのかと、エイダンは目を瞬かせる。

 しかし違った。

 あれは宝石ではない。眼球だ。成分としては石製なのかもしれないが、とにかく生き物の眼として機能し、その奥から何者かの意識が、


「あっ――」


 我知らず、エイダンの喉奥から声が漏れ出た。


「これなるは」


 エイダンの反応が愉快だったのか、ヴァンス・ダラはいくらか芝居がかった調子で、手の平を上向けて杖を示してみせる。


「闇の精霊王、ダラ。自由と混沌を司る、原初の魔女だ」


 ――精霊王。精霊王ダラ?


 エイダンは頭の中で、何度かその文言を繰り返した。


 ……この世の自然とことわりつかさどる不可視の種族、精霊。そのおやが精霊王と呼ばれる存在だ。人々の祈りの対象でもあり、エイダンはつい先月、故郷で水の精霊王カルを祭る伝統行事に参加したばかりである。


 ――ダラという名には、覚えがある。


 祭りの終わったあの日、『男爵文庫』で開いた古い叙事詩の本に記されていた。風の精霊王イーナンの語った、愚昧なる人間の王にして、最初の闇の魔術士……そう、ダラとは、人間だったはずではないか。


「ヴァンスとは、古代ディナ語で『将』を意味する」


 闇の魔術士の語りは続く。


「ヴァンス・ダラとは、“精霊王ダラ”そのものたる『魔杖まじょう』を守り、仕えるもの。俺は我が主君の、ただ一人の将という訳だ」


 この事態は、あまりにも予想の範疇を超えていたのか、カリドゥスですら言葉を失い、呆然と牢の中央に立つ杖を見つめるばかりだ。


「が……この肉体も、そう長くはもたんのでな。エイダン・フォーリー、並びにカリドゥス・カラカル」


 ヴァンス・ダラの声に呼応するかのように、魔杖の赤い眼が、エイダンとカリドゥスを捉えた。


「お前達のうちどちらかに、いずれ魔杖将の称号を継がせたいと――そう俺は考えている」

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