第111話 アビスフォートの獄囚 ①
全ての用件が済んだので、シェーナ達は粛々と帰路についた。
ビビアンも、外で待機していた数人の警備兵と共に馬車へと乗り込む。
一度、エイダンの方を振り向いた彼女の表情からは、既に少女らしさは消え失せ、貴族然とした
「ではな、エイダン・フォーリー。式典まで療養せよ」
「はいっ……」
ぎこちなく頭を下げるエイダンに、もう一言、皇帝は付け加える。
「そなたを慕う者を、
「……?」
何の話だろう、皆に心配をかけた事を言っているのか、とエイダンが顔を上げた時には、もう彼女の姿はビロードのカーテンの向こうに隠れていた。
最後にクロエが周囲を確認して、黒々とした重厚な馬車の扉は閉められる。
馬車が去っていくと、そこで緊張の糸が切れてしまい、エイダンはしばし、ぼうっとその場に立ち尽くした。
ふと横を見れば、思いがけないくらいすぐ
「ん、あれっ。陛……ビビアン様と一緒には帰られんのですか」
「同じ馬車に乗る訳がないだろう」
呆れ顔で返され、それもそうか、とエイダンは納得する。皇帝の乗り物は、押し合い
「それに、私は君にまだ聞きたい事がある。――ごく個人的に」
と、サングスターは声を潜めて言う。
エイダンは少しの間考えてから、口を開いた。
「俺が会った……ヴァンス・ダラさんの事ですか」
エイダンから顔を逸らし、ごく短い間、闇夜の先を見つめたサングスターは、きびきびとした挙動で爪先を返した。
「病室に戻りながら話そう。すぐに済む」
◇
「
「はい。そんでコヨイさんも出てきて、チーム・サウスティモンの皆は
階段を上りながらそこまで語って、エイダンはふと、闘技祭選手の面々を思い出した。
「そういや、闘技祭は結局どがぁしたんでしょうか。決勝戦は台無しになってしもうたし、選手に
「何だ。そこは聞かされていなかったのか」
「へ?」
「大会は無効になっていない。決勝戦を戦う予定だった、ホワイトフェザー騎士団と北新町魔道管理局警備隊は、アジ・ダハーカの襲撃から観客を守り抜き、市民を安全に誘導した事を評価され、両チーム共に優勝旗と勲章を贈呈される運びとなった。……煮え切らない所はあるだろうが、アリーナは修繕中だし、まあ、民衆も概ねは納得している」
「そがぁでしたか。ほんじゃあ、モーガンさんだとか騎士団の人らも
「幸いにな」
エイダンはほっと息を吐いた。
あの騒動だ。犠牲者ゼロとは行かなかっただろうが、最小限に留められたらしい。
見舞いに来たシェーナ達が、この件についてあまり具体的な話をしなかったのは、恐らくエイダンを気遣っての事だと思われた。その話題になれば、最終的に一体何人の犠牲者が出たのか、エイダンは思いを馳せずにはいられなかっただろう。
そんなエイダンを、サングスターはどこか複雑な眼差しで見つめる。
「成る程、そうか……君は彼に似ているのだな」
「え、何です?」
エイダンはきょとんと振り仰いだが、相手は黙って首を振るばかりだ。
「ところで」
俄かに、サングスターは姿勢を正して問う。
「アビゲイル・スウィンバーン――君が目にしたヴァンス・ダラの姿形について。
「姿、ですか?」
疲労から息が上がってきたので、エイダンは踊り場の窓辺で一旦休憩を取った。彼の病室は三階にある。そこまでの階段を一気に上がりきる体力と脚力が、情けない事にまだ戻っていない。
「えー、二十歳くらいの女の人で……亜麻色ちゅうんですかね、こういう感じの肩くらいまでの髪で、背はあんまり
「そうか。やはり彼女の姿か」
眉間に深い皺を刻んで腕を組むサングスターに、エイダンは戸惑いを覚える。
「あの格好のヴァンス・ダラさんの事、知っとんさるんですか? ……あの人じゃったら変装とか変身とか、なんぼでも出来そうじゃけども」
「変身――とは、異なる。正確に言えば」
「っちゅうと……」
「アビゲイル・スウィンバーンという人間は実在する。いや、かつて存在した。彼女は……五十年前に我々が戦って殺した、ヴァンス・ダラだ」
サングスターの口調は先程よりも明快だったが、エイダンが彼のその言葉を飲み込むまでには、随分と時間を要した。
「……あの……それは何かの、例えちゅうか、比喩?」
「いや、事実そのままだ。五十年前、我々はヴァンス・ダラの討伐を正規軍から依頼され、それを果たした。リュート・カルホーンという男を知っているかね?」
――リュート・カルホーン。
エイダンはその名前を、勿論知っている。
イニシュカ小学校の歴史の授業で、彼について習った。聖暦九七二年に没した、シルヴァミストの偉人だ。
確か、イニシュカ島の『男爵文庫』で見つけた本に、肖像画も載っていた。
そういえば、イマジナリー・リードが言っていた――とエイダンは彼との会話を思い起こす。リュート・カルホーンとギデオン・リー・サングスターは、旅の仲間だった時期があると。
「はい、学校で習いました。白雪の勇者リュート。ヴァンス・ダラと魔物の軍団の侵攻を止めた人じゃね」
「そうだ。あの時、ヴァンス・ダラは北の地で確かに死んだ。勇者リュートと、相打ちとなってな」
「相打ち……じゃったんですか」
小さく唾を飲んで、エイダンは応じた。
サングスターは、一体何を語ろうとしているのだろう。ヴァンス・ダラが五十年前に死んだ、とは? かの闇の魔術士の年齢は、四百歳を超えるという話ではなかったか。度々永い眠りの時を挟んでは目覚め、シルヴァミストに災いをもたらし続けているのではないか。
話に集中していたエイダンは、窓の外から近づいて来る、微かな物音に気づかなかった。
いや、本来注意を払う必要などないのだ。ここは三階に向かう途中の踊り場である。簡単には侵入出来ないはずの場所だった。
唐突に、ばたんと鎧戸が開かれた。エイダンは仰天して背後を振り仰ぐ。
「うひゃっ!?」
「おう、いたな」
何でもないような仕草で、窓の中へと首を突っ込んできたその男の顔に、エイダンは見覚えがあった。
「あっ――あんた、グレンさん!?」
逆立った短い黒髪に、色白の面立ち。間違いない。チーム・サウスティモンの
「な……っ! チーム・サウスティモンだと!?
驚きに目を瞠りつつも、サングスターがすかさず、愛用の杖を取って身構える。
グレンはサングスターの姿を目に止めて、軽く片眉を跳ね上げたものの、怯むでもなく後方へと呼びかけた。
「父上、コヨイ。エイダンって奴は見つけたが、掻っ
「邪魔? お兄様、どうしたのネ?」
窓枠に足をかけてしゃがみ込むグレンの脇から、ひょっこりとコヨイが顔を出す。狼ではなく、東洋人の若い娘の姿である。
「コヨイさん!」
いよいよエイダンは、慌てふためいた。
今、コヨイはグレンに向けて、お兄様と呼びかけた。つまりグレンもまた、ヴァンス・ダラの『子』なのか。コヨイと同じく、養子だろうか?
いやそんな事より、まずい事態だ。ここは多数の入院患者のいる治療院。騒動が起きては困る。かといって、
「アッ。アナタ、正規軍の偉い人ネ。お父様の知り合いの、イヤーな人」
「貴様は……コヨイ・サビナンドか。という事はこの場に奴も――」
コヨイとサングスターが、瞬間的に睨み合い、それからサングスターは、さっと周囲に視線を巡らせる。
「無論、俺もいるとも。ギデオン」
愉快そうな声が上から降ってきた。サングスターとエイダンは、同時に首を上向ける。
いつの間にどうやって侵入したのか。階段の上に、ヴァンス・ダラが陣取っていた。アビゲイルではなく、鎌に似た長杖を
「ヴァンス・ダラ……!」
サングスターがエイダンの前に立ち、油断なく身構えた。
対するヴァンス・ダラの階段を下る歩みは、悠然としたものである。いつかのライタスフォートで、彼に初めて遭遇した時の景色が、エイダンの脳裏に浮かんだ。
「コヨイ、グリゴラシュ」
ヴァンス・ダラが、窓辺に立つ二人に向けてそう呼びかける。
「エイダン・フォーリーを連れて先に行け。ギデオンは俺が押さえる」
「ハァーイ!」
「しっかたないな、父上は……」
元気の良い返答を寄越したコヨイとは対照的に、グレン――ヴァンス・ダラからは『グリゴラシュ』と呼ばれた――は、はあ、と溜息を一つ吐いてから、エイダンの腕を無造作に掴む。
「えっ。どっか行くん? ちょい、困るんじゃけど。俺入院中で……もうじき消灯時間じゃ」
「気にするな。危害を加えようってんじゃないし、お前は一歩も歩かなくていい」
エイダンの腕を取るグレンは、気のない口調でそう言うと、突如、犬が毛についた水気でも払うかのように、軽く全身を震わせた。
途端、彼の背中から、巨大な翼が生える。
エイダンは唖然としてその変容ぶりを観察した。背には翼、側頭部には捻じ曲がった一対の角、そして下半身は毛皮に覆われ、足先に蹄が付いている。
身長は
――これがグレンの……否、ヴァンス・ダラの息子、グリゴラシュの正体か。
息を呑んで固まるエイダンの身を、グリゴラシュはあっさりと、窓から外に引っ張り出した。そのまま翼を広げて飛び立ったものだから、ぶら下げられたエイダンとしては堪らない。
「うわっ、ちょっ待っ……浮いとる、下ろして」
「待て! 彼をどうする気だ!」
サングスターが杖を振りかざし、輝く多面体を創り出す。しかし、彼の光の魔術が放たれるより先に、横合いから黒い風の刃が迫り、多面体を弾き飛ばしてしまった。
見ればヴァンス・ダラが、またもやいつの間にか、窓の外の虚空に浮かんで長杖を構えている。
「ギデオンよ、我が息子グリゴラシュの申したとおりだ。危害を加える算段ではない」
「貴様の言葉が信じられるものか、ヴァンス・ダラ――いや――」
憤り混じりの呼気の後、サングスターはヴァンス・ダラに向けて叫んだ。
「バーソロミュー! その若者にリュートの影を見出しているのなら、そんな妄執は捨て去れ。彼は死んだ、そして時代は変わったのだ!」
ふっと、ヴァンス・ダラの顔に何らかの感情が
しかし、その感情の正体までは判別出来ない。怒りか悲しみか、
一旦、表情を削ぎ落としたヴァンス・ダラは、またいつもの人を喰ったような、口の端だけの笑みを浮かべる。
「お前が言えた義理か、ギデオン。今更死者の名など呼ぶな。……こいつは、夜明けまでには無事に返す。そこで待っていろ」
一方的に告げるなり、ヴァンス・ダラはグリゴラシュの方に首を向けた。彼の視線に促される形で、有翼の魔物はエイダンを引っ提げて、高空へと舞い上がる。
「一気に行くぞ。父上とコヨイも、すぐに追いつく」
「いっ、行くって、どこへ!?」
季節は真夏だが、高速で飛んでいるためか、凍える程に寒い。歯の根の合わない状態で、エイダンは問い質した。
「アビスフォートとか呼ばれてたか。人間の築いた牢獄だ」
「ア――アビスフォート、いうたら――」
「カリドゥス・カラカルって奴が、そこにいるんだろ? 俺らはそいつに用がある」
グリゴラシュの言葉に嘘はないようだった。彼らは一直線に、北へと向かっている。
振り向けば、ダズリンヒルの街の明かりも、皇帝の住まう宮殿の灯火も、既に遥か遠い。
前方には、高々とした峰影が見えてきた。
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