第83話 幕開けの夜は更けて ①

 イーファ・オコナーの胸中は、極めて複雑な状態だった。


 ――都会は楽しい。


 まず素直に、彼女はそう思っている。

 蒼薊闘技祭そうけいとうぎさい、この盛大なこと! イニシュカの村祭りとは、まるで別物だ。

 こんなにも多彩な魔術を間近で見たのは、言うまでもなく初めてである。冒険物語の中に入り込んだかのようで、ただただ呆然と眺めていたら、あっという間に初日の試合が終わってしまった。

 あのホワイトフェザー騎士団の凛々しさ。物語を作るなら、あんな英雄達を題材にしたい。今すぐにでも、取材に向かいたい気分だ。


 しかし一方で、イーファは自分の世間知らずぶりにうんざりし、憂鬱にもなっていた。


 今、彼女は本日二杯目となる、レモネードを飲んでいる。

 こんな刺激的な飲料は、イニシュカ島にはない。少なくともイーファにとっては、未知の味だった。

 しかし、おっかなびっくり瓜型の小瓶に口をつけるイーファを尻目に、周りのきらびやかな貴婦人達は、当たり前のような表情で、この奇跡の飲料を歓談の供にしている。


 それに、おやつに食べた謎めいた菓子。小麦粉か何かの生地を揚げて、砂糖をまぶしてあるようだったが、名前も正体も分からない。ラズエイア大陸で生まれた菓子らしく、看板に書いてある商品名が読めなかった。

 これがまた、信じがたいほど甘くて、フワフワのサクサクで、美味なのである。

 イーファは今まで、エイダンの祖母ブリジットが、祝い事の時などに作ってくれる、『あんずパン』という菓子が、この世で最も偉大な甘味かんみだと思っていた。が、首都に来て早々に、それに匹敵する菓子を発見してしまった。

 恐らくダズリンヒルには、もっと珍しく、素晴らしいものが、そこらじゅうに転がっているに違いない。


 そしてこれらの体験は、イーファが何もない田舎で育った、世間知らずの子供である事を意味していた。


 他の観客は皆、洗練されたお洒落な服を着て、お洒落なスイーツを食べて、最先端の話題について意見を述べ合い、笑い合っている。

 姉のお下がりの、普段着で来場してしまった自分の場違いぶりが、どうにも恥ずかしい。


 エイダンは、一年余りをアンバーセットなる大都市で過ごしたという。この羞恥しゅうちや屈辱感を、どう乗り越えたのだろうか? ……呑気者の多いイニシュカ島民の中でも、特にのほほんとした性格だから、そもそも気にならなかったのか?


 はあ、とイーファは、空になったレモネードの瓶を前に、溜息をついた。

 つい先程、初日のプログラムが全て終わったばかりの会場内は、まだ熱気に包まれている。帰路につく者もちらほらといるが、もうしばらく、観客席は賑わったままだろう。


「……エイダン兄さん、まだかいな」


 イーファは足をぶらつかせ、それから、ぽつりと呟く。


「母ちゃんのご飯が食べたい……」


 何もない、つまらない辺境――と、頭の中で散々罵りながらも、矛盾した事に、イーファは故郷を離れてものの数日で、深刻なホームシックを患ってしまっている。

 何しろ、こんなにも長期間家に帰らなかった事は、今までになかった。

 両親に会いたい。口煩くちうるさい兄や唐変木とうへんぼくの弟に会いたい。毛玉まみれの自分の毛布を被って、自分の寝床で、島の浜辺に寄せる波の音を聞きながら眠りたい。


 ――それこそ、まるきり子供の考えだ。

 都会の洗練された大人は、矛盾した思考など持たないはずだ。両親を恋しがってめそめそしたりもしない。……多分、しないと思う。どうなのだろう。


 堂々巡りし始めた思考を振り払い、唐突に、イーファはすっくと立ち上がった。


「ああもう。トイレ行きたい」


 レモネードを飲み過ぎた。


 第一試合はかなり一方的な展開となったが、先程の第二試合は、乱戦に近く、双方のチームに負傷者が多く出た。エイダンは忙しく、当分救護室からは出られないだろう。

 今のうちに、くさくさした気分を晴らしておきたい。


 イーファは観客達の間を抜け、客席の階段を下って行った。



   ◇



 人が多いというのも、考えものである。

 試合が終わった直後のためだろうか、トイレは随分と、客でごった返していた。

 トイレが混雑。こんな光景、イニシュカ島であり得るだろうか? 驚くべき事態だ。


 イーファは諦めて、他の場所を探す事にした。

 困ったら警備兵に話しかけて、救護室まで来るようにと、エイダンが言っていたから、そうしてしまおうかとも考える。……しかし、子供扱いしてくるエイダンに、不貞腐れた態度を取ってしまったので、頼りづらい所もある。


 悩みながら、あてもなく廊下を歩いているうちに、人気の少ない場所に来てしまった。警備兵の姿もない。まさかこんな文化遺産の中の、適当な片隅で用を足す訳にも行かないし、どうしたものかと困り果てる。


 その時不意に、背後から声がかかった。


「そなた!」

「うひゃあっ!?」


 飛び上がるほど驚いて、声の方を振り返る。

 廊下の先に立っていたのは、イーファと同じくらいの年頃の少女だった。

 丁寧に巻かれたブルネットが、深い緑色の上質なドレスに、あつらえたように似合っている。卵型の滑らかな輪郭はまだ子供っぽいが、意志の強そうな、ぱっちりとした瞳が印象的で、どこか他者を見極めるのに慣れたような、大人の女の眼差しだと感じた。


「今、ここを蛇が通らなんだか? 金細工のごとく、美しい模様の珍しい蛇じゃ」


 勢い込んで、少女はたずねる。

 しかし、イーファはその期待に満ちた目に応えられなかった。蛇など目撃してはいないし、こんな場所にそんな生き物がいるとも思えない。イニシュカ島の畦道あぜみちではないのだ。


「蛇。見とらんよ、そんなん」


 おかしな子だなあ、と首を傾げながらイーファが回答したところ、少女はむっと口を尖らせた。


「そなた、疑っておるな? の――この私の言葉を!」

「べっ……別に、疑うちゅう程じゃなぁけど。ほんまに見とらんもん!」


 イーファも、負けじと膨れっ面で応戦する。

 すると少女は、ころりと表情を変え、今度は華やかな笑顔を見せた。


「いや、良い。そなた、私の名が分からぬと見える」

「はあ? そら、知らんよ!」


 いよいよ、変な子だ。このダズリンヒルに、イーファの知り合いなど、一人としているはずもないではないか。


「知らん人とうたらね、まず挨拶して、えっと……同伴者からの紹介を受けるか、はしたなくない範囲で身分を明かすんが、シャコーカイのレイディじゃろ」


 小学校の隣に立つ『男爵文庫』に所蔵されていた、『社交界入門の手引き書』の内容を、そっくり引用して、イーファは胸を張った。


「あっはは……! 確かに、そのとおりじゃ。全く失礼した!」


 おかしくて堪らない風に、少女は笑う。鈴を転がすような、と形容すべき澄んだ笑い声に、イーファは思わず、羨ましくなった。美少女で、上等な服を着られて、おまけに声も上品だなどと、贅沢だ。


 すぐに笑いを収めた少女は、ゆったりとした仕草で、ドレスの裾を摘み、一礼する。


「申し遅れた。私はビビアンと申す者。以後、お見知りおきを。……して、そなたは? ここで何をしている、観客か? 迷子か?」


 おごそかな口調での挨拶を済ませるなり、一転、ビビアンは好奇心も露わに、イーファを質問攻めにし始めた。何やら、逆らいがたい威圧感がある。


「うっ、うちゃあ――いんや、わたしは、イーファ・オコナー。観客っちゅうか、招待客じゃ」


 一応、と小さく付け加えてから、イーファは更に言い返す。


「言うとくけど、迷子とかじゃないけんね。……でも、あのう、人のあまりおらんトイレの場所とか、もし知っとったらごうげに助かるんじゃけど」

「おお。なるほどな」


 もじもじしながらのイーファの言葉に、ビビアンは納得顔で、一つ頷いた。


「貴賓席の近くに、もう一箇所化粧室があるぞ。案内しよう!」


 何故だか嬉しそうに、きびすを返す。


「ウッフフフ、この私が、案内役! 愉快じゃのう!」

「……ねえ、ひょっとして貴方も、どこか遠くから来たん?」


 ビビアンの話し方には、どことなく、今時の都会人らしくない響きがあった。

 シェーナが使うような、都市部の中上流階級の言葉――いわゆる標準語とは違うし、マディの軍人訛りとも異なる。各地方各階級のイントネーションに詳しい訳ではないイーファだが、それでも違和感を覚えた。


「私か? ……うーん、そうじゃな。少し遠くから来たぞ」


 ワンピースの裾をくるりと翻して、ビビアンは悪戯っぽく答える。裾のふわりと広がる、レースのついたスカートは、長年の憧れだ。イーファはまた彼女を羨んだ。


「しかし、退屈な所じゃ」

「えっ?」


 耳を疑うイーファである。


「とてつもなく、つまらない場所から来た。だから、今こうしているのが大層楽しいのだ」

「うちもっ……うちの方が、絶対退屈だけんね!」


 つい口走ってから、自分は一体何に対抗しているのだと、イーファは急におかしみを感じた。

 ビビアンも同じだったのか、二人はぶすっとした顔を突き合わせるなり、同時に噴き出してしまう。


「ふっ、あははは! 『退屈闘技祭』でも開く気か、そなた! あはははは!」

「そんなん、うちと兄さんがチーム組んで優勝じゃ! 『遠くから来た選手権』でも勝てるわ……ふふふ、あははは!」

「何それっ……ぷははっ、はははははっ!」


 一頻り笑い転げたのちに、イーファはふと真顔になった。


「――ごめん。あの、正直な事言うんじゃけど、笑い過ぎてトイレ事情がちょっとピンチ」

「なに?」


 あやふやな発言だったが、そこは同世代らしく、ビビアンが察する。


「では、参るぞ。もののついでじゃ、特等席にも案内しようではないか!」

「なに、特等席って? ああ、ビビアン待って!」


 意気揚々と歩き出すビビアンにつられる形で、イーファは早足になって、彼女に追いついた。



   ◇



「うっわぁ……!」


 イーファは歓声を上げ、そしてそれきり、言葉を失った。


 アリーナの観客席も、競技場も、全てを見下ろせる、建物の最上部に彼女は立っている。

 ビビアンに導かれて、貴賓席近くの階段を下ったり上ったりした、その果てがここだ(なお、廊下の途中に豪華な化粧室と更衣室があった)。今は無人だったが、本来、警備用のスペースなのかもしれない。見張り台らしい構造だ。


 ふと視線を上向ければ、アリーナ全体を覆う、グラス川の水を利用した結界が、すぐ頭上に揺らめいている。

 その向こう側には、鮮やかなオレンジ色に群青の混ざり始めた、夏の夕空。

 空と、海面のような結界の織り成す、美しい色彩に目を奪われ、イーファはその場で、ぐるりと身体を回転させて、全方位を見渡す。

 その時、視界に光がぎった。


「あれ? あっち、何かある」


 と、イーファは光の方角を指差した。

 ダズリンヒルは平坦な街だと思っていたが、こうして見渡すと、西の方角に向けて、緩やかな登り坂となっているのが分かる。その坂の先、小高い丘陵の上に、巨大な建築物のシルエットがあった。遠目には、夕陽に映えるほのかな明かりだが、恐らく実際には、建物を取り囲むように、煌々こうこうと火が焚かれているのだろう。

 蝋燭ろうそく一つも無駄遣い出来ないイニシュカ島民からすると、何とも、贅沢な仕様だ。


「そなたは」


 ビビアンは、何故か面食らった様子で、ぽかんと口を開けた。


「本当に、ダズリンヒルを知らぬのだな?」

「うん……この街に来るんは初めてじゃけぇ、なんも分からん。ビビアンは、知っとるん?」

「あれは宮殿じゃ」

「宮殿……」

「皇帝の住まいで、公務の場でもある」

「こうてい――皇帝陛下!?」


 今度は、イーファが口をあんぐり開ける番である。

 考えてみれば、ここは首都なのだから、皇帝レヴィ二世の玉座があり、公務を行う場があるのは当然だ。

 イーファも、一応宮殿の存在は知っている。何かの本の挿絵で、その壮麗な外観を見かけた覚えもある。が、夕暮れ時という事もあり、ここからでは、要塞のような物々しいシルエットしか確認出来なかった。


「ビビアンは、遠くから来たんに、何でも知っとんさるなあ」


 すっかり打ち解けた気分になって、イーファは素直に、彼女を称賛する。


「……何を言う。私など、何も分かっておらぬ」


 照れた様子で頬を赤らめつつも、どこか暗い眼差しで、ビビアンは答えた。


「おったんかもしれん」


 その目を見るなり、咄嗟にイーファは口走る。


「うん? 何がだ?」

「ビビアンの見たちゅう、金細工みたぁな蛇。うちの家の辺りでは、蛇ってあんまり、こういう所には出んもんだけん……変な事言うとると思って、ごめん」

「ああ」


 しゅんと謝るイーファに、ビビアンは笑いかけた。


「気にしないでくれ。確かに、こんな所に蛇など、奇妙な話ではある。異国の地では、色々な小動物がペットにされているらしいから、来賓の誰かが持ち込んだのかもしれないな」


 そう呟いて、しかしビビアンは、自分の意見に対して眉をひそめた。


「ううん、しかし、客席から這ってきたのだとすると妙だな。あれは――」


「ビビアン様」


 唐突に、二人のいる見張り台の隅から、声が湧き上がった。

 誰かが、階段を上がってきていたのだ。いつの間にか。足音の一つも立てずに。


 ぎょっとしたイーファだったが、声の主をよくよく見れば、そう怪しい人物でもない。小学校の教師が着るような、かっちりとした印象の濃紺の正装を身にまとい、同じ色の帽子を被った、若い女性だ。


「クロエ!」

「お時間でございます。お支度を」


 咎める口調で名を呼んだビビアンに対して、女教師風の女性は、淡々とした無駄のない仕草で、懐中時計を取り出す。


「現在時刻は、お約束の……」

「分かっている。一時間経ったと言うのじゃろう。自由時間はしまいじゃ」


 全く、とビビアンは、酷く大人びた溜息を一つ漏らし、それから切実な表情でイーファに向き直った。


「私はもう、行かねばならぬ。明日も、先程出会った場所に来てくれるか? 出来れば、試合の始まる前に」

「うん……ええよ」


 クロエの出現に驚いて、そのショックからまだ立ち直っていないイーファは、狐につままれたような状態だったが、それでも反射的に頷く。


「うちも、ビビアンともっとお話したい」

「ありがとう。それでは明日、きっとだぞ」


 名残惜しそうに、ビビアンは一歩イーファから離れると、優雅にスカートを持ち上げて一礼してみせた。

 イーファも彼女に倣い、古びたワンピースの端をつまんでみる。


「失礼致しますわ、お嬢様レイディ


 クロエはイーファにそんな言葉をかけ、ビビアンの身を庇うように寄り添った。

 そうして、また音もなく、二人の姿は階段の下へと消え去る。

 後には、イーファだけがぽつりと残された。


「……『お嬢様レイディ』じゃって」


 誰にともなく、彼女は呟く。

 お伽話のヒロインとなる、特別に素敵な女の子の大冒険――その一端を、ただ目撃するだけの村娘とは、こんな気分なのかもしれない。イーファは、そんな事を考えた。

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