第73話 聖ジウサ・アリーナの邂逅 ③

 アリーナの公衆トイレから出てきたエイダンは、ローブの裾を直して、ふうっと安堵の息をついた。


「あー、どうなるかと思うた……」

「いやはや、それがしの食い意地のせいで面目なき事となり申した。がっつかずに完成品を頂くべきでこざったな」


 同じく、結界が解けたのでトイレを済ませたホウゲツが、後ろ頭を掻きつつ出てくる。


 そこに、廊下の角からぬっと虎が現れた――いや、現れたのは虎ではなく、タマライと彼女の背に乗ったラメシュだ。

 タマライは危険な種族ではない、という事は理解したが、やはりその容貌は、いささか心臓に悪い。


「悪ィ事したな。あそこまで変に頑丈な結界は、出来ねえはずんだよ本来。水の質が故郷と違うもんで、加減に失敗したみてえだ」


 ラメシュは顔をしかめつつ、ぶっきらぼうに謝罪する。


「はぁ、水の質」


 彼と同じく、水に熱と魔力を伝導させる治癒術を使うエイダンにとって、それは耳寄りな情報だった。


「シルヴァミストとテンドゥでは、そがぁに違うもんですか」

「アシハラとシルヴァミストも、まさしく異郷の地にござるよ。水も土も、それらで育つ食べ物も……恐らく、水や食事に含まれる魔力の質も、違い申す。それがしの術も、少量ながら、絵の具を溶くのに水が必要でござってな。こちらに渡った当初は、戸惑い申した」


 と、ホウゲツが口を添える。


「そがぁなかあ。俺も湯を温めんと魔術が使えんけん、気をつけなぁじゃな」

「うん?」


 ラメシュが軽くすがめた目を、エイダンに向けた。


「ああ――キッシンジャーの言ってた、もう一人の火属性の治癒術士って、お前か。やけに興味持ってくるなと思ったら」

「あはは、すんません。自分以外の火属性治癒術士さんにうたん、初めてなんです。嬉しゅうて」

「ふうん……確かに、『火』は爆発力や攻撃性が高い属性だから、治癒者ヒーラーは少ないけどよ」


 テンドゥでは火の精霊王ヴラダへの信仰が盛んなため、火の加護属性は特にたっとばれ、保護されてきた、とラメシュは語る。その結果、使い手は少ないながらも火属性の治癒術が確立され、継承されている。


料理カリー使いはテンドゥの伝統的な治癒者ヒーラー。その多くが火属性だ。オレの使う結界術も、同じ系統の師匠から教わったもんさ」

「教えて貰えるんは、ええなあ。俺には治癒術の師匠ちゅうのがおらんのです」

「お、じゃあテンドゥに来て鍛えるか、西洋人? 料理カリーの修行は厳しいぜ。」


 からかうように指先を突きつけられ、「ううん……」とエイダンは唸った。海外に渡り、料理修業から始めようというのは、流石に厳しそうだ。エイダンは料理の腕自体がからっきしだし、きっとイニシュカを何年も離れる事になってしまう。


「いやしかし、魔術はともかく、あの『カレー』のレシピは、それがしも気になるところ」


 ホウゲツは、すっかりテンドゥ料理を気に入っている。アシハラの主食である米を、久しぶりに口に出来た嬉しさもあるのだろう。


「是非とも母国に伝えて……そして、アシハラの白飯にも合うかどうか、試してみるのでござる! いやきっと合う! 夢が広がるではござらんか、デュッフフフ!」


「カレーじゃねえ、カリーだ。料理全般って意味で――まあ、何でもいいけどよ」


 外方そっぽを向いて首裏に手を当てるラメシュだったが、故郷の料理を絶賛され、そう悪い気もしていないようだ。

 彼を乗せたタマライが、ぐるる、と小さく喉を鳴らし、ホウゲツのすぐ目の前で、鼻をひくつかせる。


「ど、どうなされたのでござろう?」

「お前らが気に入ったってよ。オレをよろしく頼むと言ってる……おい、その一言は余計だぜタマライ」

「それはその……恐悦至極きょうえつしごく……」


 顔を引きつらせながらも、ホウゲツが深々とお辞儀をした、その時。


「ガァッ!」


 タマライが、突然虚空を見上げると、口元を歪め、牙を剥き出しにして吠えた。


「ひえっ! 今度はどうなされた!?」


 半ば腰を抜かして、ホウゲツが再び問う。タマライに倣う形で、ラメシュも上へと鋭く視線を向けた。


「そこに、何かいるぜ!」


 ラメシュの視線の先には、アーチ状の大きな窓がある。ガラスなどははめられていない。

 そこから、黒々とした巨大な影が、するりと侵入するのがエイダンにも確認出来た。


「なん――」


 疑問を口にするよりも早く、影は窓辺から壁を蹴り、更に柱を蹴って、軽やかに床に降り立った。


 群青色の毛並みを持つ、狼だ。その全長はタマライよりも大きく、実にエイダンの三倍はある――


「ヤホー、エイダンくん!」


 狼が、そう口を利いた。

 そして次の瞬間、狼の姿は青い霧のように、空中で溶け消える。薄れた霧の合間から、極東の華やかな衣を纏った少女が現れ、長い髪を振り乱して、エイダンに抱きついてきた。


「コッ……」

小宵こよい……! 大妖おおあやかし錆納戸さびなんど小宵こよい殿……!?」


 抱きつかれた勢いで床に倒れたエイダンが、相手の顔を改めて確認する前に、ホウゲツが裏返った声で叫ぶ。


 間違いない。彼女はコヨイ・サビナンド。エイダンのかつての仕事仲間で、アシハラ出身の『浄めの踊り子』。その正体は、狼型の魔物モンスターだ。


「ンッ? 誰? ……アシハラの人ネ?」


 エイダンをし潰したまま、コヨイはきょとんとホウゲツを見つめた。

 以前ホウゲツは、コヨイと一度だけ対面した事があると言っていたが、コヨイの方は、彼を覚えていない様子である。


「コッ、コヨイさん、すまんが重い……」


 コヨイの下敷きとなったエイダンは、身動きがつかない状態で呻く。

 失礼な物言いかとも思ったが、実際、コヨイの身体は見かけよりも重かった。小柄な東洋人の少女の姿は仮初かりそめのもので、本来は巨獣なのだから、さもありなん、という話ではある。


「アラ。そういうところ不粋ヨ、エイダンくん」


 と、コヨイは口を尖らせてエイダンから離れる。


「何者だ!? 魔物か、その女!」


 ラメシュが警戒の声を上げ、身構えた。タマライも姿勢を低めて、猫科独特の攻撃態勢を取っている。


「あっ、いんや、この人は大丈夫だけん。タマライさん、ラメシュさん」


 腰をさすりながら身を起こし、エイダンは慌てて、二人の前で腕を広げる。


「なんちゅうか、俺の知り合いで……」

「友達って言ってヨ、エイダンくん」

「……友達で」

「そ、それがしは! 貴殿の『ふぁん』にござる!」

「アラ、ありがとネ。アシハラの人に会うなんて、久しぶりネ」


「――何なんだよ」


 ぐだぐだになる三人の会話に、ラメシュは眉をひそめたものの、一先ず、即座に戦闘の必要はないと理解してくれたようだ。タマライの肩口を軽く撫でて宥める。

 エイダンはほっと息をついてから、コヨイに向き直った。


「ほいでコヨイさん、どがぁしんさったん? 元気まめなんは嬉しいけど、ここは軍人さんもいっぱいおる場所だけん、見つかると危ないんと違うかな」


 正規軍の上層部や、北方の戦線を経験している軍人の中には、コヨイの姿形を知る者がいる。

 シルヴァミスト正規軍にとって、魔物モンスターは基本的に、問答無用で排除対象だ。大半の魔物は対話不可能で、人を襲ったり食べたりしがちなので、無理からぬ事ではあるが。


「ンー、チョット遊びに来てるだけヨ。大きなお祭りがあるんでショ? も今、ここにいるし……」

「お――お父様ッ!?」


 まるっきり軽い口調のコヨイに対して、エイダンは仰天した。


「ヴァンス・ダラさんが、ここに!?」

「お祭り見に来てるネ。お父様はお風呂も好きだけど、お祭りも好きヨ」

「俺もどっちも好きじゃけど……いんや、そうじゃなぁて」


「ヴァンス・ダラ……西方だか北方だかの、禁術使いだっけか」

「おお。蛮陀羅天狗ばんだらてんぐの事でござるな」


 ラメシュとホウゲツが口々に発言した。二人ともヴァンス・ダラについては知っているらしい。

 しかもどうやらアシハラには、珍妙な名前でその存在が伝わっている様子だ。テングとは一体何だろう、とエイダンは不思議に思ったが、ホウゲツへの質問は後回しにしておく。


「……ヴァンス・ダラさんは、今どこにおるん? ほんまに、祭りの見物だけのつもりなんじゃろか」


 エイダンはコヨイに訊ねた。


 現世代唯一の、闇の魔術の使い手。シルヴァミストの仇敵、魔杖将ヴァンス・ダラ。それがコヨイの父親だ。

 エイダンの知る限り、彼は必ずしも悪意で人々を苦しめるような人物ではない。ただ、非常に気まぐれな性分ではある。


 埒外らちがいの魔力の産物を、人も魔物も区別なく、好き放題にほどこし与えるものだから、時に途方もないトラブルを生じさせる。それに、自分に降りかかる火の粉を払う際には、容赦などしないたちだ。


「どうだろネ?」


 コヨイはけろりと首を傾げた。


「これから始まるお祭り……蒼薊闘技祭そうけいとうぎさい、だっけネ? 優勝者は毎回、英雄扱いヨ。時には、北の魔物の討伐軍の、お御輿みこしとしてかつがれたりもするネ」

「そうなん?」

「そうヨ。北でお腹空かしてる魔物の子達を心配するお父様が、このお祭りを気にするのは当然ネ」


「ほんならっ……もしかして、大会に参加する人に、危害を加えたりだとか……」

「サァ? デモ、ワタシが確かに言えるのはネ……お父様は、不粋な真似は嫌いって事ヨ。お祭りを楽しむのが一番の目的なのは、間違いないヨ!」


 にっこりと、コヨイはべにいた魅力的な唇を吊り上げてみせる。


 何と返したものか、エイダンが言葉に迷っているうちに、コヨイは彼らから一歩距離を取り、ぽんと後方に跳ねた。

 それほど勢いをつけた風でもなかったはずだが、彼女は大きく宙返りをして、ひとっ飛びに窓辺へと着地してみせる。


「コヨイさん……!」

「お父様も待ってるから、また今度ネ、エイダンくん! 久しぶりに会えて嬉しかったヨ。フェリックスや、みんなにもよろしくネ!」


 呼びかけるエイダンのすぐ後ろでは、タマライが警戒の姿勢を緩めず、ホウゲツは「ああああ」と裏返りっぱなしの細い声を漏らしている。

 コヨイはひらひらと、袖を揺らして手を振るなり、窓を潜り、煙のように瞬く間に消え去った。


「い、今、それがしに手を振った!? 錆納戸小宵が某に……!」

「いや、そっちの赤毛に挨拶したんじゃねえのか?」


 動転しきっているホウゲツに、ラメシュが冷徹な呆れ顔を向けた。


「テンドゥじゃ、ああいう強い魔物は見つけ次第討伐するもんだぜ。あいつ、街なかに放っといていいのかよ」

「シルヴァミストでも、放っといたらいけんとは言われとりますけど。ただその、コヨイさんには……捕まって欲しゅうはなくて……」


 エイダンは、困って眉尻を下げる。

 ラメシュは首を捻ったタマライと顔を見合わせ、同時に軽く肩を竦めた。


「――まあ、何か事情があるなら、オレらは通報しねえがよ」

「あんがとうございます!」

「この国じゃ、ドゥン族まで魔物と誤解されがちだ。色々あんだろうさ」


 礼を言うエイダンに、ラメシュは答え、タマライはくるりと胴体を返して、廊下の元来た道を戻り始める。


「おい。祭りの本番前の、打ち合わせだか何だかがあるんだろ? キッシンジャーとプライス少尉に、またどやされちまう」

「はっ、はい! ホウゲツさん、戻らんとじゃって」


 エイダンは我に返ると、まだ夢心地で窓を見上げているホウゲツの肩を、慌てて揺さぶった。

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