第62話 【番外編】はじまりの雨夜 ②
自宅への道すがら、テイラーは青年に名前を訊ね、それからここ数日の状況を、簡単に聞き出した。
青年の名はエイダン・フォーリー。イニシュカ島生まれで、サングスター魔術学校の一年生だった。
先月――桃の月の末に、エイダンは魔術学校を退学している。半年間、ごく基礎的な魔術すら使いこなせず、一年生前期の成績が、壊滅的な有り様だったためだ。
寮の部屋を引き払い、所持金は残り僅か。すぐ故郷に帰るよう、教師や寮長には
彼は仕事を探しつつ町立図書館に通い、治癒術の練習に打ち込んだ。
――もう少しで何かが掴めそうな気がする。
ある時点からそんな予感に駆られ、図書館が閉まった後も、路傍の街灯の下で、自作のノートを読み耽り、呪文を紡いでいた。
「労働者向けの安宿に泊まる金くらいは、残っていたんだろう?」
「はい。ただ、安い宿だと大部屋になるんです。他のお客さんが寝とる横で、呪文をぶつぶつ唱える訳にもいかんで」
個室の宿となると、格段に宿泊費が跳ね上がる。
「なるほど……」
「……んでも、道端で魔術の練習するんも、いけんかったみたいです。なんか、急に後ろから蹴っ飛ばされました」
恐らく、酔っ払いかごろつきの仕業だろう。
暴漢に襲われ、路地裏の階段から突き落とされたエイダンは、しばらくその場で目を回してしまった。気づいた時には、なけなしの所持金が入った財布を盗まれていたという。
「ほんまに一文無しになりましたけど……杖と文房具と、ノートが手元に残ったんは良かったかなぁて」
「何も良くないだろう」
文字通りの踏んだり蹴ったりである。
エイダンが財布を盗まれたのは、二日前の事だった。以降はまともな寝床にも、食べ物にもありついていない。
テイラーの家までは自力で歩いて来られたが、背中に負った長杖が酷く重そうだし、先程から何度かふらついている。
「ほんで今日は、臙脂の月の二十一日、ですか?」
「そうだよ」
自宅前で鍵を取り出して、テイラーは頷いた。
「わぁ、俺の誕生日じゃ。忘れとった」
「……何だって?」
「今日、十七んなりました」
「おめでとう。酷い誕生日だな」
首を振って溜息をつくテイラーである。
◇
「ほんまにええんですか。テイラーさんのご飯は?」
そんな風に遠慮するエイダンを、半ば無理矢理食卓に着かせ、テイラーは買ってきたミートボールと、キッチンにあったパンと茹で卵、ピクルスを皿に盛り、テーブルに並べる。
一欠片、パンを口に入れるなり、エイダンはすぐさま、我を忘れたかのような勢いで、皿の上の物を食べ進め始めた。瞬く間に六つのミートボールが消え失せ、そこでようやく彼は、やや落ち着いた表情で水を飲む。
「ああ、何かもう……生き返りました」
「冗談じゃなく、死にかけてたぞ。空腹も疲れも、麻痺していただろう」
「はい。……ここ何日か、魔術の事しか考えられんようになっとったけど、今ちょっと、頭が回るようんなりました。これから……」
エイダンが、何か言いかけて口を噤む。
テーブルの向かいで茶を淹れていたテイラーが、その顔を見遣ると、皿を見つめたまま涙ぐんでいる。テイラーは慌てふためいた。
「なっ、何だ? 食べながら泣くんじゃない」
「ひぐっ、ふんばへん……急に、これから、どがぁしたらええんじゃろって、思えて……」
「今更だな!?」
「俺、あんだけ勉強頑張ったんに。ばーちゃんも、村のみんなにも、応援して
「
涙と鼻水まみれになった顔を、エイダンは服の袖で
テイラーがタオルを取って来て渡すと、エイダンは礼を言って受け取り、顔を拭き終えて、ようやく泣き止んだ。
短期間に色々あり過ぎて、麻痺していた頭と精神が、暖かい場所で食事をする事によって働き出し、一度に感情が溢れて混乱してしまったと、そういう事らしい。
「村に帰れないって……そういう約束でもあるのか? 戻っても追い出されるとか」
「そういうんは、なぁです……。多分……帰ったら、慰められて、無医村になりそうな問題は、何か他の方法考えようて、言われると思います」
無医村。その言葉を聞いて、なるほど、とテイラーは納得する。
魔術士の多くは、中流以上の階級の出身だ。辺境の村落などでは、やっと初等教育が行き渡ってきたところで、地元では治癒術士を育成出来ず、常に不足気味だという。
「そんな故郷なら、何も思いつめる事はないじゃないか。……得難い人達だぞ、そうやって信頼出来る相手は」
「……はい」
実感を篭めて言い聞かせるテイラーに、エイダンは素直に頷く。
「でも……小さい頃からの、俺自身の夢でもあったんです。魔術士……」
タオルを握り、エイダンはテイラーの顔を見返した。あざやかな緑色の瞳の周囲が、泣いたせいで赤らみ、複雑な色合いとなっている。
「夢を実現出来る人間は、ほんの僅かだよ。一旦夢が叶ったは良いが、思っていたような居心地の良い場所ではなくて、転落する事だってある。君の歳で実感するのは、苦しいだろうが。しかし、誰にとっても世の中はそうしたものだ」
「……魔術さえ使えるようになったら、なんもかんも、上手く行くじゃろうと思うとった。けど、そうはならんのですか」
「当然、そうだ。私だって昔は、自分の研究だけに没頭出来るなら、それで良いと思っていた。実力さえ示せば、周囲の人々も家族も理解してくれる、ついて来てくれると――浅はかだったよ」
「研究?」
「……昔の事だ」
つい、昔の自分とエイダンが重なって、余計な話をしてしまった。テイラーは息をついて、渋くなった茶を一口飲み、エイダンの前にもカップを置く。
エイダンは、きゅうりのピクルスの、最後の一欠片を食べきったところだ。
「
「あんがとうございます。洗い替えは鞄の中に入れとるけん……あ、でも、鞄も濡れとるか」
エイダンの抱えていた、唯一の財産である鞄は、旅人向けの頑丈な作りだったが、長雨に晒されて、濡れそぼっている。
「しばらく乾かそう。着替えを持ってくる」
テイラーもエイダンも、小柄で細身な方だ。服の貸し借りは出来る程度の体格差である。テイラーは若者向きの流行りの服など持っていないが、この際許容して貰おう。
食卓を片づけ、エイダンは自分の鞄を開けた。丸められた着替えが出てくる。魔術学校の教科書と、手製のノートと、文房具が、着替えに
これだけは、雨に濡らさないようにしたかったのだろう。そう気づくとテイラーは、今まさに、夢の途上で挫折しかけている青年が、いじらく思えた。
先程は突き放すような事を言ったが、あれは酷だったかもしれない。
「それは、勉強の成果をまとめたノートか? ……少し見ても?」
「あ、はい。どうぞ」
エイダンに差し出されたノートを、テイラーはぱらぱらとめくる。
精霊言語の文法や構文が、そこにまとめられていた。
テイラーも、大学で必須科目としてこの語学の授業を受け、基礎だけは身につけたものだが、読むのは久しぶりだ。かなり単語を忘れている。
折り目のついたあるページで、テイラーは手を止めた。
呪文が記されている。
『
山より出づる、天より
義を
ここに
我が身
呪文の基本的な型だ。実際に唱える場合は、状況や術の対象に応じて、言葉を加えたりもする。
まず、呼びかけたい精霊の属性を指定し、次に、発現させたい魔術の効果を説明する。最後に、術者の魔力をどの程度、代償として捧げるかを提示する。
『我が身四十四に割いて』……などと、最後の文面は物騒だが、本当に身体をバラバラにする訳ではない。魔術の使われ始めた太古の昔には、生け贄を必要としたのかもしれないが。
四十四というのは
魔術とは精霊との契約だから、ここできちんと、精霊の呼び起こす奇跡に見合う部位の魔力を捧げなければ、術は上手く発動しない。
「これは……呪術? いや、治癒術? 火属性の、加熱の魔術か?」
怪訝に眉をひそめ、テイラーは訊ねた。
書かれている呪文は、火属性呪術の、定番とされる一つによく似ている。参考書にそのまま記載されていたりするから、見覚えがあった。高熱で敵を怯ませる、という効果の術だ。
『
ただ、呪術にしては、文面がおかしい。魔術の効果を示す一部分が、治癒術の呪文に書き換えられている。
「そうです。俺の魔力の特性、学校で
「火属性の、治癒術……?」
珍しい特性だ。というより、テイラーは火属性の治癒術士など、見た事がない。
「火属性いうても、炎とか、雷とかは出せんし。石に魔力を通して、加護石にする事も出来んのだけど……この前初めて、雨水をお湯にする事だけ出来ました」
「ああ……さっき欠けたカップの水でやってたのは、それか」
ごみ捨て場でエイダンに会った時の事を思い出し、テイラーは頷いた。が、それ以上、何と言葉をかけたものか分からない。
こうも珍しく――しかも、加護石も精製出来ないほど、出力の小さい魔力特性では、学校側も指導に困るだろう。現に、退学になっている。
それでいて、いきなり水を温めるのに成功したというのは、不可解だった。
石や金属より、流動性の高い液体に魔力を通す方が、普通は難易度が高いと聞く。
「じゃあ……この呪文は、自力で書き換えたのか?」
「はい」
「効果の部分は、文法上、正しいように見えるな……」
テイラーは、指でノートの文字をなぞった。あのごみ捨て場で、魔術を使っていたエイダンの様子を、もう一度思い起こす。
「ただ……私は以前、宮廷魔術師との共同研究で、魔術発動に伴う魔力消耗についての統計を取った事があるんだ。消費する魔力を数値化出来ないかと」
と、テイラーは語り出した。
結果として、魔術ごとの消費魔力の数値化は、現代の魔道学や数学では、まだ難しい、という結論に至った。
使役する側の体力や精神状態、魔術の使用される環境、標的の状況などに、左右され過ぎる。
ただし、集めたデータは無駄にはならなかった。魔力を消耗すると、魔術士は疲弊し、精神的にも摩耗する。そうした魔力枯渇のメカニズムについて、いくらか研究が進んだのだ。
「魔術士なら、体感で大体分かるものではあるらしいが。体調が悪かったり、集中力を欠いている時に魔術を発動させると、あっという間に魔力が枯渇してしまう。魔力が枯渇すると、貧血に似た症状が出たり、身体が動かなくなったり、一時的に錯乱したり……最悪のケースでは、死に至る」
「は、はい」
エイダンが、首を竦めつつ縦に振る。
「さっき、君は図書館の裏で、魔術の練習を繰り返していたよな? 空腹で寝不足、疲れきった状態で。――術が発動し、魔力を消費していたなら、とっくに倒れていないと、理屈に合わない。倒れなくて良かったが」
「魔力が、上手く捧げられとらんかった……?」
二人は、広げたままのノートを覗き込んだ。
「『我が身
「私の意見はあくまで、素人のものだが」
「いんや、でも……そうじゃ。うっかりしとった。呪術を治癒術にするんだけん、効果に合わせて、捧げる魔力も変えなぁです。本来の『
「あっ。そうだ、湯が沸いてるんだった」
湯と言われて思い出した。テイラーは、ノートから顔を上げる。
メイドが用意してくれた風呂用の湯を、大鍋に入れて、ストーブに乗せたきりになっていた。どうも忘れっぽくていけない。歳は取りたくないものだ。
急いで風呂場に行き、半分水を溜めてある湯船に、大鍋の湯を注いでぬるま湯にする。
「とりあえず、風呂に入りなさい。魔術の練習は、明日でも出来るから」
真剣な眼差しで、ノートに何か書き込もうとしているエイダンを促し、着替えを持たせて、テイラーは彼を風呂場に送り出した。
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