番外編 はじまりの雨夜
第61話 【番外編】はじまりの雨夜 ①
『聖暦一〇二二年、
このところ、雨が続く。
書きかけの業務日誌から、憂鬱な顔を上げたテイラーは、雨粒がガラスを濡らす窓の外を、ぼんやりと見つめた。
現在は臙脂の月。一年で四番目の月にあたり、春の盛りだ。元々シルヴァミストの春は、天候が不安定である。統計を取れば恐らく、年間降水量のうち……
そこまで考えて、彼は思考を打ち切る。些細な物事に対し、やたらと突きつめて考え込むのは、自分の悪い癖だ。
業務日誌を、さっさと書き上げてしまおう。
ここは魔術と学問の街、ケントラン州アンバーセット。その町立図書館の事務室である。
安全で平穏な職場だ。業務日誌の内容も、それほど盛り上がるものではない。
不意に、デスクに着くテイラーの背後から、声がかかった。
「テイラー」
上司である、副館長のジョーンズが、事務室の扉を開けて、不機嫌そうな顔を覗かせている。彼の機嫌は常に斜めに傾いているから、気にする程の事態でもない。
「何です?」
「君に客が来てる」
「客? ……私に?」
「ダレン・リードと名乗ってるが」
テイラーは、目を見開く。
何日か前に、奇妙な手紙を寄越した男の名だ。返事に迷ってしまい、手紙はそのまま自宅の机に放置されていた。
「応接間に通しておいたよ」
◇
「仕事場まで押しかけて、すみません。先日差し上げた手紙について、お返事を考えて頂けないものかと」
ダレン・リードは、手紙の文面から想像していたより、随分と若い男だった。
生まれは辺境の代官の家で、十代のうちに地方の正規軍に入隊し、会計科で才能を発揮。サングスター家に引き抜かれて各地に赴任したのち、現在はアンバーセットの、魔道管理局の役人――という、かなり異色の経歴を持つ。
見た所、まだ二十代だ。さぞ人生が楽しい時期だろう。率直に言って、羨ましい。
「手紙にお返事もせず、失礼しました」
親子程も歳の離れた役人と向かい合ったテイラーは、まず頭を下げる。
「何と書いたものか分からず……正直、悪い冗談ではないかとさえ」
「いえ、打診が唐突過ぎましたからね。魔道管理局の、地域調整課で働かないかって。面識すらない私のチームで」
ダレンは苦笑を浮かべ、テーブルに置かれた茶を一口飲んだ。
「調整課というのは要するに、アンバーセットの住民の、生活状況の調査が主な業務なのですか?」
「そう。特に『魔道』に関してね。例えば、北のノムズルーツへの人の出入りと、採集活動の状況を調べたり。蚤の市通りで売られる
そうやって各種の調査結果を取りまとめ、コスト削減案や、逆に予算増強案の参考にする。そういう部署らしい。
「新設の部署だし、仕事は地味ですけど。サングスター家肝いりの改革の、基部でもあるんですよ」
若者らしい、前向きな野心と自信を、ダレンは垣間見せた。
「しかし、そんな部署が何故、町立図書館勤めの私を、勧誘など?」
「何故って――」
テイラーの疑問に、ダレンは驚いた様子で瞠目する。
「貴方が、統計学者トビー・テイラーだからですよ! 近年始まったシルヴァミスト国勢調査は、二十年前に貴方が発表した論文、『数値による社会観測』を元にしているって話もあるじゃないですか」
「それは大袈裟です。買い被り過ぎだ」
言下に、テイラーは否定した。しかしダレンは食い下がる。
「優秀な学者だったのは本当でしょう? しかも、現場の仕事も知っている。平民出身で……それもあって、学閥だか派閥だかの争いに巻き込まれ、不正の濡れ衣で失脚させられたとか。そんな消え方をしていい人じゃない」
「随分とまあ、詳しく調べたんですね。二十年も昔の事を。流石は調査の専門家」
少しばかり、語調が荒くなる。
ダレンの言った事は、概ね正しい。
かつてテイラーは、学問を志していた。そしてその成果とはまるで関係ない、政治的な
首都ダズリンヒルに構えていた住居も引き払い、逃げるように大都会を去った。妻や息子とは別れて暮らす事になり、このアンバーセットの街で一人、昔の
「ならば、私の年齢もご存じのはずだ」
そう言うと、ダレンは真剣に受け止め、しばらく考え込んだ。
「確か、五十……」
「五十一歳です。今更、新しい職になど就けません。頭も身体も、昔より動かなくなってる」
「しかし。この図書館の蔵書管理
「……それも、買い被りです。どうかお引き取りを」
とにかく、政治はもう懲り懲りだ。
いやそれどころかテイラーは、これ以上、世間との関わりを増やしたくないと思っていた。給与は今の仕事より大分良くなるらしいが、金にも派手な暮らしにも、興味を持てない。
「私の人生は、とうに終わってるんですよ。そう納得しているんです。今更、掻き乱されたくはない」
図書館の入口までダレンを見送り、テイラーはそう告げて、扉を閉めた。
「気が変わったら、魔道管理局まで! 手紙にうちの住所も書いてありますから!」
扉の向こうのダレンの声に、背を向ける。
踵を返したテイラーの目の前で、ジョーンズが鍵束を持って立っていた。
「来客対応は終わったか。そろそろ閉館だ、見回ってきてくれ。それと、古い書類の処分を頼む。あとは……」
「あいつ、また閉館まで居座ってたのか。小汚いまま備品に近づくなと言うのに」
ジョーンズの視線の先には、閲覧用デスクで熱心に本をめくる、一人の青年の姿があった。
青年――といっても、十代半ばか後半くらいに見えるから、まだ少年との境目と言える。
ぼさぼさの赤毛は、しばらく手入れをされていないようだ。馬車に泥でも引っ掛けられたのか、ズボンもシャツもやけに汚れていて、しかも、手の甲と頬に擦りむいたような傷がある。
ここ何日か、彼は一日中この図書館に入り浸っていた。
見た目はほとんど浮浪者だが、別に悪さをしている風ではない。閲覧する本の取り扱いも良い。日がな机に向かって、古紙を
「おい、お前。閉館だぞ、出て行け」
ジョーンズが赤毛の青年に、冷淡な声を浴びせた。本の内容に熱中していたらしい青年は、びっくりした様子で立ち上がり、
「ああ、すんません!」
と頭を下げ、ノートと文房具を鞄に突っ込んだ。
それから、持ち出していた本を数冊抱えて、書架に急ぐ。大分あたふたしているので、見兼ねたテイラーは、後をついて行った。
「その本の棚はここだよ」
テイラーが教えると、「あんがとうございます」と青年は応じて、所定の棚に本を仕舞う。
治癒術の参考書と、呪文に使用される精霊言語の文法辞典。それに何故か、ケントラン州の郷土史の本。
「郷土史は、分類が違うな。あちらの棚だ。……何故、一冊だけ史学書を?」
「俺、歴史の話が好きだけん。勉強の合間、息抜きになるかと思うて」
青年の話す言葉には、強い西部の辺境訛りがあった。田舎から出てきて間もない、といった印象だ。
「なるほど。いつも熱心にやっているからな」
テイラーは、軽く肩を揺すって笑う。そして、ジョーンズに聞こえないよう声を潜めて囁いた。
「図書館は、誰でも利用して良い施設だ。君はマナーも守っているし、特に
青年もまた小声で、神妙に答える。
「はい……あんがとうございます」
最後の本を郷土史の棚に戻して、青年は図書館を出て行った。
「ギデオン・リー・サングスター公は偉大なお方だが、あらゆる者に学問の機会を広めよという、あの方針は理解出来んよ」
無人となった館内を通り、事務所に入ったところで、ジョーンズは鼻を鳴らす。
「あんな農場の犬みたいな田舎の平民が、論文を読んで辞書を引くようになったからって、何になる? 世の中が混乱するだけだ! 精霊王ユザの、『秩序と文明を』の教えに反する行為じゃないか。そう思うだろう?」
「……ええ」
テイラーはおざなりに相槌を打った。
平民出身の自分への嫌味とも取れたが、この際、深く考えない事にする。
「全くおかしな時代になったもんだ。そもそも秩序とは……」
「処分する書類は、これで良いんですか?」
うんざりして話題を打ち切り、事務所の隅に積んであった紙束を拾い上げると、ジョーンズも「ああ、それだ」と頷いて、帰り支度を始めた。
「今日は君が当番だったな、最後の鍵閉めを頼んだ」
「分かりました」
今日も、滞りなく一日が終わった。あとは市場で夕食を買って帰宅し、一人で食事を済ませ、寝るだけだ。
◇
現在テイラーは独居だが、通いの年老いたメイドが、家の掃除などは請け負ってくれていた。頼めば、食事も作り置いてくれる。
ただ、アンバーセットの街は単身者が多いので、市場に行けば、持ち帰りの出来る温かい食べ物が売られてもいた。
小雨が降り続こうとも、
閑静な住宅街へと踏み入った、その時。
「……あっ!」
唐突に、彼は声を上げた。道を行き交う人々が、一瞬、何事かとこちらに注目する。
――処分するはずの紙束を、図書館の玄関に置きっ放しにしてしまった。
図書館裏手の、ごみ捨て場に持って行くつもりだったのに。入口の鍵を閉めるために、一旦玄関脇に置いて、そのまま忘れていた。それを今、急に思い出したのだ。
明日出勤した時、朝一番にごみ捨て場まで持って行けば良いか、とも考えたが、もしジョーンズが先に出勤して、置き去りの紙束を見つけたら、今後三日は嫌味を言われ続けるだろう。それは避けたい。
――仕方がない。図書館に戻ろう。
せっかくのミートボールが冷めてしまうが、明日以降の平穏な職場の方が優先だ。テイラーは速足で、来た道を戻り始めた。
◇
幸い、紙束は風に散らされる事もなく、図書館の玄関口に放置されていた。
拾い上げて、静まり返った庭を抜け、建物の裏手に回る。
垣根の向こう側にある街灯の、頼りない明かりを頼りに、ごみ捨て場に近づいたところで、テイラーは、何者かのぼそぼそとした声に気づいた。
図書館裏手のごみ捨て場は、薪小屋と隣り合わせで、屋根とコの字型の壁が付いている。丸太を重ねただけの簡単な造りだが、一応雨風がしのげるようになっていた。
そこに、誰かがうずくまっている。ほのかな明かりの下で、ノートをめくりつつ、長い杖を掲げて、頻りに独り言を呟いている。
「ちょい、温まったかな……でも、治癒の効果が上手く伝導せんな。呪文の文法が、どっか間違っとるじゃろか……」
聞き覚えのある声だ。
「君か? そこで何してる?」
声の主に思い当たったテイラーは、警戒を緩めて問い質した。
「わぁっ」
杖先に強く集中していた赤毛の青年は、うずくまった姿勢のまま、引っくり返る程に仰天した。
毛布代わりにでもしていたのか、肩に掛けていた大判の古紙が、ばさばさと落ちる。
「す、すんません! ここが暖かくて、明かりもあったもんだけん……あの、ちょっとこのカップ借りとるけど、勝手に持って行ったりはせんです!」
謝罪しながら彼が指し示したのは、縁の欠けたカップである。図書館の職員の誰かが割って、ここに捨てたのだろう。
中には雨水が溜まっている。――いやよく見ると、水面から
「いや、そんな物を持って行ったからと言って、咎めたりはしないが。それより、さっき唱えていたのは、魔術の呪文か? 君は……魔術士なのか?」
テイラーには魔術士としての才能はないが、多少の知識はある。数学者になるにせよ、博物学者になるにせよ、魔道学概論は、現代の大学で学ぶ上での基礎教養だ。
この赤毛の青年が魔術を学んでいる事は、いつも読んでいる本から想像がつく。魔術士の定番の武器である、杖も
「魔術士の……見習いです。まだ、一度もまともに魔術を使えた事は、なぁですけど……」
困った様子で、青年はくっきりした眉尻を下げた。
「見習い……学生か。もう夜だし、雨も降ってるんだから、家か寮に帰るといい」
「あ、いえ。この前、学校を退学になったけん、寮の部屋も引き払ってしもうて」
「退学――」
思わず、言葉を失う。
「じゃあ、家は? 親元は?」
「家は、イニシュカ島です。西の端の」
ホルダー州イニシュカ。アンバーセットからでは、どう馬車を飛ばしても、十日以上かかる遠方である。
「宿には泊まれるのか? 所持金は……」
青年は答えに詰まり、目を伏せた。
沈黙した二人の鼻先を、テイラーの持つランチボックスから漂ってきた、ミートボールの香りがくすぐる。
途端、青年の腹から、ぐう、と派手な音が鳴った。
「……」
青年が、ますます俯く。
テイラーは彼に歩み寄り、顔を覗き込んだ。
辺りが暗いせいもあるだろうが、あまり顔色が良くないように見える。昼間に気づいた頬の怪我も、そのままだ。
「ひょっとして、食事もろくに取れてないんじゃないか。最後にものを食べたのは、いつだ?」
「いつ……」
テイラーの言葉を口の中で繰り返して、青年ははたと、目を瞬かせた。
「いつ、何食うたかいな……今日って、何月何日ですか?」
思いきり渋面を作り、テイラーは唸った。すぐにでも何か食べさせた方がいい。
明日の朝、出勤するなり、ごみ捨て場で冷たくなったこの青年を発見しようものなら、寝覚めが悪いどころの話ではない。彼は、テイラーの息子より明らかに年若いのだ。
「とりあえず――うちに行こう。手狭な所だが、ここを宿とするよりは、ずっと快適だ」
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