第59話 トーラレイの暁 ③

 『イニシュカ温泉』の番台で、エイダンはフェリックスと共に、上機嫌でマグカップを並べていた。

 昼の部の客を一通り見送ったので、休憩しようという事になったのだ。


「これ、持ってきてしもうた」


 と、エイダンがバスケットから出してきたのは、上部に銅製のハンドルを付けた、両手に収まる程の大きさの木箱である。


「おや、それは僕とシェーナが贈った……」

「うん、『コーヒーミル』」


 旅客列車同様、ごく最近発明されたらしい、新技術による道具である。ただし、魔術がかかっている訳ではない。コーヒー豆を挽いて粉にするための、小型の機械だ。


 シェーナとフェリックスは数日前、トーラレイの市場でこのコーヒーミルを見つけ、コーヒー豆と一緒に、誕生祝いとしてエイダンに贈ったのだった。


「アンバーセットの『跳ねる仔狐亭』で初めてコーヒー飲んだ時、エイダン、結構気に入ってたみたいだからさ」


 ミルを渡す時、シェーナはそんな思い出を語って笑った。

 彼女の言うとおり、エイダンが初めてコーヒーを口にしたのは、アンバーセットの冒険者向け酒場での事だ。


 イニシュカ島でも、コーヒーが飲めない訳ではない。デイジー達行商人がたまに売りに来るし、港の喫茶店『オハラの店』にも置いてある。が、基本的に、島民にとっての嗜好飲料といえば、山や畑で採れるハーブを煎じた茶か、牛乳だ。

 だから、エイダンもコーヒーの存在は知っていても、味は知らなかった。その独特の風味に、随分と驚いた覚えがある。


「牛乳たっぷり入れると美味いんじゃけど、流石にそれは持ってこれんかった。でも、シナモンの小瓶があるけん、これ入れたらどうじゃろう」

「ウッキウキだな」


 日頃、テンションを上げ過ぎてエイダン達に宥められがちなフェリックスだが、今回ばかりは、小躍りする勢いでコーヒー豆の小袋を取り出すエイダンに、苦笑を漏らすしかない。


 鼻歌混じりに、エイダンがコーヒーを挽きにかかっていると、小屋の外から、物音が聞こえてきた。


「ん、お客さんかいな?」


 エイダンは迎え出ようと番台を離れたが、しかし、近づいてくるのは馬車の音だ。馬車で湯治場に来る島民など、まずいない。


 暖簾を押し上げて外を見てみると、そこには確かに、馬車の姿があった。しかも、四台も列を成している。

 先を行く二台は、幌を掛けられた荷馬車で、その後ろに続く二台は、立派な屋根と壁を備えた、乗り心地の良さそうな客馬車である。


 小屋の前で停止した馬車から降り立ったのは、優雅なローブをまとった、貴族然とした女性。

 レイチェル・リードだ。


「男爵様? なんでこがぁな所に」


 エイダンが面食らいながらも出迎えると、レイチェルは不敵に微笑んだ。


「あら。弟が世話になっている治癒術士に、改めてお礼をしたいと申し上げていたでしょう。レイチェル・リードの言葉に、単なる社交辞令などなくてよ」


 言うなり、彼女は荷馬車の方に目配せをする。

 レイチェルと共に降りてきた従者達が、荷馬車の幌をめくり、積まれていた荷物を担ぎ上げた。


 人が一人、ゆったりと収まりそうな大型の木桶――湯桶だ。


「先日は、驚きましたわ。お湯で人々を癒やす、火属性の治癒術士だなんて。ここが、貴方のお仕事の場ですのね」


 軽く周囲の景色を見回して、レイチェルは続ける。


「イニシュカは、自治自尊の伝統を持つ島。わたくしどもも当地の代官とはいえ、過剰な口出しは控えております。ですが、これくらいの贈り物でしたら、受け取って頂けるかしら」

「これくらいの、って……」


 エイダンは、運ばれる湯桶に駆け寄った。

 真新しい木の香りがする。滑らかで上質な板材に、頑丈なたが


「新品じゃなぁですか! ごうげに立派な木桶じゃなぁ!」


 思わず、目を輝かせて歓声を上げると、フェリックスも何事かと小屋から出てきて、「これは!?」と目を瞠る。

 そのフェリックスに、声をかける者がいた。


「やぁ、フェリックスくんだったかな。君のお客さんを連れて来たよ。足止めして悪かった」


 もう一台の馬車から降りてきた面々は、エドワーズと、マディ、それにホウゲツである。


 二日前、エイダンが男爵家の邸宅の風呂を借りて、ヒューの治療にあたっていた間、フェリックスはホウゲツに、コヨイの話を語り聞かせていた。

 その後ホウゲツは、帰路につくフェリックスに、


「もう少々、お話を伺いたいので、やはりそれがしもイニシュカに参ります」


 と申し出たのだが――彼にはイニシュカ行きの前に、一つ仕事が舞い込んだ。

 トーラレイまで乗ってきた、エドワーズ所有の浄気自動車が、故障していたのだ。


 ホウゲツは、物体の内部構造を解析する『絵薬仙術えくすせんじゅつ』の使い手だそうで、それを駆使して自動車の修理を手伝ってから、イニシュカを訪ねる事になった。


「フェリックス殿。お仕事中、まことに失礼つかまつる」


 上体を折るようにして、東洋式のお辞儀をするホウゲツの隣に並んで、エドワーズが片手を上げる。


「いやぁ、ははは。マディとホウゲツは、我が社の社員の命の恩人なんだが……礼をするつもりが、更に世話になってしまったよ。詫びと言っちゃなんだが、あれは僕からの差し入れだ。好きに飲んでくれ」


 二台目の荷馬車の幌が開けられた。中には、酒樽が積まれている。


「……何です?」


 エイダンの問いかけに対して、マディが呆れ気味の吐息混じりに答えた。


「見てのとおり、エールの樽だよ」

「エール? こがぁな、樽ごと?」

「村人達にも振る舞うんだと。大富豪とかいう人種は、無茶苦茶をするものだな」

「勿論、僕も飲むために用意したんだぞ。今はプライベートな旅行中なんだからな。西の果ての美しい離島に、温泉! これで酒がないなんて、耐えられるもんか」

「はぁ」


 酒の飲めないエイダンには、エドワーズの主張は全く共感しかねるものだったが、仕事終わりに温泉に立ち寄る客層は、風呂上がりにエールが出てきたら、喜ぶかもしれない。あとは、シェーナもエール好きだ。


「そんな訳で、エイダン・フォーリーくん。そこの温泉、僕も入っていいかい?」


 エドワーズが温泉の小屋を指差すので、エイダンは入口の暖簾を上げてみせた。


「あっ、どうぞどうぞ。今、他のお客さんおらんけん、貸し切りです」

「まあ、そうなの。わたくしも入ろうかしら! 憧れなのよね、野外の温泉」


 エドワーズに続き、レイチェルが、嬉々として小屋の中を覗く。エイダンは仰天した。


「りっ、リード様も!?」


 イニシュカ温泉には、男風呂・女風呂を分けるだけのスペースはない。一応湯浴み着の用意があるから、それを身に着けて混浴して貰っているのだが、貴族階級の女性の来訪は、初めてだ。


 利用方法を説明するエイダンに、「心得ましたわ」とレイチェルは、すんなり答える。

 そう言われては仕方ない。エイダンは湯浴み着とタオルを渡し、エドワーズとレイチェルを、温泉に送り出した。


「いやぁ。うちの温泉に、男爵家の方が……ばあちゃんが聞いたら飛び上がるな……」


 かつて、『男爵文庫』に入り浸り、アルフォンス・リードの遺産を借りて勉学に励んだ身としては、感慨深い。


「あの泥沼のような湧き湯が、随分整備されたんだな。頑張ってるじゃないか」

「シルヴァミストにも、アシハラのごとく、かような湯治の文化がござったか……」


 マディとホウゲツも、揃って小屋を見上げ、それぞれ感想を述べる。


「マディさんとホウゲツさんも、ここじゃなんだけん、小屋ん中どうぞ」


 ホウゲツとマディを招き入れたエイダンは、せっかくなので、コーヒー豆を人数分挽く事にした。



   ◇



 「この間、ホウゲツさんはフェリックスさんから、コヨイさんの話を聞いとったんよな。どこまで話したん?」


 コーヒーミルのハンドルを回しながら、エイダンはフェリックスに訊ねる。


「うちの地元の流行り病を、コヨイ先生が見事鎮めた、という所までだな」

「……あれ? まだそがぁな昔の話?」

「フェリックスの話はどうも、叙情的過ぎていけない。長大な英雄譚のようになってしまう。ホウゲツがまた、変に聞き上手だから」


 小屋の窓際の、風呂上がり客用のベンチで足を組んで、マディが肩を竦める。


「いや、実際興味深い話でござった。シルヴァミスト文化の、学びにもなるというものでござる。フヒヒヒ!」

「ホウゲツさんは、その……コヨイさんと、どういう知り合いなんです?」


 言葉に迷いつつ、エイダンは質問する。

 コヨイの正体が化け狼の魔物で、ヴァンス・ダラの娘として育った事を、ホウゲツは知っているのだろうか。彼自身は、やや挙動不審な面はあるものの、魔物にも、闇の魔術士の信奉者にも見えない。


「うむ。よくぞお聞き下された。錆納戸小宵さびなんどこよいといえば、アシハラでは知らぬ者のおらぬ、高名なあやかしでござってな」

「アヤカシ?」

「『もんすたー』の事にござる。何しろ、我が国において、久方ぶりに現れた大妖おおあやかし。小宵の出現を報じた瓦版は、瞬く間に売り切れ、錦絵にしきえに描かれれば、版元に行列が出来る、といった人気ぶりでごさる。小宵が突然、異郷の地に消えたという噂が流れた時には、大騒ぎになり申した」


「えっ、コヨイさん、そがぁな大人気だったん?」

「病人の家に突然上がり込んで、病を治した上に米俵を置いていくとか、どこからか調達した金品を、貧しい人々にばら撒くとか。そういう豪快な所業で知られる妖ゆえ……」


 どうやらコヨイは、故郷アシハラでは、義賊に近い者として英雄視されていたようだ。


 ホウゲツの言うには、『アヤカシ』とは、福も災いももたらす超常の存在である。アシハラの人々からは恐れられると同時に、崇められてもいる。退治する事もあれば、丁重に事もある。


 当然といえば当然だが、海の彼方の異国には、シルヴァミストとはまるで異なる価値観の文化が、築かれているらしい。


それがしが、現実に小宵こよいと対面したのは、一度きり。故郷アシハラにて、野盗に襲われていたところを、助けられたのでござる」


 照らすのは月明かりと、頼りない提灯ちょうちんの火ばかり、という夜道だった。

 しかしホウゲツは、おぼろな光明の先に浮かび上がった、どこか妖艶な少女と、その少女が巨大な狼に変貌する瞬間を、まざまざと目に焼きつけた。


「そしてそれ以来、それがしは……小宵を主役とした、絵物語を描く事を、熱望するようになったのでござる。あの天真爛漫、天衣無縫なる生き様! かの大妖おおあやかしこそは、我が技芸、全身全霊をもって描き表すべき、生涯最大の主題もちーふ!」


 興奮のあまりホウゲツは、幅広の両袖をばさりと振り乱してみせた。それから、番台に立つエイダンが、話について行けず、きょとんとしているのを見て、我に返った様子で眼鏡の位置を正す。


「オホン。ま、つまりは、この国の言葉で言うところの、『ふぁん』でござるな。一介の追っかけに過ぎんのでござるよ。デュッフフ」

「それなんに、コヨイさんの行方を追ってこんな所まで?」


 エイダンは慎重な口振りで、念を押すように訊ねた。


「コヨイさんを、無理矢理捕まえて連れて帰るとか、そがぁなつもりはないんじゃね……?」


 シルヴァミストの正規軍にとっては、コヨイは敵対する魔物であるし、アシハラでの立場も、エイダンには今一つ理解しきれない。ただ少なくとも彼としては、理不尽に彼女が傷ついて欲しくはないのだ。


「そもそも、それがしにそのような腕っぷしはござらぬ。無論、故郷の皆は、小宵が帰還すれば喜ぶと思われるが……某の目的はあくまで、かの大妖殿おおあやかしどのが海の向こうに渡ったという、噂の真偽を確かめ、その足跡そくせきを辿り、えがくこと」


 ホウゲツが、しわくちゃになった両袖と裾を整え、椅子に座り直す。


絵薬師えくすしとは……えがく対象のさわりとなること、まかりならぬ。そういうお役目にござる」

「ほんなら、良かったです」


 エイダンは笑顔になって、コーヒーに湯を注いだ。


「僕も、そういう事なら協力すると請け合ったんだ。先生の尊敬すべき功績の話は、アシハラの人々にも負けないくらい、いくらでも語れるしな!」


 と、何故か対抗するように胸を張るフェリックスである。


「そういや、ホウゲツさん、コーヒー平気なんかいな」

「フッフフ、それがし、ただ追っかけだけに励んでおる者ではござらん。留学生として、真摯に比較文化社会学をおさめており申す。シルヴァミストの食文化と作法は、既に学習済み」


 眼鏡の縁をきらりと光らせて、ホウゲツは口角を上げる。


「西洋では、椀から飲み物を飲む習慣がないゆえ、コーヒーは受け皿に移してから飲む! それが優雅なる作法でござるな?」

「……それは、ちょっと前の貴族の作法だな。今では普通、カップから直接飲む」

「あと、すんません、この小屋にカップソーサーはなぁです。マグカップで出します」

「ん? あれ?」


 自信満々の回答を、フェリックスとエイダンによって無情にも否定され、ホウゲツは愕然と硬直した。

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