第19話 バフ祭りスミスベルス ⑨

 風呂屋の暖簾を見るのが、何とも久しぶりであるような気がする。

 エイダンは暖簾をテントの入口に下げて、皺を伸ばした。


 三日かけてアンバーセットの街に戻ってから、更に三日後。ようやく普通に生活出来る体調が戻ったので、とりあえず風呂屋を開ける事にしたのだ。


「おう、無事戻って来たのか番頭さん!」


 早速、たらいとタオルを片手にやって来たのは、オースティンである。


「ご無沙汰しとります。あんまり無事でもなかったんじゃけど」


 後頭部を掻く腕が、まだ多少軋む。


「ただ、お客さん方に一通り、挨拶だけ済ませたら、また閉める予定で……」


 やや躊躇いながらも、エイダンはそう打ち明けた。


「えっ、何故だい? 繁盛してきてたのに」

「はい。お陰さんで、目標にしてた貯金が出来ましたけん、一度故郷に戻って、お金を返して来ようと思うとります。知り合いの結婚式もあるし」


 そうなのか、とオースティンは納得顔で相槌を打った。


「寂しくなるが、めでたい話だ。胸を張って帰るといい。じゃあ、名残を惜しんで風呂を借りるよ」

「まいどぉ」


 代金を支払い、オースティンは脱衣場に消えた。


 エイダンが番台に回り、小銭を整理していると、風呂屋の入口に影が差し、暖簾がめくられた。


「いらっしゃい……あれっ、コチさん」


 入ってきたのは、先日からフェリックスと共にアンバーセットの街に滞在している、コチである。


「ヤホー、エイダンくん。ワオ、本当にお風呂屋さんなのネ!」


 テントの内部を、コチは楽しげに見渡した。


「そうなんよ。ひとっ風呂どがぁかね? シャンプーも売っとるけど」

「ウーン、それはまた今度。実はワタシ、エイダンくんに会いに来たのヨ」

「俺に?」


 アンバーセットまでの道中、ずっと前後の馬車で移動していたので、エイダンが寝込んでいたとはいえ、話をする機会は何度もあったはずだが。


「アンバーセットの冒険者ギルドで、改めて話を聞いてネ。……半年チョット前、臙脂えんじの月の末……レイディロウ城でお風呂を焚いたの、エイダンくんネ?」

「ん? ああ、そういう事があったいね」


 話の読めないまま、エイダンは頷く。


「ヤッパリ。お城の中に、火属性の魔術を使ったようなが残ってたし、『濁らずの泉』は綺麗に浄化されてるし。でも、加護石に篭められた魔力は、『火』とは別の属性。どういう事か分からなくて、困っちゃったのヨ」


 コチは苦笑を浮かべた。


「レイディロウに辿り着く前から、まず道に迷っちゃうしネ。よく知らない土地は、色々あるヨ! その時は、親切なノームに助けて貰ったんだけどネ」


 ――レイディロウに行こうとして、道に迷っていた魔術士。

 ――ノームに助けられた。


 そんな話を、以前にも聞いた覚えがある。

 妖精の森ノムズルーツの、モヌポルからだ。彼は道に迷った魔術士を案内し、謝礼として、レイジングゴーレムの卵を受け取った。あの黒い炎を吐く、謎めいた玩具を……

 

 ――あの卵は、コチが?いや、まさか。


 エイダンは、僅かに身を硬くして問い質す。


「レイディロウには、一体何をしに行きんさったん?」


「お父様がネ、チョットぼやいてたのヨ。レイディロウの加護石と、湖水の汲み上げ装置を造ってから、もう八十年……そろそろ経年劣化で壊れてる頃だってネ」


 ――『お父様』が、八十年前に、レイディロウの浄化装置を造った? ……『お父様』というのは一体何歳だ? 実父だとすると、コチは何歳になる?


「お父様は自分で様子を見に行くつもりだったんだろうけど、何しろ忙しくてネ! だからワタシ、勝手に代理で来ちゃったのネ。そうしたら、加護石、直ってるんだもの」

「加護石を直したんは、正規軍の治癒術士さん方らしいけども……」

「そっちも調べたネ。でも、ワタシが興味あったのは、城の『残り香』……火の治癒術の痕跡ヨ。お父様もきっと、それに惹かれると思うのヨ。何しろお父様は、お風呂が好きだからネ!」


 番台に乗り出していた姿勢を正し、エイダンは半歩分ばかり、コチから身を離した。


「その……風呂好きのお父様ってのは……どうしてレイディロウに、あんな装置を?」

「人助けのためヨ。レイディロウの城主様の事、お父様はとても好きだったヨ! お風呂好きに悪い人はいないって言っててネ。友達になった人なら、お父様は誰でも助けるヨ! 人間でも、妖精でも、!」


 レイディロウの事件を思い出す。

 あの大掛かりな湖水汲み上げ装置。魔力を復活させるのに、正規軍所属の治癒術士が数人必要になったという加護石。

 それを八十年前に造り上げ、とっくに城主が死した今も、その稼動について気遣える人物……。


 エイダンは、慎重に口を開いた。


「コチさんの『お父様』って……誰?」


「お父様、ヴァンス・ダラって名前ヨ! 魔杖将なんて呼ばれて、有名だから、エイダンくん知ってるかもネ!」

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