第20話 ライタスフォートの鼎談 ①
魔杖将ヴァンス・ダラ。
歴史の表舞台に現れる度に、世に混沌をもたらしてきた、神出鬼没の邪道の将。魔なる者共の救世主。聖シルヴァミスト帝国の仇敵。
……その娘を名乗る者が、エイダンの営む風呂屋で、番台のエイダンと向かい合っている。
いや、冷静になれ――とエイダンは思考する――あくまで、コチがそう名乗っただけだ。
いくらかの傍証があったとしても、そんな話は突拍子もなさ過ぎる。コチはつい先日、共に同じ任務を成功させた、治癒術士仲間ではないか。
東洋からシルヴァミストを訪れて間もないコチの事だ。別の誰かの名前と、ヴァンス・ダラを取り違えている可能性もある。ちょっとした発音のミスだとか。実はタンス・バラさんかもしれない。
「番頭さん!」
鋭く低い声が上がった。
脱衣場の幌をめくり、オースティンが顔を出している。それはいいのだが、裸身にタオルを巻きつけただけで、まだ肩から湯気が立っているような有り様だ。
「オースティン大尉! 脱衣場から出る時は服着んさって下さい!」
これ以上、混乱する要素を加えないで欲しい、と切実な気分でエイダンは注意したが、オースティンはまるでそれを聞き入れず、逆にエイダンに向かって命じた。
「危ないぞ! 下がっているんだ、番頭さん! ……やはり現れたな、コヨイ・サビナンド!」
「アナタは……」
コチが片眉を跳ね上げるようにして、オースティンを睨む。
「シルヴァミスト軍のヒトネ?」
「その通りだ! 第四連隊所属、ハワード・オースティン大尉と名乗らせて貰おう!」
タライとタオルと小銭だけを持って風呂屋に来ていたので、オースティンは当然丸腰だったが、どうやら、掃除用具入れを勝手に漁ったらしい。デッキブラシを携えている。
その構えの隙のなさに、状況を忘れてエイダンは感心した。彼も棒術を嗜んでいるので分かるが、オースティンの槍の腕前は、相当なものだ。とはいえ、それより服を着て欲しいのだが。
「そして貴様は……魔杖将ヴァンス・ダラの娘、コヨイ・サビナンド! 魔の者らの癒し手! 『コチ』とも名乗っているようだが、そちらは偽名か……!?」
「アナタには、どっちも名乗りたくないけどネ!」
言うなり、民族衣装の裾をひるがえし、コチはテントの外へと消えた。
「待て!」
「コチさん!」
オースティンがテントから飛び出し、エイダンも慌てて後を追う。
しかし外に出た途端、エイダンは身を竦めて足を止めた。
「オースティン隊長! ご無事ですか!」
軍人のものと思われる、硬い声が飛ぶ。
テントの周りはいつの間にか、武装した多数の人間に囲まれていた。皆、銀色の紋章が縫いつけられた制服を身に着けている。シルヴァミスト正規軍の兵士だ。
まだ日の高いこの時間、普段であれば、蚤の市通りを思い思いに行き来しているはずの旅人や買い物客達は、退避させられ、遠巻きに固唾を呑んで見守るばかりである。
「
コチが唇を尖らせる。
「呪術部隊! 撃てッ!」
オースティンは、外の状況を把握していたらしい。慌てふためくでもなく、さっと右手を挙げて指示を飛ばした。
既に詠唱に入っていた呪術士の一団が、次々と攻撃魔術を放つ。狙いは全て、コチに定められている。
コチは風呂屋の床板を踏切台にして、鮮やかな跳躍を見せた。彼女を追跡し、火炎や氷の塊が空中で炸裂するも、そのことごとくを舞うように回避する。
火矢の形状で飛んできた呪術の一つが、コチにかわされて風呂屋のテントに当たった。幌が火花を浴び、煙を上げ始める。
「風呂ーッ!?」
いまいち事態について行けていなかったエイダンも、これには即座に絶叫した。暖簾を引き千切る勢いで外し、幌についた火を叩く。
「オースティン隊長! 槍を!」
外で待ち構えていた兵士が、オースティンに駆け寄って槍を差し出した。
彼は軽く頷いてそれを受け取るなり、
「確保ォッ!」
怒号に近い声を上げた。
同時に、日頃風呂屋に来る時の、呑気な足取りからは想像も出来ない俊敏ぶりで、コチへと肉薄する。
「ダァァッ!」
「!!」
鋭い槍の一突きが迫った。
コチは上体を大きくのけ反らせ、鼻先でそれを回避する。そのまま身体を捻り、片脚で槍の穂先を蹴り上げた。更に勢いに任せて、後方に二度三度縦回転し、脇から間合いを詰めつつあった剣士達を翻弄する。
「この――」
コチの死角へと回り込み、一人の兵士が剣を抜こうとする。
ようやくテントについた火を消し止めたエイダンは、その兵士の動きに気づき、咄嗟に、手に持っていた暖簾の布を彼の腕に投げ、絡みつけた。今にも斬りかかろうと身構えていた兵士が、布に腕を取られてつんのめる。
「小僧ッ、何をしやがる!」
「待った、落ち着いてぇや! コチさんはそんな、寄ってたかって刃物で取り囲むような相手じゃ……」
食って掛かる兵士を、エイダンは取り押さえて宥めようとしたものの、相手は正規軍の一員だ。一介の冒険者が取っ組み合って、どうにか出来るはずもない。
「引っ込んでろ!」
「うぁっ!?」
剣の柄でこめかみを
「エイダンくん!」
遠目に、エイダンが斬られたと見えたのか、コチがさっと顔色を変えた。
淡い紅色の化粧が施された
犬歯と両手足の爪が見る間に伸び、黒々としていたはずの瞳が、瞳孔だけを残して金色に輝き始めた。
「お前らぁぁぁぁッ」
先程までとはまるで異なる、底冷えする声音。周囲の兵士達が、戸惑って顔を見合わせる。
次の瞬間、藍の染料を宙に溶かしたような濃い
唖然とする兵士達の眼前で、コチの姿に取って代わって、ゆうに人の三倍はあろうかという身の丈の、群青の毛皮の狼が出現したのだった。
「化け物……!」
兵士の一人が、
最も手近にいたその兵士へと、狼となったコチが、容赦なく飛びかかった。
「うわあああ!?」
兵士が身を守ろうと、盾を掲げる。それに噛み付いたコチは、盾ごと兵士の身体を
悲鳴と共に、折り重なって呪術士達が倒れる。
「なっ……コチさん……!?」
頭を押さえながらも身を起こしたエイダンが、狼の姿を見上げて、目を丸くする。
「アレッ。エイダンくん。生きてるネ?」
狼の口からいつもどおりの、あっけらかんとしたコチの声が飛び出した。
「そんな、勝手に殺さんといてよ」
思わず普通に不平を述べつつ、エイダンはこめかみの辺りを拭う。剣の柄で殴られた所から、思ったより多量に流血していた。これは心配されるかもしれない。
だが、エイダンの負傷よりも明らかに大ごとなのは、この街なかに現れた狼の方だ。
彼女は紛れもなく、コチであるらしい。たった今会話も成立した。しかし、あの姿は? 極東には変身の魔術でも存在するのだろうか?
「これが奴の正体だ、番頭さん」
重い声で、オースティンがエイダンに告げる。
「見てのとおり、あれは人間じゃない。北方の戦線で長年我が軍を苦しめてきた、仇敵と呼ぶべき魔物の一体だ」
「魔物……!? そらなぁですよ! だって、ついこの間一緒に」
彼女とは、共に人間の街を救ったはずだ。スミスベルスは鍛冶の街。つまり、この国の人々が魔物達と戦うための武器も、あの街では数多く作られている。
「父親と同じく、コヨイ・サビナンドの行動には、一切の法則性がない。今回もそうだ! 北の戦地から、忽然と姿を消したかと思えば、突如シルヴァミストの内陸部で、人間の姿での目撃が相次いだ」
しかしこれは、千載一遇のチャンスでもあった、とオースティンは言う。
コヨイ・サビナンドは、厄介な魔術の使い手だった。彼女に鼓舞されると、魔物の群れは傷を癒され、時に手のつけられない程に強化される。
だが、彼女自身がシルヴァミスト軍に牙を剥く事は、滅多にない。
コヨイはあくまで、魔物の
「奴がこの付近に現れるとの情報を掴んで、戦場で対峙した経験のある私が派遣され……こうして、捕縛作戦が展開された。結果、君を巻き込んでしまった事は、申し訳ない」
「そうヨ! エイダンくん生きてて良かったけど、怪我させたのは許せないネ!」
ぐるるるる、と低い唸り声を上げて、コチが憤慨し、自身を取り囲む兵士達に再び向き直る。
「それに、ワタシはアナタ達なんかに、捕まらないヨ!」
「コチさん、ええって!」
と、エイダンは両手を振った。
「大した怪我じゃなぁし、俺は
現在の状況が、国家も関わる一大事であるらしい事は一応理解したが、それよりエイダンとしては、この戦いをこれ以上見ていたくなかった。一度はパーティーを組んだ仲間と、風呂屋の常連客の争いなど。
どうにかして場を穏便に治めようと、彼は呼びかけ――
――そしてそこに、全く新しい声が降ってきた。
「そのとおりだ。皆、下がるといい」
オースティンをはじめ、兵士達全員の動きが、落雷にでもあったかのように一斉に停止する。
どこかで聞き覚えのある声だ、と怪訝に思いながらエイダンは、蚤の市通りの野次馬達が、自然とその人物のために道を開けて、数歩身を引く様を見つめた。
銀糸で魔除けの紋様が刺繍され、持ち主の厳格さを表すかのように隙なく着こなされた、深い紅色のローブ。綺麗に丸められた(もしくは加齢により自然とそうなった)頭部に、深く皺の刻まれた眉間、高々と通った鼻筋。
一年と二ヶ月前、サングスター魔術学校の入学式に出席したエイダンは、講堂の壇上に立つ彼を、一度だけ目にした事があった。
「ギデオン・リー・サングスター……学長」
あまりにも思いがけない人物に、突如として同意を示され、エイダンはただ、彼の名を呼ぶしかなかった。
サングスター魔術学校学長。いやそれだけではない。かつてシェーナが説いた所によれば、この国有数の、偉大な魔術士の家系であり、当代唯一の光属性魔術の使い手。
そして、シルヴァミスト帝国正規軍魔道部門の最高顧問だ。
数名の魔術士を伴って、兵士達の前へ悠然と進み出たサングスターは、一度エイダンに目を向けてから、オースティンへと軽い会釈をしてみせる。
「ご苦労だった、オースティン大尉。……ところで、彼が調査報告書にあった治癒術士、エイダン・フォーリーだな?」
「はっ、閣下。しかし、彼は調査の結果、全くの潔白で……」
「彼にも、同行を願うように」
さらりと、サングスターは命じた。
世間話のような平淡な口ぶりで言われたため、その指示の意味を理解するのに、エイダンは多少の時間を要した。
サングスターの背後に控えていた魔術士達のうち、眼鏡をかけた、神経質そうな痩せぎすの男が、数名の兵士と共に素早く近づいてきて、エイダンを取り囲む。そこで彼はようやく、はたと目を瞬かせた。
――これは、逮捕という奴では?
「閣下! 彼は……!」
「潔白である事は知っている。簡単な聴取のための、『任意同行』だ」
焦ったオースティンが言い募るのを、片手を挙げて遮り、サングスターは眼鏡の男に、改めて命じた。
「ホワイトリー少佐、彼を護送馬車へ」
「かしこまりました」
眼鏡の男が返事をして、エイダンに歩くよう促す。
「待ちなさいヨッ!」
すかさず、コチが咆哮を上げた。後ろ脚で地面を蹴り、一飛びにして、連行されるエイダンの前へと立ちはだかる。
「ワタシの友達、どうするつもりヨ!」
ホワイトリーと呼ばれた眼鏡の男が、警戒の表情で腰の剣に手をかけ、身構える。
が、彼が抜刀するよりも早く、サングスターが動いた。指揮棒風の短い杖が、くるりと振るわれる。呪文を詠唱する素振りすら見せなかったというのに、サングスターの眼前の虚空に、眩く輝く正三角錐が出現した。
拳程度の大きさのそれは、
「ナニ、コレッ!?」
コチが困惑の声を上げた。
エイダンにも、何がどうなっているのか分からない。太陽が迫ってきたような強烈な光線が周囲に放たれ、一瞬、エイダンは目を閉じた。そしてまた視線を戻すと、コチの巨体が、宙に浮かぶ正三角錐の光の中に、閉じ込められていたのだ。
「グルアアアアアアッ!」
怒りと焦燥に駆られて、コチが獣の声音で絶叫した――だがその咆哮は、分厚い壁に阻まれているかのように遠く聞こえる。
「出しなさいヨッ! 出せッ!!」
回転していた三角錐は、頂点を地面に向けた逆三角形に近い状態で、姿勢を安定させたため、中に閉じ込められたコチは、前脚後ろ脚を無理矢理畳んだような、不自由な体勢となっている。
「コチさん!」
エイダンは夢中で眼鏡の男を振り切り、彼女に手を伸ばした。
三角錐に触れようとした時、サングスターが再び杖を振るう。
またも三角錐が強く輝き、コチを閉じ込めたその光は、拳大にまで収束して、サングスターの手元へと戻った。
ことん、と乾いた音がして、地面の上を見ると、鼓が一つ転がっていた。
コチがスミスベルスで演奏していた鼓だ。青嵐鼓と呼んでいただろうか。鼓面が、大きく裂けてしまっている。
「コチさっ……い、一体何しんさったんです!?」
エイダンはサングスターを問い質すも、答えは返らず、すぐさま追いついた眼鏡の男に、腕を捕られてしまった。
「こちらへどうぞ、エイダン・フォーリー」
口調こそ柔らかいが、エイダンを引っ立てる力には、全く容赦がない。
「コヨイ・サビナンドを確保!」
「撤収する! 護送馬車を回せ!」
「この鼓は?」
「危険物の可能性がある。回収し、結界内に収納しろ!」
オースティンと、サングスターに付き従う魔術士達が、呆気ない作戦終了にどよめく兵士達へと、指示を飛ばしている。
鉄扉の付いた頑丈そうな馬車に、エイダンは放り込まれた。撤収を指揮するオースティンがちらりと、気懸かりそうにこちらを見たが、直後、無情にも馬車の扉は閉められ、程無く車輪がごとごとと動き出した。
サングスターも誰も指摘しなかったが、オースティンは風呂屋の脱衣所に置きっ放しの服を、ちゃんと回収して帰るだろうか、とエイダンはぼんやり考えた。
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