ファンタジーの国

伊東へいざん

第1話 堺の悪夢

 日本国家は実に摩訶不思議な国である。性善説とやらのファンタジーに酔って見知らぬ他者への信頼に安全を委ねることを旨とすることを民族に只管 “要請” する。


 国家の綻びは今や至る所に露わになっているが、結局、根は一つである。その間にあって各地で生徒間の校内格差が顕著になり、落ちこぼれ生徒や質の低下した教諭らによる最後の悪足掻きが暴発し、学校を学び舎として通う生徒たち自身にその八つ当たりの毒牙が次々と襲い掛かって行った。どうしてそんなことになったのか…そうした最中にあって脱力感を覚えつつ教鞭に立っている男がいた。高校国語教諭の堺光太は公立校に於けるそうした落ちこぼれ教諭や生徒の片付け屋として、ひとり日常の脱力感を補っている教諭である。堺の “片付け” 行為は、落ちこぼれたちに反省や更生を求めるものではなく、ただ完全なる抹殺あるのみだった。処理が公になれば自己責任として罪を負わなければならないリスクを伴う “片付け” 作業なのだろうが、堺にはそれをクリアする不思議な能力が備わっていた。堺がこの “片付け” 作業に憑りつかれて行くきっかけになったのは、一人娘の杏奈にあった。杏奈の通う高校で教諭を務めていた堺は、学級崩壊の真っ只中にあって、日々の “片付け” 作業でその憂さを晴らしていた。落ちこぼれ生徒の暴走で担任だった教室は乱れに乱れていたのを、堺は冷たく嘲笑ってさえいた。


 1969年から東京都、千葉県、愛知県、岐阜県、三重県、福井県などの公立高校では学力格差の均質化を目標に「学校群制度」が布かれた。学校群制度による学区制が採用されたことで、生徒たちは学区外の志望校は受験できなくなった。しかし、政府の思惑とは裏腹に学区内での入試難易度の格差が生じ、学校群制度は2004年までに全て廃止された。

 学校群制度廃止によって生徒たちに再び学区を越えた希望校に進む道が開かれたが、今度は人口増加のアンバランスによる郊外への拡散が起こった。各種待遇などの面でも差が生じ、生徒たちはより良い厚遇を求めて私立高校に流れ、進学校だったはずの公立校は凋落に向かっていった。ところが、人口の都心回帰が起こり、それと連動して、かつての名門公立高校が再び息を吹き返しつつあった。


 ある日、堺はいつものように怠惰な面持ちでマンションの屋上に出てみると、娘が灯油をかぶり、炎に包まれる瞬間に出くわした。苦しみ暴れる娘は見る見る激しい炎に包まれ、堺の必死の消火も報われず、燻る煙の中、息を引き取った。あっと言う間の出来事で、堺の混乱は一気に頂点に達した。高校生になった娘の杏奈は、中学生の頃からいじめを受けながら耐えて来た。しかし、その忍耐も限界を迎え、住まいのマンション屋上で焼身自殺に至ってしまったのだ。自分のことで精一杯で、娘の事など何も見ていなかったことを後悔し、堺は狂ったように叫ぶことしか出来なかった。

「元に戻してくれーッ! 元に戻してくれーッ!」

 堺は精一杯の声を絞り出して天に訴えた。

「杏奈ーッ! 杏奈ーッ! 杏奈ーッ!」

 堺は叫び続けた。ガバと跳ね起きた。部屋は真っ暗だった。

「どうしたの !?」

 妻の杏子が隣で怪訝な顔をしていた。

「嫌な夢を見た…杏奈が…杏奈は !?」

「自分の部屋で寝てるでしょ、まだ真夜中よ」

「…そうか…ちょっと見て来る」

杏奈はスース―眠っていた。しかし、堺は気になって夜の屋上に出て見た。暗くてよく分からなかったが、刺激のある焦げ臭さが気になった。


 今日は日曜日…杏奈が友達に会うと言って元気に出掛けて行くところだった…夢…夢で良かった…最初はそう思った。しかし、夢でなかったことはすぐに分かった。堺は起きたその足で再びマンションの屋上に向かった。エレベーターホールから屋上へ繋がるドアを恐る恐る開けると、そこには杏奈が倒れて息絶えたらしい焦げ跡のシミが生々しく残って、まだ燻っていた。暗がりでの臭いはこれだったのだ。ふと屋上から下を覗くと、遠くを友達と一緒に歩いていく杏奈が見えた。杏奈は無事だった。自分の赴任する高校に入って二ヶ月程した杏奈たちの背中に温かな陽射しが当たっているのを眺め、取り敢えずホッとした。しかしリアルな夢だった。妻には誤魔化したが、夢から覚めた時、涙と震えが止まらなかった。

「戻ったんだ…戻ってくれたんだ…」

 この不思議な体験をした数日後、仕事を終えて下校する堺の前に、一人の初老の男が現れた。

「あなたには同じ臭いを感じる」

 その男は怪訝な堺に構わず名刺を出した。名刺には“片付け屋 岡本朔太郎”とあった。

「娘さんが危険です」

「え!?」

「助けられるのは父親であるあなたしかいない」

 堺はマンションの屋上での不思議な体験がフラッシュバックした。目の前にいる初老の男の言うことをいきなり信用できるわけもないが、あまりにタイミングが合い過ぎていた。

「どういうことですか?」

「とにかく、急いで帰って娘さんを守ってあげてください」

 堺は言われるままに家路を急いだ。足は自然とそのままマンションの屋上に向かった。すると、杏奈が手摺りに寄り掛かり、遠くを眺めていた。足下にはどこで手に入れたのか4ℓ入りの角缶が置かれていた。あのことがまたここで起ころうとしている。悪夢にスイッチされたのではなかったのか…。

「杏奈!」

 杏奈は驚いた。堺が近付こうとすると、杏奈はとっさに角缶を持ち、ライターを堺に向けた。

「来ないで…来ないで! お願い…」

「もう見たくない!」

 杏奈は堺の言葉に怪訝な顔をした。

「見てしまったんだ…おまえが焼身自殺して…もがき苦しんで死ぬところを見てしまったんだ! もう見たくない!」

「どういうことよ! 私はまだ死んでない! でも…死ぬしかない」

「誰が喜び、誰が悲しむんだ!」

「憎いの! 死んで困らせてやるの!」

「死んだらおまえをいじめてるやつらを喜ばせるだけだ。そして、おまえをいじめていたことなんかすぐに忘れる。そして、お父さんとお母さんだけが悲しみを一生背負って行かなければならなくなるんだ! それでいいのか、杏奈!」

「知ってたの !?」

「…知ってても…どうにも出来なかった。どうすればいいのか…」

「もうがんばれない!」

「がんばらなくていい! 楽しく生きるんだ!」

「楽しくなんて生きられない…」

「あいつらが生きてるからだ! あいつらさえこの世に居なくなればいいだろ」

「そんなこと…出来ないこと言わないで!」

 その時、堺の表情は娘の杏奈にも分かるほどに変貌した。

「出来るか出来ないか明日わかる…死ぬのはもう一日待て」

「…お父さん」

「明日もあいつらがこの世に居たら、杏奈が死ぬのを止めないよ。これ、借りていくよ」

「お父さん、やめて! もうどうにもならないの!」

「お父さんはおまえの未来を絶対に壊させない!」

「出来ないよ、そんなこと出来ない!」

 堺は杏奈の握っている灯油の缶を奪い取った。杏奈を失うことになるのなら、全てを終わりにしたかった。階段を駆け下りて行く堺に杏奈は泣き叫んで抗議するしかなかった。


 翌日、案の定、杏奈はまたいじめ連中に体育館裏に呼び出されていた。リーダー格の佐内涼、そして上原麗菜、金森美春、倉島結、小金沢君華の5人だ。

「まだ生きてたの?」

「昨日、焼け死ぬって約束したじゃない? 渡してあげた灯油どうしたの? まだ持ってるんでしょ?」

「ああ、持ってるよ…これだろ」

 堺が灯油の缶を持って現れた。

「これだけじゃ足りないだろ」

 そう言って、彼女らの足下に4ℓの角缶を投げ、更に持って来た一斗缶を置いた。一瞬怯んだ佐内たちだったが、相手が日頃から陰険能無しと蔑む堺と見て強気に出て来た。

「おや、本校先生でもあるお父様の出番ですか? 杏奈…父親に泣き入れたわけね? で?」

「杏奈は死に方が分からないらしいから、きみたちにお手本を示してもらおうと思ってね」

「なんだと!」

「さあ、灯油での自殺の仕方を教えてもらいましょうか」

「てめえ、ふざけんな…」

佐内涼が4ℓの角缶を持った瞬間、彼女たちは見知らぬ広場の情景に吸い込まれた。すると上原麗華が不本意ながらの態で一斗缶を持ち上げ、佐内に掛けた。

「てえめ、何すんだよ! 相手を間違えんじゃねえよ!」

上原麗華は勝手に動く自分の体に翻弄され、続けざまに金森美春、倉島結、小金沢君華にも掛けまくった。彼女らは上原の異常に翻弄されながら逃げ惑ったが、上原は執拗に追い駆けて灯油を掛け続けた。缶が空になると、残りの灯油を自分の頭からかぶった。堺は上原の行動に茫然としている佐内にライターを放り投げた。

「ほら! 仕上げはリーダーの仕事だ」

「何させんだ、くそ!」

 言葉で抵抗しようにも、体は反対の事をしている。ライターを擦ろうとする指を必死に抑えながら佐内は怒鳴った。

「杏奈、父親にやめさせろ! 早くやめさせろよ!」

「お父さんは何もしていないわ。あなたがしてるんでしょ。やめたいんなら自分でやめればいいでしょ?」

 杏奈は打って変って冷酷になった。午後の始業チャイムが鳴った。

「杏奈、帰ろうか。授業に遅れる」

「うん」

「てめえら、待てよ!」

 叫ぶ佐内らを無視し、堺と杏奈はその場を離れた。午後の授業が始まって暫くすると、消防車のサイレンが校舎に近付いて来た。間もなく救急車の音も聞こえ、校庭にはパトカーが乗り入れて来た。授業中の生徒たちは次々と教室の窓から顔を覗かせた。


 翌日、『五人の女生徒集団焼身自殺』の記事が新聞の一面を飾った。

「お父さん…」

「なに?」

「学校での事故が…」

「そう」

 堺は全く興味を示さなかった。

「杏奈、早く食べないと授業に遅れるよ。人間には良心がある。そして、神様はいるということだ。火遊びはもうやめなさいね」

「火遊び?」

 妻の杏子が怪訝な顔をした。杏奈は堺を暫く直視し、そしてニッコリ微笑んだ。


 高校が一週間の臨時休校になった。杏奈の件も落ち着き、堺は久し振りに近くの公園に散歩に出掛けた。そこに再びあの初老の岡本朔太郎が現れた。

「娘さんが無事だったようで何よりです」

「岡本さん…でしたね。まだ事態が呑み込めていないんですが、とにかく、ありがとうございました」

「いえ、あなたの力です。もうお気付きと思うが、あなたにもそうした超能力があるのです」

「わたしにも? 他にもそういう方が…」

「そうです。私ども “片付け屋” には、あなたと同じ能力を持った人間がいます。私どもはいつも不利な立場に置かれるいじめ被害者の救済会社です。受けた依頼の信憑性を調査し、必要があればその依頼を受けて邪魔者を片付けます…片付けるのは人間です」


 堺にとって岡本の言葉は痛快だった。

「法を犯して…」

「超能力ですから法を犯したことにはなりませんでしょ、堺先生。超能力は法では裁けません」

 そう言って岡本はニヤリと微笑んだ。

「自力救済が禁止されている以上、判決が不本意でも被害者側は泣き寝入りするしかない世の中です。そうした方々の心の痛みを超能力で救うことにもなるんです」

「被害を受けたまま死んでしまったら、何もかも終わりですからね」

「そうです。ですから死んでしまった場合は時間を戻します。そうした力があなたにはあることは、娘さんの件で立証されたでしょ。しかし、放って置けばその時間はまた繰り返されます。結局、元凶を断たなければ終息しないんです」

 堺は杏奈に起こったことを思っていた。そこに無骨そうな男が現れた。

「藤原さん !?」

 どうやら、岡本の知人らしい。藤原来道とは元『任侠くまげら組』若頭である。現在は民間軍事会社である『無縁商会』の代表として片腕たちを育てながら事業を運営していた。

「岡本さんに先を越されましたな」

「駄目ですよ、この人をやくざに誘うのは」

「やくざ !?」

 堺はつい口から偏見の言葉を発して決まった。来道は気にする風もなく堺に微笑んだ。

「とっくに足を洗いましたよ…と言ったところで、確かにヤクザの臭いはちっとやそっとじゃ取れるものではありませんよね。滲み付いた垢は落とせない。我々犯罪者が更生するというのにしたって錯覚です。お上の数字では、やむなく犯罪に至ってしまった場合を入れて再犯率48%と言われていますが、やむなく犯罪に至ったものを除けば再犯率ほぼ100%です。犯罪者は必ず犯罪を繰り返します。そういう本能の持ち主なんです、我々は。更生は偽善が生み出す有り得ない夢です。命を守るには彼ら全てを抹殺する以外にないのです。ただ…救える方法がひとつだけある」

 来道は饒舌だった。しかし、岡本は来道の話を切った。

「また、お話ししましょうよ、藤原さん。今日は私との約束だ」

 岡本はここで来道と会う約束だったようだ。そこに堺は偶然にも足を運んでしまった。堺は来道の話の続きを聞きたかったが、去って行く岡本と藤原の後ろ姿を見送りながら、何故か心が安らかになっていく自分に驚いた。 “あなたには同じ臭いを感じる” と言った岡本の言葉が響いた。


〈第2話「あなたも自殺するのよ」につづく〉

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