戴血の娘よ、狂夢の主たれ

雷之電

 二〇世紀に高度経済成長を迎えて以来、悪政の極みや大手銀行の倒産を受け、日本の経済は悪化の一途を辿っていた。

 二一世紀後半に入る頃には日本行政の予算は破綻、もはや国家の体をなしておらず、通貨はくずに成り果てる。

 より地方自治の力が大きくなり、それぞれが独立した体制をとり始めた結果、小さい日本の国土はさらに細分化されていった。


 九月中ごろの日曜日、昔からの悪友との呑みを終えて住宅街の路地を歩く。家々は既に営みを終え、漏れる光はなくなっていた。まばらに立つ電柱の常夜灯だけが頼りとなっている。

 呑みといっても自分は酒に強い方ではないので、いつもジョッキ一杯のビールくらいだが。

 夜にこの道を通ると、子供の頃の家出を思い出す。親と喧嘩して、もう二度と家には帰らないと決心して外へ飛び出すのだが、だいたい日付が変わる少し前には住民や巡査に捕まってしまうのだ。捕まえに来るからこそ、それまでの時間、家庭から独立したような気分というか、強制収容所からもう少しで脱走できるといった感じの気分を味わえたのだと思う。いつも厳しい親から、少しでも愛情やその他を感じたいという願いもあったのだろう。

 

「……?」

 自分よりわずか先、電灯との間の完全な闇の中に、獣のような鋭さでこちらを見つめる、二つの光……


 固まるこちらに構わず、視線の主が飛びかかってくる。しかし首にしがみついたそれは、体をひねるだけで簡単に振り払われてしまった。

「っ、何なんだよお前!」

 諦めず向かってくる相手の左手首と首根っこを掴み地面へ押し倒した。踏ん張りも効かず、張りぼてでも倒したかのような手応えであった。

「っは、んぇ……」

 女の子だった。中学生くらいか?今まで殺気立っていた目は恐怖に怯え、すっかり立場が逆転していた。

 慌てて力を緩めるが、何か諦めたようで、動こうともしなくなってしまった。

 こんな時間に一人で真っ暗な路地を歩くとは言うまでもなく危険である。憔悴した様子も案じて、一度家で落ち着かせようと決めた。

「立てるか?ほら」

 心ここにあらず、といった感じか。仕方なく背負っていくことにした。それから終始こちらに身を任せていた彼女は、驚くほど軽かった。


 家は親から継いだ二階建ての木造の家屋で、当時この辺りの地主だった祖父が立てた家らしいが、土地も失い周りに新しい家が続々と建っている今ではその栄光も過去のものとなっている。

 立て付けの悪い扉から入って土間を上がり、とりあえず居間の畳に寝かせ、自身も横に座り込んだ。

 さっきは暗闇でよくわからなかったが、白に薄く半透明の水色を混ぜたような髪色であった。染めているのかとも思ったが、染めたような髪質ではない。

「!!」

 少女の着ている黒いパーカーとジーンズパンツ、色合いから今まで気が付かなかったが、血でベトべトだ……

「この血……どうしたんだ、早く止めないと」

 不思議そうにこちらを見上げてくる。自覚がないなんてことは……?

「あ、これ、違うの。私じゃなくって……べ、別の人。怪我はしてないの」

 それでも事件臭は消えないどころかますます強くなるだろうに。この子、一体何をしでかしたんだ?

「そう、血、血が欲しくて……でも、あなたには勝てなかった」

「悪ふざけが過ぎるだろ、何がなんだかさっぱりわかんねえよ……」

「お腹が減っただけ、血がないと死んじゃう」

 何を言っているのか理解しかねる。腹が減ったなら飯くらいあるが、血、とは?

 あーっと口を開けてみせ、鮫の歯のように鋭い犬歯を指さした。

「俗に言う吸血鬼ってやつ。吸われるのは痛いかもしれないけど、逆に言えばそれだけだから……」

 ますますワケがわからなくなってきた。血のりを使ったタチの悪い悪戯だと信じたいが……

「!?っあ、ちょ、……」

 首元に信じられないような激痛が走った。混乱しているうちに這い寄られていたらしい。

 鋭利とはいえ歯である。首に刺さったというより、無理やり裂かれたという表現のほうがしっくり来るくらいの歯先の粗さである。脈拍に合わせて痛みが上下するのがまた嫌らしい。しかし驚きのあまり力が入らず、突き飛ばすこともできないでいた。

「ま、待て落ち着け。一回離れろ」

 やっとの思いで彼女を引き離すと、困惑と焦りが入り混じった複雑な表情を浮かべた。

「え、何で、あともう少し……」

「少しもたくさんもねえよ、明日病院行くぞ、今日はもう寝ろ……あー、あとこれ着替えな」

 病院という言葉が口をついて出たが、もちろんこの時代に保険証なんてものはなく(あってもこの場合持っていないだろうが)、医療費は全額負担が当たり前である。しかし人命のためなら身を切っても構わないと思えるくらいには、自分の感情はこの時代にしては擦り切れていなかった。

 タンスから適当に衣服を引っ張って渡し、少女を置いてそそくさと風呂に直行した。

 風呂上がりに居間を覗いてみると、きちんと渡した服に着替えたうえで、傍にあった毛布をかけてまるくなっていた。

「これからどーすんだ、まったく……」

 自分もこの子も、これから先どうこうするには問題がありすぎた。とにかく今はどうすることもできない。面倒は翌日に持ち込むとしよう。


「ん。ご飯できたよ」

 毛布と一体化したそれは返事どころか身動き一つせず、こんこんと眠り続けていた。何があったのか知らないが、よほど疲れているんだろう、起きるまで白飯は用意しないでおいた。

 自分が食べていけるだけの稼ぎしか生む必要のない、とりわけ楽な自営業のようなものを仕事にしているので、いつも朝は遅い。だいたい9時くらい、遅いときは昼過ぎになる。

 まず病院の予約をせねば。

『あー、久か?珍しいな。このクソ忙しい時間に何だ、それなりの緊急性はあるんだろうね?うっかり道端に落ちてるウラン鉱石を飲み込んだとか』

「馬鹿野郎、んなわけあるか。そうなら今頃諦めて自殺してるよ」

 内科医をやっている友人の中島。友人に診察されるのはなんとなく嫌なのでかかりつけではないが、今回は信用のおける医者ということで彼を尋ねることにした。

「昼休みの間にそっち行くけどいいかな?まあ選択肢は無いけど。ちょっと厄介なことになった」

『性病にでもかかったか?生憎うちは泌尿器科じゃないんだけどな』

 よくこんなヤツが医者になれたものだ。頭は良くとも品性は偏差値でいうと40のそれである。

「その減らずぐちに淋菌でも突っ込んでやろうか」

 まあ自身もこの冗談が好きで友達をやっているのだが。

「ちょっと変わった奴を連れてくる。他人に知られちゃまずいんだよ」

『おっと、俺がいつも吐く冗談が現実になったかもな。まあ見てからのお楽しみってことで』

「あともう一つ。血液パックあったら用意しといてほしい」

『いやいや、あれはそんな都合よく余ってるようなもんじゃな――』

 切った。

 確かに今までに生んだ数多の冗談の中で、吸血鬼のネタが一つや二つはあったかもしれない。

 吸血鬼と言って本当に信じるだろうか?自分すら未だ半信半疑で、あいつに説明できるだけの情報を持っていないというのに。見せられるのは傷くらいだ。

 毛布の塊が動き出した。お目覚めのようだ。

「ん……」

 毛布から分離し、夏仕様のこたつに並べられた朝食とこちらを交互に見つめている。

「もちろん。食べな」

 寝ぼけた頭を醒ますためかしばらくその場に座り込んだあと、もそもそと食卓についた。

 よほど腹が減っていたようで、10分もしないうちに完食していた。ちょっと気分が悪そうだ。

「慌てて食べるから……あ、病院行く前に風呂入りなよ、沸かしてくるから」

服はどうにかなるが、下着はない。姉が置いていったものから適当に引っ張ってくるか……今度会ったら殺されそうだが。

 それから一時間も入っていた。茹でだこのようになって居間へ戻ってきた。

「長かったね。のぼせたでしょ」

「うん……寝ちゃってた」

「あ、と……いろいろ聞きたいことがある。互いを何も知らないままじゃあれだろ?話したくないことは話さなくていいからさ。まあ座って」

 いきなり表情が固くなったが、なんとか頷いてはくれた。

「俺は越生久(おごせ ひさし)。二一歳。君は」

「飛驒零花(ひだ れいか)。じゅ……一三歳」

「学校には、行けてるの?」

「……、最近は行けてない」

 教員や親は探さないのか?

 学校。もはや教える子供がほとんどいなくなった今、広大な敷地にどんと構える鉄筋製の校舎は自治組織の砦や図書館となっていて、その教室一つ分くらいの大きさの、どこか丁度いい建物に集まって、志ある者が余裕のある時に、ひとまず直近で必要な知識や実践的な技能を詰め込んでいる。高等教育機関もその舎を残しほぼ消えたと言え、夢見がちな学者が蔵書を頼りに夢見がちな学者の卵を大切に育てている。電子工学の勧誘を何度か受けたが、車輪の再発明と言われようとも、久は自分でその道を切り拓いていこうと決めていた。

「家族はどうしてる?きっと心配してるよ」

「ありえない。あいつが先にいなくなった……いつも私を疫病神みたいに見てた」

 単数形…… 片親なんだろう。その親にさえ捨てられた、といったところか。

「あと……何があったんだ?あの血痕」

 答えない。それどころか顔色も悪くなっていく。

「……言いたくない。思い出したくもない」

 何からくる不快感なのかわかりかねるが、よほど大きな傷を抉ってしまったようだった。

 これ以上の質問はまずい。ここで切り上げて、落ち着いたら病院へ行こう。


「で、人間の内科医が吸血鬼なんか診れると思う?栄養点滴くらいしかしてやれないだろうけど」

「おい、血液パック用意しとけっつったろ」

「三十分やそこらで用意できるわけないでしょ……第一、型も聞いてないだろうに」

「型なんかどーでもいい。今ならわかるだろ?輸血には使わない」

 現代ならお断りだろうが、この時代にモラルなど無いに等しい。血液を輸血以外に使おうと思えば使えてしまうのだ。そしてそのモラルとやらも何についてのモラルなのかはっきりした答えがないもので、忘れられるのも当然といえば当然ではある。

「期限切れのやつなら一つあったと思うけど……お嬢ちゃん、お腹強い?」

 じっと越生の腕にしがみついて動かない。わざとおどけたように話しているのが、逆に彼女を警戒させているようだった。

「まあ……空腹時は人ですら人を食べるらしいし、大丈夫だよね」

 勝手に納得したようで、期限切れの血液を取りに診察室の奥へ消えた。

「あいつは悪い人じゃないよ。少し冗談が過ぎるけど。そうだ、多少の身体検査もあるって言ってたな」

 中島が湯呑みを持って帰ってきた。

「おい、湯呑みなんかに注いできたのか!?」

「いやだって、飲むんでしょ?他に何があるっていうのさ」

 不思議そうにこちらを見てくる。こいつは天然のサイコ野郎なんじゃないかと一瞬思ったが、言われてみれば彼の言うとおりだ。飲み物は湯呑みやグラスに注ぐのが普通である。

「じゃ、これ飲んで。人の体温くらいには温めておいたから」

 零花はそれを受けとり、少し嗅いでから口をつけた。しかし飲むほどに顔をしかめていく。

「うえぇ、おいしくない。すっごい古い味がする」

 中島はさもありなんといった感じで頷いた。

「期限切れだからねえ……中の血球が寿命で死んでると思うよ」

 それでも頑張って完食(完飲?)したところで、検査の準備が始まった。

「えっと、体の仕組みがわからないことには処置のしようがないから、ここにあるすべてを使ってそこを理解する。医療費、覚悟してね」

 行政が崩壊した今、医療費は全額当事者が負担することになっている。さらにその医療費が一律でなくなったことで、砂漠で高額の水を売るような行為を平気でする医者もいるとか。

「今日は混んでないから、夕方には終わると思う。それまで一緒にいてもいいし、いなくてもいい。ただ、彼女はあんたによく懐いてるようだね」

「申しわけないけど、俺はちょっと用事がある。時間になったら、ヤブ医者への正当な報酬を引っさげてまたここに来るよ」

「わかった。じゃあ僕は適切な処置と医師免許を持って待ってるよ」

 免許なんて便利なものはとうの昔になくなったのだが。

 くっついている零花を引きはがし部屋を出た。くっついていたところ、右肩のあたりに、彼女特有の……何というか、ふわふわした匂いがついて離れない。人の匂いの中でも、特に気を許してしまうような……弛緩する匂いである。

 にた部類の匂いを挙げるとしたら、イエネコ、だろうか。いわゆる「猫吸い」による弛緩とよく似ていた。


用事、姉に会いに来たのだ。零花について頼み事があって訪ねた。

「おお、久!連絡くらいくれれば何か準備できたのに」

 築40年程度の団地に住む二七の姉、世子(せいこ)。もともと実家である久の家に家族で住んでいたが、両親の失踪後、自分を見つけると言い家を出た。それから五年経つが、未だ自分は見つかっていないという。

「別にいいよ。今日は別件で甘えに来たんだし」

 一人は寂しいらしい。誰か家に来れば、実の弟でも手厚い歓迎をしようとする。鬱陶しいなんて言えないが。

「あんたも寂しくなかったのかい?おっぱい揉む?」

「姉ちゃんのなんか物珍しくもねえよ。というかそういう甘えを求めてんじゃない」

 姉を押しのけて居間へ進み寝転ぶ。

「女の子を拾ったんだ。中学生の」

「……ほう?とうとうロリコンの禁忌を破ったわけか」

「そんなんじゃない。禁忌といえばむしろあの子が破りまくってる」

「まさか……あんたがその子に食べられた(隠喩)わけ?」

「まあ食べられた(事実)けど……て、何のことかわかってる?」

 猛烈にミスリードされている気がしてならない。

「え、あんたが女の子に性的暴行を加えたか加えられたかって話でしょ?どちらにせよ私はあんたを心底軽蔑する」

「食われたってのは隠喩でも何でもない。文字通り食われたんだよ」

 首筋の噛み傷を姉に見せたが、それだけではなんの話かわかるまい。これまでの経緯をすべて話すことにした。


「それで……吸血鬼だっていう確たる証拠は?」

 都市伝説の不可能性を追及するかのような口調で姉は問い詰めた。

「俺だってまだ半信半疑だよ。ただ家で見せられたあの切羽詰まった顔は嘘をついてないだろうと思う」

「そう……ただの伝説と高をくくっちゃいけないのね。イスラムのグールだって、食人族くらいは見つかってるもんね」

 その例えだと世界中をまたぐことになり伝説とはもはや無関係だろうと思ったが、それは今回も同じだった。ルーマニアの伝説が日本で見つかったのだ。

「で、その子について、久は私にどう甘えたいの?まさか食料になってほしいんじゃないでしょうね」

「なわけあるか。服やら日用品やらをあの子と一緒に買いに行ってほしいだけだ。俺じゃ何もわかんないもんで」

「……待遇は?」

「金銭は出せない。代わりに零花ちゃんをモチモチできるよ」

 姉弟でこんなにもみみっちい話をするとは思わなかった。

「モチモチねえ……まあいいわ、気が済むまでモチモチするから」

「ありがとうお姉様!一生ついてく」

「いやニートがついてきてもそりゃただのヒモでしょうよ」

「ニートじゃない。最低限の自営業だ」

 ただの日銭稼ぎなので、就業意欲に欠けるといえば欠けるが。

「それで、どんな子なの?何も知らずに会って食われちゃたまんないでしょ」

 そう言うが顔からは好奇心がにじみ出ていた。行く気満々である。

「すごい内気。疲れてるだけかもしれないけど。あとすごいかわいい。子猫ちゃんみたい」

「子猫(Pussycat)ってあんた……良い喩えとはいえないね。子供をそんな目で見るなんて」

「ん?……あ、そういうことか。いやそんな飛躍した下ネタぶっ込まれてもわからんわ」

 Pussyという単語が子猫と陰部の両義を兼ねている、という高度すぎて伝わりにくい下ネタである。与えられた電子辞書を嬉々として引く中学生かよ、とツッコみかけた……久はその弟というわけだが。

「ネタを理解してくれるだけでも嬉しいよ~。伝わんないんだもん。さすが私の弟だ」

「こんなとこで血の繋がりを感じられても困るわ!」

 家族でしかできないような、このようにえげつないお喋りを交わしたり、なにか食べたり、昼寝なんかしながら夕方を待った。若くして一家離散したが、姉がいるだけで何にも代えがたい幸福感を感じられた。この時代に自分は幸せ者だな、なんて思ったりもした。こんなこと言ったら姉にからかわれるだろうが。

「じゃ、そろそろ迎えに行こうか」

午後四時半ごろ、久々の良質な眠り化から醒め家を出発した。姉は零花という少女がどんな可愛い子かと胸を躍らせているようだった。


零花は個室のベッドに突っ伏していた。ずっと検査に振り回されて疲れたらしい。

「姉さん連れてきたの?まあいいや。結果を説明するね。えっと、この子の体は人間とほとんど変わらない。構造そのものは人間と全く一緒と言っていい。……あー、筋肉量の割に力が少し強いかなとは思った。内部は、脾臓と肝臓が以上に発達してる。血液の一部を標識して、取り込まれた血液成分がそれぞれどこへ行くか調べてきたところ、腸壁から吸収されたあと、自分の血液となんの反応もせず血管を通って――」

「あのー、もっと噛み砕いて説明してくれる?あと『ヲタク特有の早口』も謹んで」

「んん~?学校で習うくらいの知識で話してるんだけどなあ~……まあいいや」

 物知りによくある難解な説明(本人は最大限わかりやすく説明しているつもり)に代わり書くと、他人の血液が体に入ったときの防御反応を一切見せず脾臓や肝臓で分解されるのだそうだ。普通このあと様々な形で体外へ排出されるが、わざわざ摂取する必要があることから一部を排出せず再利用しているのではないか、とのことだった。

「体内で合成できないタンパク質を補ってるんだと思う。この子の体質から吸血鬼と呼ぶかどうかは置いといて、人類の知識の一歩先を行ったものが起きてる。これ以上はここにある設備じゃわからなかったけど、個人的に興味がある」

 捨て猫の健康診断みたいな気でかかったはずが、生命の神秘について話を受けることになるとは思ってもいなかった。

「それから、傷の回復が目を疑うほど早かった。採血のとき、針を抜いたそばから傷口がふさがっていったんだ。そのためか、体はいたって健康なんだけど……この子、かなり強いトラウマがあるみたいだね。たまに想起するっぽい。さっきは大変だった

……言動には気をつけないと。何があったかはわからないけど。ストレス障害……学生時代に軽く学んだ程度だな……ちゃんと授業受けといてよかったよ。この頃患者が増える一方と聞いた」

「……治るのか」

「二択で言えば治る。ただ、昔と違って臨床心理士とか心療内科医とかがポンポン見つかる時代じゃない……並の努力じゃいけないね」

 努力と言われても何をすればいいのか皆目(かいもく)見当がつかない。慰めればいいなんてものではない。

「具体的には何をすればいい」

「基本は時間薬、ほら、喉元過ぎれば熱さ忘れるって言うだろ?あれの延長だよ」

「特効薬とか、ないのか」

「人は特効薬とか、都合のいいものにすがりがちだ。昔はあったのかもしれないけど、製薬会社なんか今の日本にあると思うか?合成してできる薬なんか今はほとんどないし、あってもバカ高い海外製だ。一応薬として出せるものはあるけど……子供相手に処方したくないな、あれは」

「もったいぶらないで教えて。何があるの」

「大麻草だよ。楽しいことで忘れてしまおうってわけさ。路地や薬局なんかで変えるだろ?効果は高いけど、御存知の通り肝機能障害、不妊、他にも長期的な使用には大きなリスクが伴う。若い人はなおさらね。もちろん、異常な回復力を前にそれだけ発現するかは未知数だけど」

方も存在しないこの世界で、今でいう違法薬物を入手するのはさほど難しくない。自由に売買できるようになり、それらにも非価格競争を強いられるようになったことで、品質もむしろ現代より上がっている。

「うちみたいな小さい病院にくっついてる薬局じゃ扱ってない。医療目的で使う人なんかめったに現れないからね。売人から買うか、僕が処方箋を出せば他の薬局で扱ってるであろうものが手に入るよ。あ、抵抗があるってんなら別に今決めなくたっていいけど」

 未知のものをその辺の売人から買う気はない。

「処方してくれ」

「りょーかい。服用方法は色々あるけど、おやつの時間にでも出してやるといい。少ないぶんには問題ないけど、くれぐれも食べすぎには注意してくれよ」

 処方箋を書いてもらう間に零花を起こす。無理やり起こしたせいでものすごい不機嫌そうだ。ちょうど、不本意な目覚めをした猫のように。

「……、うわ、だっ、誰」

「俺の姉ちゃんの、世子。零花がいかに可愛いかひと目見たくなったんだってさ」

「嘘おっしゃい。いや半分はほんとだけど、目的は違うでしょ」

 さっそくモチモチされている。後ろから手を回しほっぺたをひたすらモチモチされている。それが特に不快なわけでもないようで、容赦のないモチモチに身を任せていた。

 処方箋を受け取り零花は世子に手を引かれて(時々モチモチもされながら)病院をあとにした。


 世子、零花と別れたあと少し離れたところにある大きめの薬局で例の草を購入し帰った。子供にこんなものを買って帰るという現実離れした行動に、自分でも動揺していた。数十年前までは違法薬物として厳しく取り締まられていたが、医用として認められ、公的機関の崩壊後もよく使われるようになった。売人の持つそれとの差は価格とバリエーションくらいだろうか。嗜好品としての販売ではないので、変化に乏しい代わりに安い。いや高くない。

 それでも未だ所持による罪の意識が拭えないでいるものも少なくない。他人が持ったり使ったりしているのを見ると喜々として非難してくる者だ。善悪の境界など、有史以来ずっと定まらない、極めて相対的なものだというのに。落ち度をわざわざ探してまで自分の思う「正義」を振りかざすほうが、ひとり寂しく大麻をやるよりよほどタチが悪い。それに何十年も前の価値観などそもそも通用しないのに。

 自室で仕事の勘定をしていると、一年に二、三回鳴るかどうかのインターホンが来客を知らせた。窓の外に目をやると、この地域と時代に大きく不釣り合いな黒いスーツを着た、保険屋のような格好の若い男が門の前に立っていた。

 門を開け尋ねると男はこう言った。

「はじめまして、越生久さんですね?飛驒零花ちゃんのことでお伺いしました」

「……誰だ、あんたの信用度によって俺が思い出して話せる量は変わるぞ。今は何も思い出せないし、そんな人は知らない」

「おっと、失礼しました。僕は零花ちゃんの生存を支援している、川端という者です。少し、ではありませんが、お話を聞いていただければ貴方の首にある噛み傷をこれ以上増やさずにすみますよ」

「……、全部お見通しってか。何を知ってるか、こっちが聞くことになりそうだ。あの子は今ここにいないってこともわかってて来たんだろ」

「ええ、もちろん。僕自身零花ちゃんに嫌われてますし」

 久と同年代くらいだろうか、彼は人馴れしていないようで、いやに畏(かしこ)まっている。あるいは久の肝が年の割に据わっているのかもしれない。

「まあ、入って」

 居間のこたつに座ってすぐ彼が口を開いた。

「やっぱりここにいたんですね……残り香でわかるくらいには長いんですよ、関わりが」

「それで話って?」

「えっと、我々についてもう少しいうと、ヒューマノイド……人間でない人形の生物を保護したり自立を手伝ったりしている組織です。彼らがこの世界、社会で暮らしていくための訓練とかも。それで零花ちゃんの担当が僕だった。我々が対象を保護できるのは対象かその周りに命の危険が及んだ場合のみですから、あの子の里親となる人に、こうして注意事項やらを伝えに来ているんです」

 話から鑑みるに、厄介な生き物を拾ってしまったようだ……

「……てことは、あの子の他にもそんな人、ヒューマノイドがいるのか」

「そのとおり。だいたい一三〇種くらい。零花ちゃんのように表へ出て生活しているものもいれば、その危険性から地下二四〇mで鉛の壁に囲まれて“保護”されている者も」

 見たことも聞いたこともない話に、フィクションであってほしいという希望的観測から抜け出せないでいた。

「さて、本題です。貴方が拾った吸血鬼について――」



 あの子は……純血の吸血鬼ではなく、人間とのハーフなんです。人間である母親が、その……吸血鬼に、えー、襲われてですね……望まぬ妊娠をしたわけです。我々がコンタクトをとったとき、彼女は、「怪物がお腹にいる」と説明しました。そりゃそうですよね、未知の存在に散々弄(もてあそ)ばれた挙げ句、その子供まで身ごもったんですから。

 産後しばらくはうまく育てられていたんですが……そのうち手をあげるようになって……とうとう育児放棄してしまったんです。直接的な身の危険がない限り、我々はあの子を保護できない……結局、こちらで用意した血液を彼女に託すくらいしかできませんでした。

 小学校の終わり頃には母親がしばらく家に帰らない日も目立ちました。すると似た環境にある他のこと一つの家に集まって過ごすようになったんです。自宅に帰っても、何もありませんし。

 しばらくすると、その部屋の契約も切られてしまいました。仕方なく家へ帰ると……もぬけの殻になっていたんです。もっというと、親に捨てられたってことですね。

 その後は住居を転々として、最後には、その時の主がひどい人で……殺して出てきてしまいました。あの子の服についていた血はその時についたものです。

 あ、吸血鬼の特性について触れていませんでしたね。よく言われる、にんにくとか銀とか十字架とか、ああいうのは平気です。むしろニンニクは好きですね、あの子。紫外線に弱いというのは半分嘘です。灰にはなりませんし、ハーフゆえに純血の吸血鬼よりもう少し強くもあります。多少光のやけどに弱く、紫外線で目が疲れやすいので配慮してあげてください。あと、もっと短波の、X線やγ線にも弱いです。まあ自然放射線以外に浴びることなんてないとは思いますが、豆知識として。大きいエネルギーを持つ電磁波に弱いというのが適切でしょうか。

 常人より運動能力が優れています。ああ見えてだいたい同年代の男の子くらいはありますね。

 あと……夢という世界を確立しています。現実と同じように、夢でも生活している、とでも言いましょうか。眠っている間は夢の中で違う生活をしているんです。でもあくまでもそれは夢で、現実世界の影響を強く受けるようです。こちらで会った人物がNPCのような形で出現したり、ある物へのイメージだけが融合して変な存在を生み出してしまったり。それはそれで楽しんでいるとは言っていましたが……

現実に影響されるのは良いものばかりではありません。今のようにトラウマを抱えていると、大変なことになってしまう。現実で起きたことを追体験するはめになるかもしれないのです。

ひどくなると夢が幻覚や妄想となって彼女の現実を蝕み始めます。過去にも、喜劇に飲み込まれて踊り続け死んだ者がいました。運良く現実でしたように脅威を打破できれば良いのですが……


――俺にどうしろっていうんだ


現実を認識させるんです。脅威はもはや虚構であると。人間が見る夢のように一度忘れたら思い出せなくなるくらいに。

また、夢と現実が実際に繋がってしまうことも。いや実際は別れてはいるんですが、なんと表現すべきか……現実世界で活動しているつもりがいつの間にか夢の中にいる、といった具合でしょうか。零花ちゃん自身だけでなく、周りの人もそうなってしまうんです。あの子の夢に入り込んでしまう。狂夢に引きずり込まれでもしたら大変です。


もう一つ、厄介な能力を持っています。すでに経験しているでしょうが、目を合わせたとき、本人の意志に関係なく相手を魅了するというものです。どれだけ相手の恨みを買っていようと、目を合わせれば一瞬の隙やためらいを生む……貴方も、彼女の魅了を受けて家へ連れ帰ったのでしょう。いや今回は貴方だったから良かった。不道徳なものを魅了してしまうことだってあるんです……

あまり話したくない。まあ、先程述べた、あの子に殺害された主がそんな人だったんですよ。

 えっと、殺してから何日も、家を失ったまま街をさまよっていました。で、昨晩、飢えで死にかけていたところに貴方がやってきたと。


血液は三日に一度、我々が届けます。どうか、あの子の里親になっていただけませんか……?



「……、今更断ると思うか?俺はもうあの子に完全に魅了されてるらしい。首が縦にしか動かなくなってるんでな。それに、俺が引き取ることを前提に今まで話してたろ」

「っはは、そうですね。いやありがとうございます……やっとまともな人に会えた。本当に良かった」

 こわばっていた彼の表情はここでようやくほころび、ついには袖で目元を拭い始めた。今までどんな人達に会ってきたんだろうか。自分ができることをしただけなのにここまで感動されるとは……

 それから彼の身の上話なんかを聞き流しながら、零花の帰りを待った。

「っと、帰ってきた」

 玄関の引き戸が開く音に零花の軽い足音が続いたあと、今の扉が開けられた。

「うわ、あんた何でいるの」

「別に僕がどこにいようが僕の勝手でしょ」

 零花は心底面倒くさそうに川端を睨みつけた。

「おい、そんなに嫌わなくてもいいだろ。いい人だと思うけどな」

「本気で言ってるの?こっちが死にそうだってのにいつも陰から見てるだけ。届けてくる血はまずいしさ。あんなもの飲むくらいならいい加減自分で狩らせてほしいくらい」

「ほんとはそうさせてあげたいんだけどさ、ほら、いくら力が人より強いとはいえまだ13歳じゃ、大人に勝てっこないでしょ」

「なにか要求するといつもそうやってゴタク並べて拒否するんだから……」

 嫌う理由はなんとなくわかったが、彼の立場もよく分かる。決まりとの板挟みで彼自身も辛いだろうに。

「じゃ、僕はこれで。久さん、あとはお願いします。頑張って!」

「あ!逃げた!」

 そそくさと帰ってしまった。それを追うことはせず、零花は大量の荷物を置いてこたつに体を突っ込んだ。

「あの人との付き合いは長いのか?」

「五、六年くらいかな。その前の人は歳でやめちゃったみたい。こっちのことをこっそり見てて、たまに会いに来るくらいだけど」

 聞くと、彼のいる組織の所有する施設に一度連れて行ってもらったことがあるらしい。

「地下施設で、危ない人を収容するところだった。全身がホウシャセイカクシュっていうのでできた人、他人に幻覚を見せられる人、あと好き勝手やりすぎてしばらく拘留されてる吸血鬼とかいたね。それまでにも何回か脱走してて、そのたびにみんなで探すんだって。ちょうどこのあたりで生活してたって言ってた」



 その夜、懐かしく、かつ憎むべき記憶に刻まれた感覚で目が醒めた。久から与えられたベッドではなく、硬いフローリングにたった一枚敷かれた薄いタオルケットの上に自分は寝かされていた。とあるアパートの一室、咽るほど強烈なあらゆる体液の臭いが立ち込める部屋。窓には板が張られていて、昼も夜も変わらず暗い。

 部屋の隅に置かれた簡素なベッドで、細身の男がこちらに背を向けて眠っていた。

「……嘘だ、殺したはず」

 力の抜けた脚ででも辛うじて立ち上がる。一刻、いや一秒でも早くここから逃げなければと慌てて玄関へ向かうが極度の緊張で脚がうまく動かない。

 やっとのことで土間へ行き扉を開けようとしたが、内側にも錠がかかっており開かななかった。そうだ、奴は鍵を自分のポケットにいつも入れているのだ。万事休す、また生き地獄へ閉じ込められた。

 床にへたり込んだ。またあの男に支配されるくらいなら死んだほうがマシだった。だから殺したというのに。

「!!!!」

 いつの間にか起きていた男に髪を鷲掴みされていた。部屋の方へ無理やり引き戻される。

「い、痛い!やめて離して!」

「また逃げようとしたのか、お前に自由なんか望ませねえぞ」

 横っ面を力いっぱい張り倒される。圧を受けその機能を失った右耳を押さえる間に男のつま先が鳩尾を襲った。反応する間もなく降りかかる数多の殴撃に、丸くなり、腕を犠牲に頭を守るくらいしかできなかった。



 目が醒めた。男の罵詈雑言は聞こえてこないし、ふかふかの布団とマットレスに包まれている。就寝したときと同じ、久の家の一室だった。

 芯の震えが止まらない。夢とわかっていても、またどこかで遭うのではないかと、ありもしないことをつい考えてしまう。まわりの何もかもがもはや脅威で、無人に高まる孤独感からベッドを降りることもできず布団に籠もっていた。

 久を呼ぼうにも声が出ない。喉は浅く早い呼吸を繰り返すばかりだった。

「……、」

 籠もっていても助けは来ない。大丈夫、男はいないと自分に言い聞かせ、転がるように部屋を出て階段を降りた。

 こたつで寝ていた久の背中に飛び込み抱きついた。人を強く感じることでやっと現を認識できるような気がしたし、実際そうだった。

「ん、んん?どうした」

 久も驚きはしたが拒みはせず、こちらのなすがままに、時に身を任せていた。

 このとき初めて、信頼できる大人というのを見つけられたような気がした。自身の願望を微塵も見せず、ただしたいようにできるこのとろけるような安心感を前に、自分はただそれに従う他なかった。

「……川端とは何を話したの」

「彼が知ってること全てかな。あと勝手に里親にされたよ」

「つまり、私のすべてについて、ね。あいつが知らないことなんて、私の頭の中くらいだもん」

「そういうことになるのかな……」

 あれほど詳細に情報を把握しているとすると、きっと常にどこかから状況を見ているのだろう。いい気分ではないがそれは彼も同じ、24時間情報を追跡し整理せねばならないのだ。

「それと、久は今までで一番の里親だよ。肉親を含めてね」

「まだ何もできてないと思うけどな」

「……、何もしない人がいなかったのよ」


「お父さんは見たことがない。お母さんに聞いても教えてくれなかった……それどころか激昂して私に当たり散らしてきた」

 零花は何も知らされていないのだ。むしろ知らないほうが良いのかもしれない。ずっと憎み続けてきた母親が自分を産み育てるに至った経緯を知ったとして、やり場のなくなった怒りをどうすればいい?

「川端からなにか……聞いてるでしょ。あいつは知らないって言ってたけど、あいつが知らないわけないもん」

「いや、……知らないな。何も聞いてない」

 久に絡む腕の締まりが強くなった。いら立ちを抑えられていない。

「知ったところで何になる?血が繋がってるだけで、あんな奴は父親でもなんでもない。あいつに少しでも夢を持ってるとしたら、全部諦めろ。どうしようもない奴だ」

 零花は怒り、それでいて落ち着いた複雑な雰囲気を放つ栗色の瞳で久の表情を探っていた。

「……知ってるのね。意地悪」

 久は何も言えなかった。零花がこれを親切心と知るくらいなら、自分は意地悪のままでいたいと思った。

「……朝食が冷める。早く食べな。この後市場に行ってくるけど、欲しいものあるか?」

「一緒に行く」

「だめとは言わないけど……そばを離れんなよ。子供なんか3秒で攫われて売り飛ばされるような場所だ」


 久から受け取った護身用の短刀の鞘をベルトにはさみ、言いつけどおり久にくっついて(言われずともするが)、零花は市場へ来た。そういえば市場で商品を盗んだ小学校での友達が忽然と姿を消したことがあったな、とぼんやり思い返す。その両親も両親で、息子のことなど気にもとめず、むしろ腫れものが取れたような振る舞いをしていた。広い河川敷に小さいテントが無数に立っていて、その間を縫うようにテントの数をゆうに超える人々が流れを作っている。

「はぐれようが攫われようが、誰も見返りなしに助けてはくれない。離れたら最後、市場の外へ連れ出してくれるのは人攫いだけだ」

 この市場に食物などは売られておらず、銃火器やそのアタッチメント、ジャンクから新品までの電子機器など無機質なものばかり並んでいる。久はジャンクの修理転売や、オーダーメイドの小道具を作って生計を立てていて、今日はそのジャンクを漁りに来た。本人は「電子の神」を自称している。

 電子機器販売のエリアはプレハブで雨を避けられるようになっている。何に使われていたのかもわからないような基盤が裸で売られている店や、電子部品を種類ごとに分けておいてある店なんかがある。

「何か要る?」

「え、いや、この中で?ないけど」

 何を思って聞いたのか、ここはコンデンサのブースである。電子工作もしない人にどれが欲しいかなんてない。

 今度はジャンク基盤を久が入念に吟味していた。

「何に使うかわかるの?」

「いや、わからないものが大半だよ。回路の一つや部品なんかを調達するのにちょうどいいんだ。「サルベージ」ってやつだな」

「ふ~ん……」

 ロジックICのたくさんついた、もとは家電に入っていたと思われる基盤を3つセットで購入した。ICをバラで買うよりもずっと安く手に入るのだ。よく使うICの情報はデータシート全て暗記しているという。

 法定通貨は消えたも同然だが、それに代わる別の「何か」を使い、この街の人々は取引をしている。それが何なのかは街の誰も知らない。その「何か」はソフトウェアで、出金・入金両アドレスと所持金額が表示されるだけのもので、各々好きなハードウェアに置いて使っている。出金、入金、所持金などと言い、電子マネーか暗号通貨の類であろうとみな思っているが、実際のところ単位も何もなく、これが通貨として使うための数字なのかすら定かではない。出どころも不明ときた。かろうじて維持されている光ファイバーケーブルを通じたインターネットで久も調べては見たが、同じく不審に思っているものはいるものの、開発者や第一発見者の情報は出てこなかった。とりあえず個人間で足し算、引き算ができる固有の数字、というので通貨と認識され使われている。

 経済圏は閉鎖的で対外的な取引など皆無に等しいので、別の通貨への両替ができずとも困ったことは一度もない。

 必要だというものを一通り買い終えて、武器屋通りを二人で眺めていた。少人数までで扱えるものならデイビー・クロケット以外なんでもあるといった感じだ。折りたたみナイフから中世のクレイモアまで、キス・オブ・デスからライトマシンガンまで。物によっては弾薬代を払って試射もできる。

 護身用なら対戦車ライフルなど買う人はいない。明らかにオーバーキルなものはもはやロマンなのだ。……殺人にロマンもクソもない、というのは一見するともっともらしい意見のようだがそうではない。人はこれを殺人兵器ではなくメカとして楽しむのがほとんどである。

「おい兄ちゃん、そのガキ、どこで会った?」

 少し開けた場所で不意に声をかけられた。相手はガラの悪そうな30代前半程度の男。

「そいつ、ちょうど二週間前に殺された仲間が“かわいがって”たガキによく似てんだわ。あいつは他殺で、ガキはいなくなってた。どういうことか、わかるな?」

零花本人は心当たりがあるらしい。激しい怒りか恐怖か、抑えられず腰の短刀を抜こうとしたところを久が片手で制し、言った。

「……ああ、俺がやった。人が死ねば仲間が怒るのも当然だ、それはわかってる。ただ、略奪者が略奪に腹を立ててどうする?お前自身、どれだけの人を殺してきた?いや怒りを買ってきた?」

 零花は緊張に負け、久の体に寄りかかりながら青い顔で男を見上げていた。

「今までに食べたパンの枚数に例えるのが正解か。ありえんが、パンが歯向かってきたら押さえるだろ?そういうことさ。ちょうど新調したブレッドナイフを試してみようとパンを探してたところでね」

 背中のソードオフショットガンをこちらへ構えるのを見たところで、零花を突き飛ばしつつ横へ飛び退く。直後、もといた所の砂地に無数の鉛が食い込んだ。

「クッソ、マジで撃ちやがった!」

 腰が抜けたらしい零花を小脇に抱え通りの裏へ逃げる。突然の発砲で人々は大混乱、これに紛れての奇襲を考えた。しかしこれは相手も同じで、奴を見失えばどこから現れるかわからない。

 近くのテントに入り、零花をそこに下ろす。

「ここにいろ。いいな」

 力なく頷く零花を置いてテントを出た。45口径の拳銃弾が7発とコンバットナイフが一丁……近距離戦は避けられない。どうにか先手を打つしかないだろう。

「どこ行った……?」

 人のいない市場に誰かいればわかる。しかしなんの気配もない。

 一歩踏むごとに、誰かの死が確実に迫っている気がした。それが誰かはわからない。久とあの男のどちらか、または相討ち、もっと酷いことになるかもしれない。

「!!」

 零花を一人で隠すべきではなかった。思い火薬の音と短い叫び声が響く。

 行くと、倒れ蠢く零花の頭に男が銃口を向け、二発目の引き金に指をかけているところだった。

 時間がない。一五メートル程だろうか、自信はなかったが、M19を正面に構えた。

「ぐぁ!?」

 運良く男の左腕に命中しショットガンを取り落とさせた。すぐに駆け寄り追加で頭に撃ち込んだところで男は絶命した。

 仰向けに倒れる零花の穴だらけの服をまくると、胴体はめちゃくちゃになっていて、腕と頭しか動かないようだった。

 助からないと悟った久だが、零花は違った。

「……?」

 真っ赤な砂地に震える指で「ひかげ」の文字を書いた。なるほど、ここは太陽の真下、そして彼女は吸血鬼である。

 日陰へは動かせない。その辺のトタンとテントの支柱で日光を遮った。

「っ、……」

 体内から鉛弾がゴロゴロと出てくる。久が顔をしかめている間に、原型もわからなかった胴体は完全に回復していた。

「ふぅ……ほんと、あいつらは何回私を殺す気かしら」

「……今までもあったのか」

「だから殺したのよ。それを恨んでるみたいだったけど」

「……食うか?」

間抜けな顔で横たわる死体に目をやる。

「今のでかなり血が外に出ちゃった。こんなクソ野郎の血なんかゴミほどの価値もないって言いたいところだけど、飲むしかないね」

 短刀で首を刺しそこにかぶりついた。しばらくして口を離し、ぼやく。

「期限切れの血液パックといいコイツといい、もっとマシな血はないのかな……川端がくれるやつはまったく脂気がなくてまずいし」

 何でもないふうに零花は見せようとしているのだろうか、しかし鉛の余波に揺れているのは明白だった。血を吸ったとてすぐに効くわけではなく、支える脚はたよりない。

「動くな、休め。散弾を受けて歩けるやつなんかいない」

 久は零花を地に寝かせ、男、いや男だった肉塊を担ぎ川の方へ歩いていった。捨てるのだろう。

 自分も川へいって、ぬるぬるした自分の血をきれいに洗い流してしまいたいと零花は思ったが、あの川はだめだ。いや他の川も大差ないだろうが、汚いのだ。いつもヘドロなんかで濁っていて、魚影の一つも見えない。濁りのせいか、そもそも魚がいないか、ひょっとするとその両方かもしれない。

「帰ろう。酷い買い物だったな」

 さっき死体でそうしたように、久は死体より地で汚れた零花を背負い土手を上った。逃げ出した人々はそこから一部始終を覗いていたようで、戦場の鬼でも見るような目つきで、二人が通るところを露骨に避けていた。久はそれに対し軽蔑の眼差しで応じたが、零花は特に気にもしていなかった。


 血を洗うため浴室に零花を座らせた。

「じゃ、ばんざいして。ばんざーい」

「えっ!?」

「?このままじゃ服を洗うことになるだろ」

「あ、いや、わかってるけど、その……一人で洗えるから!」

「……それはそうだな。すまん」

 浴槽の蛇口を捻り出ていった。あまりに鈍感すぎるのか、からかっているのか……

 いくら洗ってもなかなか血は落ちない。ヒリヒリするほどタオルで擦ってようやく取れる。大半が固まってしまっていて、鉄骨のサビを落とすような作業であった。

 前の家、悪夢に出るあの糞ったれといたときも、よくこうして”サビ”を落としていたことを思い出す。自分の他にも子供なんかを攫ってきたことが何度かあったが、数日のうちに”やりすぎて”死んでしまった。人間にできないことを自分に求めてきた結果、千切れた手や足を持って浴室まで這うこともあった。

「……、」

 一度嫌なことを考え始めると、意思に関わらず止められなくなることがある。こうなれば、拍動と吐き気にひたすら耐えるほかなく、今まさにそんな状態に陥っていた。

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