第89話 アプヴェーア 6
「期間は?」
「無い。それは結果を見ながら上層部が判断する。もちろん一時帰国は許されるが、おそらくは数か月、もしかしたら1年必要かもしれない。しかし、この大掃除で結果を出せば、キミもただの末端要員では無くなるだろう。私個人としても君には期待しているしな。報酬もいいぞ……?」
「……」
マリエスは考える。先の見えない仕事でも小さな仕事を繰り返してこなし続けるなら同じことだ。危険度…リスクは分からない。そんなものは状況によって一変するものだ、考えても仕方がない。
それよりも、やましいことしかないマリエスのアタマの中は、これははたしてピンチなのか、それともチャンスなのかで一杯になっていた。
「フィーリッツ君、君はこの先…どうしたいのかね?」
考え込むマリエスにフラーケが言った。
「この先?将来、ですか?」
「うむ……」
「ワタシは……この戦争が終わったらまた、ガラス職人に戻るだけです……」
するとフラーケはイカつい顔の顎を撫でた。
「ほお…君はガラス職人なのか……」
「ええ」
「ガラス工芸とは趣向が合うな……」
フラーケが初めて表情を緩めた。そういえば本来のマリエスの仕事については話していない。クルツはたった今それを思い出した。
「そうでした少佐殿……フィーリッツは
「ほう、その若さでそれは大したものだ」
※ドイツでは殆どの技術職に国家資格を採用している。職人の証である『ゲレゼ』、そして最上位の『マイスター』になるためには更なる技術、指導力、作品を生み出す発想力、そして経営力を認められなければならない。これは中世から続く伝統である。
「繊細な細工も素晴らしいですが、彼の吹いたグラスは特別な『音』がします。軽く弾けば薄く鍛えた鋼の様な清廉な音色を奏でます」
「ほほう、ではひとつ……私は『コルンブラントヴァイン』が好きでな。あの酒に合うグラスを頼みたい」
※『コルンブラントヴァイン』は穀物を主とした蒸留酒。ドイツでは一般的な伝統酒で『コルン』とも言われる。
「あ…ありがとうございます。今はこの様な状況でいつとは約束できませんが必ず『贈り』ます……ところでコルンを飲む時はひと口ですか?それともゆっくりと召し上がりますか?」
「ふむ……私は時間をかけている方かな……」
「そうですか。それでは胴のふくよかなリキュールグラスの方が良いですね、香りを存分に楽しみながら味わえますよ?」
フラーケはにやりと口元を上げた。
「ふむ、これは楽しみがひとつ増えたな。しかし何かの折で構わんからここへ持ってきたまえ。直接、君から受け取りたい……」
「は、はあ……分かりました」
頷いたフラーケはクルツを見やった。
「工房を建てるならば稼がせてやらねばな、クルツ……」
「は、フィーリッツは間違いなく、我が国の工芸技術を支える作家になるでしょう」
「うむ……」
せっかく和んだ場の雰囲気を気遣いながらクルツは言う。
「フィーリッツ、君は優秀なガラス職人だが、この仕事にも適性がある。私としてはデンマークには君を連れて行きたいが、君が無理だと言うなら強制はしない。とにかくまずは国内の任務だ。その間にゆっくり考えてくれればいい……」
「分かった……」
フィーリッツは頷いた。
「ああ…そうだ、クルツ……」
「何だ?」
「その仕事だが、今までの監視期間を聞いても構わないか?」
「ん?ああ、もちろん。両者とも、概ね3か月だ」
クルツの答えを聞いてフィーリッツはアゴをさすった。
(3か月か。なら……)
「他に質問は?」
「いいや、無い」
「それでは頼むぞ。それから分かっているとは思うが、資料は無くすなよ?確実に処分してくれ」
頷くフィーリッツを置いて、2人は去っていった。
(さて……どうする?)
そのまま、フィーリッツはしばらく考えた後、置いていった紙袋をショルダーバッグに突っ込んで立ち上がった。
1940年7月15日
連日、散発的に続くドイツの攻撃は徐々にその規模を増していく。しかしその攻撃はイギリスの戦力を削るためでは無く、領空を侵犯されたイギリスの動きを見ることと、何より重要なのは圧力をかけること、即ち『脅し』であった。
この時、既にドイツからはイギリスに和平案が送られていたという。しかし、その内容は一方的な降伏勧告であった。
さて、検討するに値しないこの和平案をイギリスは机の脇にポンと放って置くことにした。
チクチクと送り込んでくる攻撃機は叩き落としてドイツの戦力を削り、解答を先伸ばししている間に尚も戦力を整える。はなからこの小国はドイツに白旗を揚げるつもりなどなかった……
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