第二章 祖父と孫
6 「ムソヒって癖のある料理が多い事で有名だよね、物凄い臭い料理とか」
第二章 祖父と孫
「あー、それ。…………それに答えるのは爺さんの墓の前でにするよ」
「は、はいっ?」
はい、でもいいえ、でも無い返しに、いきなり出てきたデヴィッドの名前。即座に意味が理解出来なくて目を見張っていると、若干居心地の悪そうな表情を浮かべている青年に素っ気なく言われた。
「僕の言いたい事が分からない程馬鹿じゃないでしょ。そういう事だから、行こう。……手紙にもあるし、君の言い分もその通りだしね」
それだけ言いウェズリーは席から立ち上がって居間の扉に向かう。その後ろ姿を見て、少し遅れて意味が分かった。先程のやり取り中に感じる所があったのか何なのか、ウェズリーがデヴィッドを悼む気になったらしい。
「……え」
理解した瞬間、サナギの孵化を目撃した時のようなえも言われぬ気持ちで胸がいっぱいになった。嬉しさ半分、驚き半分。目を見張っていると、自分の返事が無い事に気が付いたウェズリーが様子を窺うようにこちらを振り向く。ふい、と視線だけで着いてくるよう促され、リタも慌てて立ち上がる。
「ウェズリー様! 待って下さいっ! カップを片付けませんと……!」
静止の声に嫌そうに眉を顰めるウェズリーの姿が視界に映り、リタも眉を顰めてしまった。
「それとウェズリー様……喪服とまでは言いませんが、お願いですから相応の格好をして頂けますか?」
自分の言葉にウェズリーは更に顰めっ面になり、それが面白くてふふと小さく笑いを洩らした。こう言う時のウェズリーは、嫌いではない。
コーヒーカップを片付けたリタは今、黒い屋敷の隣にある黒い離れにいた。煤塗れの亭主が家に帰って来た時の嫁ですらそんな嫌そうな声出さないだろう、と言う声でウェズリーがこう言ってくれたからだ。
『先に言っておくけどアイロンなら離れだから』
まさかこの「男の独り暮らしすぎる屋敷」にそんな文明の利器があるとは思っていなかったので、驚きの余り何度も聞き返してしまった。その度ウェズリーは同じ声で返してくれた。
ウェズリーがこの屋敷に入居した際、これみよがしに居間の中央に掃除用具と共にどんと置かれていたらしい。予想通り祖父からのプレゼントであったそれらを、ウェズリーは早々に離れに押し込んだという。老紳士の鑑のようだったデヴィッドらしいようならしくないようなエピソードに聞いている途中で笑みが零れた。
アイロンがある、と聞いたらウェズリーの皺だらけのシャツを伸ばしたくなってしまい、断りを入れて離れに向かったのが先程の事。このこじんまりとした平屋は、最低限の生活設備が二部屋に分けて配置されており、ウェズリーは倉庫として使っているようだった。炭と思われる箱があちこちに子供の背丈程に積まれている。
「ふう……」
思えば海岸通りにあるこの屋敷に来てから、初めて一息つけた気がする。そう思える程濃い時間だった。一息入れたら今まで意識の外にあった空腹が急に主張し始めてきた。
水を用意しアイロンに使用する炭を熱している間、リタは広場で買っておいたハムエッグパンを食べる事にした。念のために……と買った物だったが、買っておいて正解だった。
意外と綺麗だった屋敷の台所を思うと、ウェズリーも今頃買った食事を取っているかもしれない。そもそもあの小説家がきちんと朝に起きたかも怪しいので、空腹ではない可能性もある。どこで食べても美味しいが冷えているハムエッグパンを口にしていると、不意に故郷の味が懐かしくなった。
リタはルミリエよりもずっと北にある高原地、ムソヒの出身だ。演劇や小説と言った娯楽に乏しく、夏は清廉な森に囲まれた湖で泳ぎ冬は雪の上を走ってばかりいた。寒いところだけに、ポトフや煮込み料理を食べるとホッとしたものだった。
「みんな元気かなあ……」
郷愁に駆られている間に湯と炭を熱し終わったので、シャツをアイロンに掛ける支度を始める。支度をしながら考えるのは胸元の鍵についてだった。ウェズリーの話を聞いた感じ、この鍵を使える場所は変わったところにあるのだろう。もしかしたら、本当に煤に埋もれているのかもしれない。
「ウェズリー様! 失礼致します!」
皺一つないシャツを抱えノックをした後、リタはウェズリーの居る屋敷に戻った。廊下を通り居間に入って――立ち止まる。金髪の青年は食事を取っているわけでも、身支度を進めているわけでもなく、タイプライターがある机の前に座っていたのだ。
「…………」
見慣れきった、と錯覚する程分かりきっていた光景を目の当たりにし、次の言葉が喉から出なくなった。先程はチャイムの音に反応した小説家も、今回は気にならなかったようだ。
ふう、と短く息をつき、やはりこちらに気付かないウェズリーの隣まで行く。今はタイプライターを弄っていなかった。どうもこの人は最初に万年筆で原稿用紙に下書きを書き改めてタイプライターを使う執筆スタイルらしく、今回は遠慮なく相手の名前を呼ぶ。
「ウェズリー様!」
「うわっ!?」
前回と全く同じ反応をし、ウェズリーは驚いたような表情を浮かべてこちらに目を向ける。今回は理不尽に怒られる事も無かった。何時もより澄んで見える青い瞳と視線を合わせ、にこりと笑いかける。
「邪魔をして申し訳ありません。さっ、このシャツに着替えて下さい!」
ウェズリーは差し出したシャツを受け取り、緩慢な動きで頭を搔いた。
「……はいはい、どうも有り難う。ベストも着てくるから少し二階に行って来るよ」
席を立ったウェズリーは早々に居間から姿を消した。後はウェズリーを待つだけで、それはそれで手持ち無沙汰で落ち着かない。その時丁度先程ウェズリーが書いていた原稿が視界に移り、吸い込まれるように紙を手に取る。
殴り書きで、まだ二ページしか綴られていないそれは冒頭を読んだ限り、ルミリエで働いている焼却炉の清掃員が、街中で女性にいちゃもんを付けられるシーンから始まる話だった。そこしか書かれていない為、本を読む機会が少なかったリタには、何回目を通してもここからどんな話が展開されるのか全く分からず、先が気になった。
「……恋愛小説をウェズリー様が書ぐとは思えねし、ミステリーとかなんかなあ……? 面白そうだけんど……」
「勝手に読まないでくれる?」
「へっ!?」
紙ばかり見ていたからか、ウェズリーが戻ってくる足音に全く気が付かず、声を掛けられて初めて気が付いた。家族につまみ食い中の後ろ姿を見られた時に似た後ろめたさがあり、振り向く事も出来ずにリタは慌てて原稿を机に戻す。
「君、案外訛るね。北の方の……どこ出身なの?」
「ム、ムソヒです」
そろそろと振り返って、入り口に立っている金髪の青年を映す。皺の無いシャツを身に着け、フォーマルな黒いベストを着たウェズリーがそこには居た。一応そういう道具を持っていたらしく、ぼさついていた髪もきちんと整えられている。
顔色の悪さを抜かせば先程とは別人のようだ。気まずい思いをしている事も忘れて、ウェズリーの事をしげしげと見つめていた。思った通り、ちゃんとしたこの人は格好良い。
「ふーん。ムソヒって癖のある料理が多い事で有名だよね、物凄い臭い料理とか。食べた事無いし、食べたくもないけど」
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