まごうこと無き愛と呼べ

七夕ねむり

まごうこと無き愛と呼べ

 あの時私はなんて言えばよかったんだろう。

 そう考えたのは何度目か。

 別れた方がいいと思う。浮かれていた私に降ってきたのは、あまりにも真逆すぎる言葉だった。予想もしていない音を脳内で処理する前にごめんと蓋をされて、気にしないでとうわ言のように絞り出した。

 どうしてなのとも、私はまだ好きだよとも結局胸の中だけで叫んで終わった。

「なんも言わないのな」

 寂しそうに笑った彼に、どっと湧いた感情を言葉にするのは難しかった。泣けばよかったか、嫌味の一つでも言えばよかったか。

 我儘な子は駄目なんだって、この間言ってたじゃない。私の優しいところが好きって言ってたくせに。

「仕方ないよ。じゃあまあ、明日からは友達ね」

 寒々しいほど明るい声が、人気の少ない廊下に響く。おう、と答えた声がほっとしているのがわかった。くるりと背を向けて歩く背中が歪む。もう少し早く、可愛く、泣けていたら何か変わってたのかもしれない、なんて。


 私と彼が別れたことは、すぐにクラスへ知れ渡った。

「お似合いだったのにね」

「そうかな」

 乾いた笑いに気づかなければいいなと視線を上げると、友人の有紗は困ったように笑っていた。

 その時はまだよかった。脳味噌が事実を把握し切れていなかったから。

 私の不調が目に見えて形を現したのは、先日の試合だった。それはそれはひどい有様だった。ドンマイという言葉を何度も掛けられた気がする。気持ち切り替えようね、とも。

 届かない球がどんどんどんどん増えていって。追いかけることに、自分が重なって少し泣きたくなった。あと少し、あと少し届けば。私が繋げば、良かったのに。

 指先に触れずに落ちていく球を眺める。

「誰かが落としてた。それが早いか遅いか、偶然誰だったか、それだけだからね」

 反省会でのチームメイトの言葉が通り抜けていって、私はただごめんと繰り返した。

 あと少しで表彰台だった。本当に小さな大会だったけれど。入学して、バレーボール部に入って、初めてチームに入れてもらえた大会だった。

 こんなことで、と思う。こんなことで皆と築き上げてきたものを私は駄目にしたのか。

 私情を挟むつもりなんてなかった。

 本当に? 私は本当にちゃんと指先まで神経を込めてた? 本当に?

 今の私は、自分に言い訳ばかり繰り返している。


 そして、あの日から胸の中のすかすかした穴は埋まらないままだ。認めたくはないけれど。嫌いになれればよかったのに。なんて陳腐な言葉を脳内で繰り返す自分に溜息を吐く。

 食券機の短い電子音が鳴る。

 いつものメニューの香りでお腹がぐうと鳴った。こんな時でもお腹は減る。情けないけど。

「はい、カレーラーメン」

 食堂のおばさんに差し出された器を受け取って、空席だらけの椅子へ適当に座った。麺が伸びないうちにそろそろと啜る。スパイスの香りが鼻の奥を抜けていって頬が緩む。中華風のスープがルーをマイルドかつ奥行きの深い味にしている。よかった、ちゃんと美味しい。胃に落ちていく温かいそれを夢中で口に放り込んだ。

「美月、それ好きだよね」

「美味しいもん」

「カレーならカレー、ラーメンならラーメンのほうが美味しい気がする」

 有紗は笑ってチャーハンをすくった。そんなこと言うなら、チャーハンは家でも作れるじゃんか。これは口に出さないで麺と一緒に飲み込んだ。

 そういや彼はこれの美味しさがわからないと言っていた。こんなに美味しい食べ物、私は他に知らないのに。

 そこまで思って、もうそんなこと考えたって仕方がないのだと首を振った。変わらないのだ、結果が駄目だった。それだけ。

 恋愛も、バレーボールも、おんなじ。結果にどれだけ言い訳したって、何にもならない。

 鉢の中が三分の一になった頃。比較的空いていた時間に入った食堂も、いつのまにか賑やかさを増してきていた。どうやら移動教室ついでの生徒が多く入ったらしい。

 その中でもとりわけ賑やかな場所に目を向けると、三年の美しい先輩が目に飛び込んだ。あの人は、確か国木田櫻子先輩。艶めく長い髪、陶磁器のような肌、それからマスカラを何重に塗っても、敵わないような長いまつ毛。おまけに成績はトップレベル、趣味は茶道だとかなんとか。

 その人は校内の、いわゆる有名人というやつだった。

 綺麗で、優しくて、頭が良くって。アイドルと言うよりはマドンナというような。二つ上の先輩の噂は入学してすぐに耳に入ったものだ。

 人混みが少し動いて、先輩の手元が誰かの制服の間から覗いた。白いお人形のような手が上品に掬い上げる。

「あ……カレーラーメン」

「どした?」

「ううん、なんでもない」

 私はなんだかマドンナの見てはいけない秘密を見てしまった気がして、慌てて麺を吸い込んだ。白い手でプラスチックの箸を手に、するすると麺を啜る彼女はとても同じものを食べているようには思えなくて。わざと音を立てて麺を吸い込んだ。

「ちょっとあんた本当に大丈夫?」

 私がやけ食いでもしているのかと心配したのだろう。有紗は眉を寄せて顰めっ面をする。

「はは、大丈夫だってば」

 スープを掬いあげると、小さなレンゲの中で黄金が揺蕩う。喉にゆっくりと流し込んだ私を見て有紗は、あっ!と声を上げた。彼女は急いで身の回りを片付け始める。

「ごめん、美月。先に帰っててくれない?」

「なんか忘れた?」

 私の質問にこくこくと彼女は首を振る。

「日直は早く来なさいって先生に言われてたんだった!」

 資料運ぶんだって、ダルい!心底嫌そうな顔をした彼女が面白くて笑ってしまう。

「早く行きなよ」

「それが嫌だから忘れてたんじゃんー!」

 ふざける彼女があーあと大袈裟にため息を吐くので、がんばれとだけ言っておく。

「仁科くんと一緒だから、満更でもないくせに」

 そう口にした途端、有紗の顔がぶわりと真っ赤に染まっていく。

「アイツはそういうのじゃないよ!」

 早口でじゃあもう行くからねと捲し立てて、彼女は教科書を抱えた。

 時間の問題なんじゃないかな。そんなことは心の内にしまって、笑いながら手を振った。彼女のポケットに潜ませたお気に入りのミラーを私は知っている。

 いいな、ああいうの。

 彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送って、そっと息を吐く。騒がしさをBGMにしておくのもなんだか辛くて、席を立った。

 有紗が居なくなると誰かが噂してるようなひどく臆病な気持ちになって、無意味に手を拭いた。そんなわけないのに。

〝あの子、振られたんだって〟

 それは事実できっと誰にでも起こることで。それなのにこの小さな箱の中では、身を縮こめてしまうぐらいには居心地が悪い。誰も彼もが人の不幸に興味無い振りをしてるくせに、心の中では自分より不幸なことを願ってる。

 暗い思考がじわじわと思考を蝕んで来るのが怖くて、食器を返却口に押し込めた。まるでおまじないのように。そして何となくちらりと噂の先輩を見た。本当に何の意味も、理由もない行動だった。強いて言うなら、今この瞬間目の前の真っ暗闇から目を背けるだけの動作に違いなかったのに。

「あ」

 目が合った、気がした。

 それはさながらライブ中のバンドメンバーと目が合ったような感覚。きっと気のせいだと思った。愚かしくて、美しい錯覚。

 どくり、と心臓が一度だけ強く跳ねた。

 その錯覚を錯覚だと確かめたくて。私はいつのまにか彼女のいる方の出口へと向かっていた。別に彼女に特別な興味は無かった、多分。

 それなのに。

「ねえ、あなた。さっきこれ食べてたでしょう?」

 気がついたら、綺麗なソプラノに呼び止められていた。一瞬、さっきまで目の前で漂っていた匂いがした。

「カレーラーメン、ですか?」

 その人は上目遣いに、悪戯っ子のような瞳で私を見上げていた。

「そう!これ、美味しいでしょ!」

 なんで人気ないのかな? 長い髪をさらりと掻き上げて、先輩はにっこりと笑った。思いの外、無邪気な笑顔だった。途端にふわりと花の匂いがした。甘くて、爽やかで、人工的過ぎない香り。カレーラーメンの匂いはたちまち姿を消した。

「ね、あなた名前は?」

 子供のようにはしゃいだ声が耳を打つ。

「橋場美月、です」

 可愛い名前ね。目の前の有名人はくすくすと笑う。少し切長の目が、笑うと急に幼くなった。

「ね! 美月。私たち好みが似ていると思うの!」

 私は急に呼ばれた自分の名前にひゃい! と噛んだ返事をする。慣れない人間に呼ばれる下の名前はむず痒くてただ恥ずかしかった。

「お友達にならない?」

 そう言ってスマホを差し出した彼女の瞳はきらきらと輝いていた。ざわりと彼女の周りが騒がしくなった気がした。でもそんなことはどうでもよくて、今は先輩しか見えていなかった。私は目の前の澄んだ白目、長いまつ毛、その中央で瞬く漆黒から目が離せない。気がついたらポケットに手を伸ばしていた。

 強いて言うなら引力。暴力的な力に引き込まれて、差し出した手が震えた。

 綺麗な人って近づいても綺麗なんだ、狡い。

 そんな頭の悪い感想が頭の隅に過ぎっていった。


 先輩と仲良くなるのに時間は掛からなかった。

 食の好みが似ている者同士は合いやすいとどこかで聞いたっけ。まあそんなことはどうでもいいけれど、櫻子先輩は綺麗なのに快活で、笑い方が可愛らしくて、控えめに言ってもすごく親しみやすい人だった。人気者は人との距離を詰めるのも上手いらしい。美人なだけじゃなくて取っ付きやすくて、人当たりも良くて。そう言えば食堂での突拍子もない発言も不思議と嫌な感じはしなかったのだった。

「いただきます!」

 お腹すいた! と櫻子先輩は礼儀正しく手を合わせて、箸を割る。目の前には勿論、カレーラーメン。ふわふわと白く立ち上る湯気が彼女のおでこを通り過ぎてゆく。するすると麺が小さな桃色の唇へ吸い込まれていくのを眺めていた。とても同じものを食べているようには見えないな、なんて思う。もしも、こんなに可愛い容姿だったら。目の前で笑顔を溢す櫻子先輩を眺めると、胸の内に湧いてくる薄暗い小さな感情が顔を出す。

「美月、何か困ったことでもあるの?」

 いつのまにか私の手は止まっていたらしい。目の前の鉢からはスープも麺も、全く減っていなかった。

「……別に、そんなんじゃないですよ」

 我ながら下手くそな言い訳だった。こんなの、追及してくれと言外に言っているようなものだ。

「嘘ね!」

 私の陰った思考を綺麗に掬い上げてくれる彼女は、私の前にびしりと指を突きつけて言った。

「先輩、お行儀が悪いです」

 わざと揶揄うように言ってみると、力強い瞳が私をじっと覗く。

「悪いのはどっち? お行儀の悪い私? それとも仲良しの先輩に嘘をついてるあなた?」

 茶目っけのある言葉とは真逆に、真剣な音が私の思考を遮断する。魔法みたいな先輩の声に、私の武装はゆるゆると解かれていく。ひりつく肺にしっかりと空気を送った。

「私、少し前に彼氏と別れちゃって。別にもう気にしてないんですけど。でも今一瞬、先輩みたいに素敵だったら振られなかったのかなってそんなこと考えてました」

 先輩があまりにも、女の私からみても可愛らしかったので。そう伝えると、櫻子先輩はそっかとだけ言った。いつの間にか、箸はちゃんと置いていた。

「変なこと言ってすみません」

「そしたら、私たちお付き合いしましょうか」

 彼女とわたしの言葉がほぼ同時に重なった。私の低めの声と、先輩の細く綺麗なソプラノ。

「は?」

 思ったより低い声が喉の奥から飛び出る。はくはくと唇が震えるのが自分でもよくわかった。

「どうかな」

 私たち結構お似合いだと思うの。私の驚きなんて気にも留めない様子で、櫻子先輩は得意げに笑ってみせる。華奢な指が私の頬にそっと触れた。

「はい?」

 彼女は私の返事なんて聞いてもいなかった。こつん、と額が合わされる。触れた部分から冷たくて薄い皮膚の感触が伝わった。睫毛が私のそれに重なりそうで、あと一息でくっついてしまいそうな唇がそこにはあって。

「ね? どうかな」

 甘い声が落ちる。こんなのってありなのかな、いや無いでしょ。頭の中が自分と自分のせめぎ合いで煩かった。先輩のシャンプーの香りがする。甘くて、甘すぎないところが好きな香りなのに、今は私の心を眩ませるには十分で。

「私で……いいんですか」

 口から、本能が漏れる。キャパシティを超えた、私の寂しいという本能が。

「あなたがいいのよ、美月」

 ゆっくりと絡められた指先はおでこと同じぐらい冷たかった。彼女の指先に熱を送り込むように、握り返す。

「先輩って、ちょっと変です」

 くすくすと先輩が笑った。鈴みたいな澄んだ音で。どっと不思議な多幸感が指先から侵食してきていた。私と、櫻子先輩が? 本当に?

 それが私たちの始まりだった。


 それからは一緒に出掛けたり、放課後肩を並べて帰ったり、変わらず食堂もよく利用した。先輩はいつも沢山の人にまれていた。でも私が話しかけると、必ず笑顔で振り向いて手を振ってくれる。例えば体育の授業中に、移動教室のすれ違い様に。まるで付き合いたてのカップルみたいな些細な事だった。でもそれだけで、私の心の中は温かなお湯を注ぎ込まれたようにぽかぽかとした。ふわふわした私を振り返るのは先輩だけじゃなかったけれど、面識もない彼らが見知らぬ後輩を不思議そうな目で見るのは少し愉快だった。


 例え、次第によくない噂が私の周りを取り囲んでいたとしても。

 別に私はよかったのだ。ただ、櫻子先輩だけ私の内に居てくれさえすれば。


 有紗が時々私のことを心配そうに見つめているのは気がついていた。他の友人だってそうだった。

「あんた、大丈夫なの」

 有紗に、一度だけそう聞かれたことがある。

「何が」

 笑顔で答える私の頭は櫻子先輩のことでいっぱいだった。

「別に。あんたがいいなら、いいんだけどね」

 苦々しく言葉を吐いた彼女の心中はよくわからなかった。ただ心配だと、そんな感情は伝わってきたのでひらひらと手を振って笑ってみせる。

「有紗が心配することなんて、何にもないよ」

 私の顔を見て有紗はそう、と曖昧に返事をした。それならいいんだけどと、歯切れの悪い音が苦々しく騒がしい教室に落ちた。彼女にしては珍しく、はっきりとしない物言いだった。

 その意味がわかったのは少し後のことだった。

「先輩、お待たせしまし」

 ある日、校門でいつものように先輩に声を掛けようとして、私は息を呑んだ。校門を出てすぐの右手側。先輩と待ち合わせるのはいつもそこだった。櫻子先輩は私のことにはまだ気づいていないようで、塀に凭れて立っていた。私はもう一度声を掛けようとして、そしてそのまま言葉を飲み干した。彼女は俯いてじっと地面を見つめている。

 きらきらと光を閉じ込めたはずの瞳は色を失くしていた。私のよく知る紅葉する頬も、少し音痴な鼻歌も、あの悪戯っ子のような笑みも全てが無かったものみたいに見えた。彼女の周りの空気だけがぽっかりと世界から切り離されている。ただ冷たい横顔だけが私の視界に焼きついた。

「先輩! お待たせしました!」

 私の呼びかけにはっと顔を上げた彼女は、にっこり微笑んだ。陰った光が瞳に落ちている。

「遅いよ!美月」

 弾んだ声が、泣きそうに聞こえた気がした。私は櫻子先輩の腕をぎゅっと抱きしめる。ざわざわと耳を打つ雑音が邪魔だった。


「お、仲良しだな」

 このまま攫ってしまいたい。彼女の不安を、翳りを取り除きたい。そう思った時だった。知らない男の、声がした。

「あ、今帰りなの? 部活は?」

「今日は休み!」

 目の前で繰り広げられる会話にどくどくと脈が速くなる。

「これが噂の後輩ちゃんか」

 人の良さそうな男の人だった。真っ直ぐな柔らかい視線が私にすっと降りた。

「こんにちは」

 最低限の音を素っ気なく口にした。彼の眼差しに目が少しでも疑念や、好奇心が籠っていればよかったのに。残念ながらその人は不純物の混ざらない目で、じっと私を見つめた。誠実そうな人だった。多分これは当たっている。私はそのことに酷く苦しくなって、口を覆った。何故かは分からなかった。わかりたくないと直感的に思った。

「じゃあな、国木田」

「うん、また明日」

 その人は自転車をゆっくり押して帰って行く。私もぺこりと頭を下げた。広い背中をぎっと睨んだ。白いシャツが眩しかった。

「美月、お待たせ」

 結局私が待たせちゃったねと櫻子先輩は目の前で手を合わせる。待たされた、とかは思わなかった。ただ胸の中のこの轟々とざわめく嫌な感覚を取って欲しかった。他でもない櫻子先輩に。勝手なことに、私が何とかしてあげたいという献身的な考えはどこかにすっ飛んでいっていた。

「さっきの人誰ですか」

 慎重に音色を選んで、言葉を吐く。重く、縛る音にならないように。こてん、と首を傾げた先輩は、ああ!と私の言葉をやっと理解して口を開く。その間に何かを見つけてしまおうとしている私は酷いのだろうか。

「同じクラスの、高谷くん。彼、委員長なの」

 妬きもち?という言葉は相変わらず軽快で、私は次の言葉を探す。さっきの先輩の横顔がちらちらと目の前を過ぎる。

「あ。否定しないんだ?」

 わざと茶化したその声が。よく通る明るい声が、ほんの少しだけ翳っているのを私は聞き逃すことができなかった。

「仲、良いんですね」

 努めてなんでもなく言おうと思った言葉は固く響く。私は本当に嘘が下手だなと他人事のように思った。

「私が副委員長だからね。よく話すかな」

 顎に人差し指を当てて考える先輩は可愛いな、なんで場違いなことを思う。

「いかにも真面目って感じですよね」

 それはこの場合、褒め言葉ではなかった。意地悪な言葉にはっとして彼女の顔を見た。

「そういう言い方は、よくないよ」

 真剣な櫻子先輩の視線が私を捉える。

「美月、最近変ね。どうしたの」

 どうしたのって何。どうしてそんな他人事みたいに言うの。私は、私が……先輩の。

「…………」

「美月?」

 違う。

 先輩は私の胸の空洞にただ入ってきただけで。それはタイミングの問題で。私はただ寂しくて、寂しさだけで見失って。私を一番にしてくれる人が欲しかった。私はこの人の優しさに、付け込んだだけだ。この、どうしようもなく甘くて、自分のことを一番に考えない優しい人に。

「美月……何か言って?」

 櫻子先輩は一生懸命私の目を見つめる。その真っ直ぐさが痛くて鼻の奥がツンとする。

 名前も知らないあの人が眩しく見えたのは。私の薄暗いこの気持ちが、反射して目の前に映し出されたからだ。私は知っていた。狡さも醜さも孕んだこの感情は、違うと。これは、妬きもちなんて、そんな一言で表せる感情じゃない。

「……櫻子先輩」

 どうしようもない瞬間が目の前まで迫っていた。自分の中での答えは出ている。多分こうするしかないこともわかっていた。本当はもっとずっと前から。うんと前から。私は目を逸らしていただけなのだ。だってこの人の隣はあまりにも心地よくて。陽だまりのような暖かさに、自分を騙している方が楽だったから。

 すっと一つずつが明瞭になっていく気がした。昼寝から目覚めた時のような感覚だった。ぼやけた世界がくっきりと色を、形を持ちはじめていた。瞼を開ききるには眩しすぎる。でももう微睡にいる時間は終わったのだと私は自分で理解していた。


 この言葉を吐けば、私たちはこのままの私たちじゃいられなくなるんだろう。小さな箱の中の、その中でもうんと小さな花壇の花のような。そんな関係が、終わってしまうんだろう。

「先輩、聞いてほしいことがあるんです」

 真っ直ぐに伸びた黒い髪に頬を埋める。耳元で微かに息を飲む音がした。先輩が私のたった一言で、大体のことを察してしまったのが分かった。だって先輩は、聡い人だから。

「櫻子先輩、私」

 手を伸ばした背中は何度も触れたはずなのに、とても小さく思えた。

「美月」

 同じように背中に回された温度は暖かくて、細い骨の感触が心臓を刺す。私たちは互いの名前を呼んで、もうどこにも行けない感情をその音の中で交換する。二酸化炭素の口付けにも似た、意味のない交換。出口のない結末を確かめるのは今だって怖かった。

 この人を手放すのが、とてつもなく怖かった。

 でも。

「私、わかってました。先輩がとんでもなくお人好しだってこと」

 シャンプーの甘い香りに鼻を埋める。甘くて、凛とした桜の香り。

「先輩が私を見捨てられなかったこと、私に向けてくれる気持ちが恋じゃないってこと、それでも私を大事にしてくれようとしてたこと。ずっとずっとわかってました。なのに私、狡くて、」

 声が、震える。頬を温い雫がぼたりと落ちてゆく。  

 自分のこの浸っている感情も、恋じゃないとわかっていた。そんなのははじめから。でも先輩を取られるのは嫌で、苦しくて。またあの苦しみを、今度はそれ以上の苦しみを抱えなければいけないのがこわくって。何より私は一人ぼっちになる勇気がなかった。だからどうしようもなく狡い選択をし続けてきたのだ。

 今、この時まで。

「美月」

 優しい声が私の首元に落ちる。私と同じように震えた声をゆっくり腹に落とす。

「あの時のあなたを救いたいと思ったのは私のエゴなの。泣き腫らした目を隠しもしないで私を見つめる目に、私が勝手に惹かれたのよ」

 触れた耳が、熱かった。

「そんなに酷い顔してましたか?」

 ええそうね、世界中の不幸を恨んでるみたいな顔してた、と続けて櫻子先輩は歌うように続ける。

「あなたの言う通り、きっとこれは恋じゃなかったんでしょう。でもね、美月。私はあなたが大好きだわ。これまでだって、これからだって。そこに一度も嘘はないの」

 そっと腕の力を緩めた先輩は、私の目を覗き込んでまじまじと見つめる。真っ黒な強い眼差し。私はこの目にとことん弱い。

「信じてくれる?」

 私が見つめ返すと、少しだけ黒が揺らいだ。弱さを差し出した不安定な瞳を見る。抱きしめあって、唇を重ねて。そんなことは今までだって幾度となく繰り返してきたというのに。

「駄目な先輩でごめんなさい」

 しっとりとブラウスが湿っていく感覚がした。

「でも、これだけは本当よ。信じて」

 振り絞る弱い声を全身で聞く。二度と聞けない恋人の櫻子先輩の声を。

 嗚咽を食いしばる彼女の息が耳に響く。


 ねえ先輩。

 私こんな時なのに今はじめて、先輩の一番近くに居る気がしています。

「信じます、先輩」

 なんて言ったって、私の大好きな〝先輩〟が言うことですからね。

 響いた私の言葉はもう揺らいでいなかった。

 そっと肩を押して、先輩の顔を見る。櫻子先輩は、私の言いたいことがわかったのだろう、涙を溜めた目でにっこりと笑って見せた。先輩らしくない、下手くそな笑顔だった。

「美月」

 その答えを言うべきなのは私な気がした。始めたのは先輩。ならば幕引きは私がいい。

「ねえ先輩、食堂行きませんか」


 閉まる間際の食堂に券売機の電子音が響く。私たちはそれぞれ同じメニューが書いた紙切れを差し出す。カレラーメン二つ、とおばちゃんが声を張り上げた。

 湯気の立つ器をトレーに乗せて、窓際の席へ座る。

「いただきます」

 箸を上手に使う先輩は、やっぱり綺麗だった。

「いただきます」

 そっと手を合わせて、無言で麺を啜る。麺を全て食べたら、スープへ。少しずつ少なくなっていくスープをレンゲで掬う。私たちは始終無言のままカレーラーメンを平らげた。

「ごちそうさまでした」

 先輩の声にれんげを置いて、手を合わせる。まるで何かの儀式みたいだな、と思った。いやこれは儀式なのだ。私と櫻子先輩だけの、二人だけの儀式。

「櫻子先輩」

 こくこくと水を飲み干した彼女は私の呼びかけに、コップを置いた。

「私たち、別れましょう」

 空席だらけの食堂に、私の言葉が少しずつ溶け始める。櫻子先輩は一瞬目を閉じて、長い睫毛をふるりと揺らす。そしてふ、と息を吐いてゆっくりと瞼を上げる。

「そうね」

 静かな返事が落とされた。

 その言葉に、憎らしさも、悔しさも、感じなかった。心の底に巣食うような痛みも。

 ただ、ほんの少しのさみしさと、たった一つの願いだけが残っていて。

「櫻子先輩、大好きです」

「私もよ、美月」

 だから、と彼女は付け加える。

「幸せになってね。あなたは幸せを掴める人だから」

 柔らかい三日月の目尻が私を見つめる。ああやっぱり。この人には敵わない。

 だってそんなの。

「それは私のセリフですよ」

 自分で思っていたより穏やかな音色が紡がれた。私はそのことに安堵と不思議な幸福感が湧く。

「私たち、どうしようもないわね」

「そんなの、今更ですよ」

 軽口を言い合うのはまだ少し慣れないけれど。でもこれも多分すぐに馴染んで、境目などわからなくなってしまうだろうから。

「カレーラーメン、なくならないといいな」

 そうだな、二人の記憶もきっとあの食べ物と共に思い出して、そしてその頻度もきっとそのうち少なくなって。胸の中のどこか大事なところにしまうことになるのだろうけれど。

「そうですね」

 相槌を打って、口を拭う。

 その静かさが嫌じゃなくて、どちらともなしに小さく笑う。

 食堂を閉める掛け声が聞こえるまであと少し。

 私たちは最後の時間を大切に食む。

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