短編集

ぽん

第1話 料理の特別な材料

「“小麦粉をふるいにかける”?“ふるい”……?え、何、小麦粉振ればいいの?うわ、めっちゃ煙い!」


 突然小麦粉を振り出したせいで、部屋中を白い煙が舞う。部屋の中が真っ白だ。あーあ、むせ始めたし……。この部屋誰が掃除するのか分かってるのかな。


「“チョコを湯煎で溶かす”?“湯煎”?ようは、溶かせばいいんでしょ?」


 ぼちゃん、と、湯煎にはあるまじき音が聞こえてくる。見なくても、何をしたのか想像がつく。味薄まるの分かんないかな。


「“生クリームを泡立てる”、ねー。て、その作業ボール二つも必要かな?」


 おーい、それかき混ぜてるだけで一生泡立たないぞー。冷やせー。


「“生地の空気を抜く”?え?は?」


 とうとう動きが固まった。まったく……。


 このままでは部屋の中がメチャクチャになってしまう。

 見かねた私は、作業を進めようとする彼女の手を掴んで、一旦椅子に座らせる。

 多分彼女の中では出来上がったのであろう生地を、容赦なくゴミ箱に捨てた。そもそもあれを生地と表現することすら烏滸がましい。使っていた道具は全て綺麗に洗い、キッチンの周りを掃除する。

 綺麗になったキッチンに、同じく綺麗になった道具を再び並べる。まるで先ほどまでの惨状が嘘のように、最初の形に元通りになった。

 全ての準備を終え、満足した私は、大人しく座っている彼女に笑顔を向ける。

「始めよっか」

「はい、先生!」という元気のいい返事を聞きながら、何故こうなったのかと、ほんの数日前のことを思い出し、彼女に聞こえないくらい小さな溜め息をついた。数日前の私を殴り飛ばしてやりたいとすら思った。



 事の発端は数日前

 部活中の家庭科室の扉が大きな音を立てて開けられた。部員全員で驚いて扉の方を見ると、私の親友である紫月心が怒ってるような、泣いてるような、なんとも言い表し難い微妙な顔をして立っていたのだ。

 何があったのかと話しかけようとしたその瞬間、私のもとまで駆け寄り、手を掴んできた。力が強い。手が痛い。

 調理中なんだから走るなよ。という注意を押し殺して、「どうした」と訊ねる。心は、私の目を真っ直ぐ見つめ、ただ一言、

「私に料理を教えて下さい。」

と、言ってきた。

 状況が飲み込めなくて、返事が出来なかった、というのが、その時の私の本音だ。

 真剣に見つめてくる目を見つめ返して、とりあえず訳を説明させた。

 要約すると、話の内容はこうだ。

 心には長年片思いしているある男の子がいる(というか、どっからどう見ても両片思いなのだが)。その男子から、お前は女らしくないと言われたらしい。がさつだなんだと罵られ、終いには家事は何もできないだろう、とまで言われてしまったのだ。

 図星も図星なので何も言い返せないでいると、言われることはエスカレートしていく一方だ。そんな彼を見返してやろうと思い、なんか作って渡してやるんだ!

 ということだ。

 言ってることはめちゃくちゃだが、好きな男にここまで言われて、居てもたってもいられなくなったのだろう。話している間に、だんだん表情に変化が現れた。怒りの感情は消えていき、悲しみだけに埋め尽くされていったのだ。

私の苦手なものは、この子の泣き顔だということを思い出した。

 そして同時に、あることを忘れていたのを思い出した。

 ここが家庭科室だということだ。

 部員の皆んなから一切話し声が聞こえないのは、多分盗み聞きでもしているのだろう。家庭部の人間の性別なんて、お察しの通り女が大半だ(てか、全員か)。きっと、気持ちは痛いほど分かるのだろう。助けてやれという無言の圧力が矢となり、私に突き刺さってくる。部外者は黙っててくれ、という気持ちもある。そもそも、外野に何か言われても言われなくても、返事なんてとっくに決まっている。


「レシピと必要なもんもって、日曜に家きな。」


 先ほどまでとは打って変わって、嬉しそうに笑う彼女は、誰が見ても癒されるくらい可愛らしい。

 私自身も、心にはとことん甘いのだ。

 自分に呆れてしまうほどに。



 約束の日曜日

 心の持ってきたレシピを見て、驚いたのは言うまでもない。てっきりご飯系を想像してたのだが、彼女が渡してきたのは見るからに美味しそうなケーキのレシピだったのだ。心の顔を見ると、ほんのり赤く色づいていた。

 何かがおかしい……。

 そう思ったが、そんな野暮なことを聞くと拗ねてしまうのではと思い、口をつぐんだ。

 調理器具は家にあるのを貸し、一応どの程度できるのかと思い、自分でやらせてみることにした。

 ここからは、冒頭に至る。

 さすがの私も、頭を抱えたくなった。

 これはまずい。

 今回だけの話ではない。これから先、この子は笑い物にされてしまうかもしれない。この子の為にも、それだけは困る。そう思ったら甘やかしてはいけない、という考えが、私の頭をよぎった。

 私は静かに、彼女に声をかける。

「ねえ、心」

「ん?」

「スパルタで、いいかな」

 私の方を向いた心の顔は、何故か汚れていた。顔が汚れるはずの工程はひとつもない。彼女の汚れを拭う手が止まった。顔は硬直し、目の奥には焦りの色があった。


「やばい。」


 表情から、この言葉が読みとれた。

 残念ながら、もう手遅れだ。


「“振る”じゃなくて“ふるい”!そもそもそれ、動作じゃなくて、道具だから!きめ細かくするの!なんで小麦粉振るんだよ!このあとどうなるか分かるでしょ!?」

「何でチョコを直でお湯にいれてんの!?カレーでも作る気!?それ、カレールーじゃなくて、チョコだから!形似てるけど別もんだから!」

「生クリームは一つのボールに入れて、もう一つには氷入れて塩まぶすんだよ。氷は塩を降ると、より温度が下がるから。そんで、生クリーム入った方のボールを、それの上にのせてかき混ぜんの。ほら、固まってきたでしょ?」

「ケーキの生地入れたやつを上から落とすと、生地の空気抜けるの。やってみ。……って、ばか!力任せに叩きつけるな!」

 はっきり言いましょう。

 お菓子作りでこんなに疲れたのは、初めてです。

 心は「鞭の割合が多い。飴はどうした、どこへ行ったんだ」と何度も呟いていた。残念ながら、それには聞こえないふりをした。なんだかんだ言いつつ、半泣きになりながらも私の指導(心曰く、地獄のような鬼指導)のもと、全ての工程を終えた心の根性を讃えてあげたいと思う。

 ケーキを焼いてる間、何故か同時進行でトリュフを作っている心に、何故ケーキなのかと聞いた。すると、心は顔を真っ赤にしながら口を開いた。

「月曜日、あいつの誕生日なんだよね。」

「え」

 ということは、まさか……

「誕生日プレゼントってこと」

 真っ赤な顔をして、首を縦に振った。通りで気合いが入っている訳だ。私の中で合点がいった。

 心は驚いて固まってしまった私を置いて、そのまま言葉をつなげた。

「別に告白しようなんて考えてないよ。誕生日だって聞いたら、なんかしてあげたいって思っちゃうでしょ。でも、変にものあげたりしたら、あいつが周りに冷やかされちゃうし、だったらお菓子で良いじゃんって。ほら、お祝いもできるし、料理できない発言も拭えて一石二鳥!ってね。あれ、でも手作りだとやっぱいろいろ言われちゃうのかな……」

 うわ、盲点だったと慌ててるが、今の私の目には、そのあわてる姿は入ってこないし、私の耳にその言葉も入ってこない。寧ろ、そんなこと忘れてしまうくらいあげたかったんだろうと思っている。

 照れながらも、愛おしそうに、嬉しそうに話す彼女の顔はとても綺麗で、目が離せなかった。

『恋愛をすると女は可愛くなる』と聞いたことあるが、本当にこんなに変わるとは思っていなかった。心のことを可愛いと思っていないわけではない。寧ろ、元から可愛い顔をしている。しかし、この話をした心は、私が今まで見た中で一番可愛いと思った。

『恋は女にとって一番の化粧だ』

 誰かから聞いたこの言葉の意味が、やっと分かった気がする。

 ケーキの焼き上がる音が、とても遠くから聞こえた。

「いろいろとありがとうございました。そして、多大なるご迷惑お掛けして誠に申し訳ございませんでした」

 そう言い残し、心は私の家を出ていった。可愛くラッピングされた箱を手に、にこにこしながら自宅へと向かっていった。帰り際に渡された小さな箱の中には、先ほど一緒に作っていたトリュフが入っている。律儀にも、『ささやかなお礼です』と書かれたメモを添えて。

 憎めない奴。

 渡すのは心のはずなのに、自分自身も不思議と明日が楽しみになった。



 翌日

 朝教室に入ると、仲良く話す2人の姿が。ほっとしながら挨拶をそこそこに自分の席に着いた。

 しかし、授業が始まると同時に心は居なくなった。不自然に思ったが、理由を知るものは誰も居らず、そのまま昼休みに突入してしまった。

 意を決して担任に聞きに行くと、保健室にいると伝えられた。理由を聞いても、自分もよく知らないと言われてしまった。訳が分からない。

 とりあえず保健室に行くと、そこには誰もいないようだ。先生は留守みたいだ。おかしいなと思い、奥まで入ってみると、片方のベッドのカーテンだけが閉められていた。心は、そこにいた。

「心」

 名前を呼ぶと、びくっと体が動いた。のろのろとした動作で、ゆっくりと私に向けた顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。胸が締め付けられ、とても苦しい。私は無言で頭をなでた。心の目には再び涙が溜まり、口を開くと同時にそれは溢れ出した。

「ケーキ、渡せなかった……」

 何で。あんなに楽しそうに話していたじゃないか。何があったの。

 聞きたいことは山ほどあるが、それを聞くことは出来なかった。

「そっか。」

 この一言で、精一杯だ。私まで泣きそうになる。

「なんかね」

「うん」

「綺麗なお菓子があったの。多分、誰かからもらった、本命なんだと思う」

「うん」

「それをね、自慢してくるの。嬉しそうに、にやにやしながら。」

「うん」

「すごい、美味しそうでね、綺麗でね、可愛らしくてね、」

「うん」

「それ見たら……、急に、怖くなった……」

 流れ落ちる涙は、留まることをしらない。タオルも水浸しになり、過呼吸になりそうなほど、嗚咽が激しさを増していく。

「あんたのだって、綺麗だったじゃん」

 精一杯の私の慰め。しかし、心は首を横に振った。

「比べものになんないよ。完成度めっちゃ高いんだよ。見た目も、味も。私が来たときには、美味しいって言って食べてたもん。お前もこんくらいできるようになれよって言われてね。なんでかな。いつもみたいに、笑って返せなかった……。あんな嬉しそうな顔して食べるんだもん」

 胸が痛い。心の泣き顔は、本当に苦手だ。

 そして、彼女は消え入りそうな声で、

「もう、無理だよ…。」

と言った。

 見てられなくて、「心」と呼びかけようとしたその時、保健室の扉が開いた。ベッドまで近づき、カーテンを開けられると、そこには例の男子、君島裕翔が立っていた。

 何故こんなところにいるのか。混乱する私たちをよそに、心の姿を見た君島は驚いて、

「し、紫月どうした!」

と、騒ぎ出した。話題の人物の突然の登場に、心はまた布団を頭まで被りだす。

 君島は、私の姿を確認すると、私と心を何度か交互に見た。そして、突然私に向かって、

「お前か!お前が泣かしたのか!」

と言ってくる。お前のせいだよ、という言葉をどうにか押し殺し、

「失礼な、私じゃないわよ!」

と、私もすかさず応戦した。濡れ衣もいいとこだ。

「じゃあ何で……!」

 彼自身も大変動揺しているようだ。

 私たちのどうでもいい掛け合いを見ていた心は、布団を少しだけ下げ、目だけを向けて小さい声で「何で……」と呟く。君島は「あー」とか「うー」とか言いながら、頭を掻いている。

 情けない……

 私は呆然としている心に一つの箱を渡した。その箱を見るなら、心はゆっくりと体を起こした。

「これ……」

「ずっと冷蔵庫使われても迷惑だし、これも食べてあげなきゃ可愛そうでしょ。それに……


料理は味でも、見た目でもない。大事なのは気持ちだよ」


 箱を見つめたまま動かない心の肩を軽く叩いて、今度は君島に向かう。

「私授業行くから、ここで心のことよろしくね」

 私は2人に軽く手を振って、部屋を出た。

 廊下を出る時、カーテンの向こうから心が鼻をすすりながら「あのね」と言っているのが聞こえた。本当に人騒がせな奴らだ。あとは2人次第だろう。


 授業が始まる直前の廊下は、妙な静けさがある。

 心の成功を祈りながら、私の胸の中には、悲しみが雪のように少しずつ積もっていく。

 先ほどの2人の姿が、目に焼きついて離れない。

 彼がどうしてあそこに来たのか。それは簡単な問題だ。恐らく私と同じように、先生に聞いたのだろう。そして、同じことを言われ、居ても立っても居られなくなったのだろう。

 なんとも思っていない異性に対して、あんなに必死になるものなのか。

 あの姿を見たら、誰しもが分かる。それは、否、だ。思わず自嘲の笑いが漏れる。

「誕生日おめでとう、裕翔」

 誰にも聞かれることのない呟きは、一瞬にして空気に溶けた。

 本当は自分も好きだった人。

 誕生日すら知らなかった人。

 心と両思いだとわかっていた人。

 そして、なによりも、心のライバルになることを、私自身は望まなかった。

 誰にも打ち明けることの出来なかった、私の本当の気持ち。

 たった1人の廊下で、人知れず育ち続けてしまった恋心に別れを告げた。


 授業が終わり、放課後になるまであと数時間。それまでに気持ちを整理しなければ。

 心が私の大好きな笑顔で報告に来るまでに、私は大好きな親友に送る最高の笑顔を、何度も練習した。

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