おさん 太宰治

ノエル

ダメ男は最後の最後までダメ男のままで死ぬしかないのね。

わたしは、本当はあのひとが欲しかったんじゃない。あのひとの奥さんの鼻を明かしてやりたかったんだ。あまりにも貞淑で、女房々々していて、いかにも奥さんしていますって感じがいけ好かなくて、それで、あの女からあのひとを盗ってやろうと思った。それが動機だった。確かにわたしはあのひとが嫌いじゃなかった。でも、あのひとが亭主面して、こっちを振り向かないものだから、悋気を焼いてしまったの。

ううん、あのひとは好きだったわ。だって、あのひとはわたしの好きなタイプのダメ男だったのだもの。頼りなくて、気が弱くて、自己主張もできない。それはとんでもなく、いい加減な感性でジャーナリストを標榜していて、一端のことは言うくせに、肝心の記事を書かせれば三文文士にもならない駄文書きときている。

優柔不断で、物事が決められなくて、いつも右往左往している。右顧左眄というのかしら。付和雷同型で、日和見で、風見鶏より質が悪い。奥さんに気を遣うかと思えば、こちらが少し強めに言えば、こっちの肩を持つ。

あんまり悔しいので、何度も人目に付くようにその首筋に口吸いの跡を残してあげたわ。もちろん、身体のあちこちにもよ。それこそ、あのひとの裸をみたら、なにかの伝染病に罹ったかと思うくらいよ。それでもデキた奥さんは、気づいているのに気づかないフリをして、平気な顔で、わたしに無言の挑戦状を突き付けてくる。

憎ったらしいと思わない? なんだって、ああも奥様然としていられるのかしら。それが悔しくて、何度もあのひとに奥さんといつ別れてくれるの、わたしをどうしてくれるのと迫ったわ。ホントは一緒にならなくてもよかったの。一緒に暮らしたって、ろくな暮らしになりゃしないってわかってたわ。だって、ダメ男だもの。結局、わたしが養ってあげなきゃ、何にもできないひとだったの。

身体が弱くて、徴兵にも応じられない。そんな男なのに、あれだけは好きで、痩せ細った身体を布団の上に展ばして、わたしに動けと要求してくるの。自分では動かないくせに、行くだけ行くと、わたしが終わっていないのを知っているくせに、「ああ、疲れた」とばかり横を向いてぐうぐう眠ってしまうの。

ねぇ、そんな身勝手なことって、ある? ありゃしないわよねぇ。でも、そんな男だったからこそ、奥さんはしっかりしてしまったのでしょうね。布団の上げ下げから、箸の上げ下ろしまでなにからなにまで面倒見てやらなきゃならない男って、面倒なものよねぇ。

ふつうなら、とっくに見限って別れを切り出したりするものよ。だけど、あの奥さんはそうしなかった。気丈な奥さん? とんでもない。あれは私への当てつけだったのよ。まして三人も産んでるのよ。いかに好きもの同士かってわかるでしょ。

下世話な言い方だけど、世間ではそんなのを「暴れち○ち○」というらしいけど、まさにそうだったわ。ああいうのを世間では「むっつり助平」というのでしょうね。好きなクセに表向きは外国の諸事情に通じているようなフリをして、その実、なにも知らない。

教養に溢れた謹厳実直漢を絵にしたような風貌をしているし、英語もできるって言ってたけど、私に言わせれば、尋常小学校並みのレベルにしか達していない。

奥さんからの久々の夜の求めにも、暑さを理由に「エキスキュウズ、ミイ」などと誤魔化す手段くらいにしか使えないレベルだし、知り合いのイギリス人を紹介したことがあったけど、自己紹介もろくにできず、しどろもどろだったわ。あれじゃ、ジャーナリストどころか、その辺のジャリんこのほうがよっぽどマシでしょうよ。

で、なにかといえば、知ったかぶって、巴里祭だのなんだのってなにを感動してか一人悦に入って涙する。典型的なナルシスト。それがあのひとの「実態」だったわ。ひとさまからみれば、立派な聖人君子に見えたろうけれど、その実、甘えん坊で、ひとりじゃなにもできないボンボンだった。そんな男が好きで、三人も産んで、旦那が浮気をしても離れない奥さんって、いったいどんな精神をしてるのって思わない?

こうなったら、意地でも盗ってみせるわ、と思うのがふつうでしょ。名誉なんて関係ない。是が非でもこちらに来させてやる。わたしは思ったわ。あのひとを確実に自分のものにする。そのためには、決定的な証拠を突き付けてやるしかない。

それが妊娠だった。気が弱く八方美人のあのひとは、その一言で、優柔不断の仮面を脱いだ。とはいっても、断固とした態度や思い入れではなく、致し方ないといった風情の思い方だったかもしれないけれど、少なくとも決断の契機づけにはなった。

うちにくれば来たで、朝から晩まで、セックスばかり。そりゃ、痩せてやつれもするし、女のほうは孕みもする。あのひとにしてみれば、この上に子どもが生まれれば、いよいよ奥さんと別れなければならなくなる。決定的な証拠を突き付けられれば、奥さんとて認めざるを得ないでしょ。

わたしは決断を迫った。さあ、わたしを取るか奥さんを取るか、どっちにするのか、と。

すると、あのひとは観念したのか、わかった、折角授かった命だ、決して無駄にはすまい、きみと一緒になろう、それが革命だ、などとわけのわかったようなことを言ったので、じゃ、奥さんと別れてきて、とわたしが言うと、うむ、それなんだがね、とあのひとは言い、その前に旅行をしよう、革命前夜の祝祭だ、とかなんとかこれまたワケのわからないことを言ったわ。その意味するところは、家庭の在り方も国家の在り方も一緒だということ。つまりは、単なる戯言のことば遊びだった。

いまにして思えば、この旅行中にわたしを亡きものにし、知らぬ存ぜぬでこれまでどおり、生き延びようとしていたのかもしれない。さもなければ、数週間の旅行中にわたしを説得できるつもりでいたのでしょう。認知はするが、籍は入れないとかなんとか……。

でも、そんな言い逃れは聞きたくもなかったし、聞き飽きてもいたわたしは、諏訪湖近くの宿で過ごした二日目の夜、そんな中途半端なことを言うのであれば、この子どもを道連れにわたしと一緒に死んでくれ、そのほうがよほどスッキリすると言った。駆け引きではなくて、本当にそう思ったのよ。あの奥さんと別れさせられるなら、それこそここで死んだって本望だ、と……。

で、二人して手紙を書いた。いわゆる遺書って言うのかしら。あのひとはわたしの遺書は読んでも、自分のは、どんなに頼んでも読ませてはくれなかったわ。あのひとがなにをどう書いたのかは知らないけれど、わたしはあの人を心から愛していたとかなんとか、それらしいことを適当に書いておいた。適当とはいっても、もとはと言えば若手の女ジャーナリスト。下手なことは書けないわ。

でも、どうせこの世には戻るつもりはなかったし、所期の思いが晴らせればそれでオーケイだったから、傍目には美しい死に見えるように書いておいたわ。世間のひとがどう思おうと、それはそのひとたちの解釈の問題。

これは、多分、わたしの想像だけれど、あのひとはきっとわたしのことをいいように書いていないと思うわ。相変わらずの負け惜しみで、ジャーナリストがどうのとか、自己陶酔の極みのような駄文を書いているに違いない。ダメ男は最後の最後まで、ダメ男のままで死ぬしかないのね。さようなら、究極のオナニストさん。あの世に行っても、わたしの許にだけは来ないでくださいね。


出典 https://www.honzuki.jp/book/261019/review/260183/

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