第四章
第49話 境
我が妹である
誰かに対する優しさも大切だが、自分の気持ちの方が大事にして欲しい、そんな願いを込めた名前らしい。
「懲りねぇなお前も」
「だってぇ……」
露骨という言葉にも
洗濯物が乾きづらい今の季節、湿度がただでさえ高いのに部屋干しの上乗せ、さらに浮かない表情をした妹の倍プッシュをくらい、部屋は泳げるのではないかというぐらい、これほど無いまでに湿度が高い。
梅雨が明けるまで、露が帰るまで、もう少しの辛抱だ。
「それ食ったら帰れよ」
「私が作ったんだけどこれ」
「僕の部屋なんだけどここ」
「…………へいへい」
人の気も知らずにいきなり押しかけて、ドア開けた第一声「宿貸せ」は、呆れを通り越して安心までする。いつもと変わらぬ妹だ。
味噌汁を啜る。
顆粒出汁ではない本物の昆布と鰹節から取った出汁の主張は強く、まるで授業参観の小学一年生のごとく、他の具材を押し退けて手を挙げる。
「味噌汁ひとつにこだわり過ぎだろ」
「仕方ないでしょ。夕飯コンビニパスタなんて知らないし」
「急に来たらそうなるだろ」
廃棄を哀れんで連れてきた明太パスタが泣いている。まぁ、味噌汁と食べ合わされたら泣きたくもなるが、こんな事誰が予想できよう。僕に罪はない事を信じよう。
「…………何があったか聞かないの?」
「聞いて欲しいのか?」
「なら言わない」
「どーせ親父関係だろうけどさ」
中々に美味しくない組み合わせだな。
「まーそう思うよねー」
「違うんか?」
「今回は別件です。クソ親父は関係ありません」
「珍し」
食べ合わせが良くないなら、一つずつ食べていったほうが美味しいのではないだろうか。括弧撃破だ。
味噌汁を飲み干す。
「てか、用事なきゃ来ちゃいけない?」
「住み着かれると困る」
「何で?女連れ込めないから?」
「……僕が家賃払ってんだ。露が肩代わりするなら住めばいいんじゃねぇの?」
「妹に、女子高校生に、未成年に
「じゃあ変な冗談言うな」
パスタをよそって食べる。美味しいと感じるまで、二口ぐらい犠牲にしなくてはいけない。なんて罪深い事を。
「それはそうと、兄貴彼女でも出来た?」
「は?」
「ちょっと行動っていうか態度っていうか、………色々変わったから」
「……………そんな事ないだろ。てか彼女いねぇし」
「ふーん」
自覚はある。そして心当たりもある。
性格とまでは言わなくても、考え方とか価値観が、とても変化している。自分でもわかるぐらいに。
ここ最近の出来事はあまりに刺激的すぎて、あまりに衝撃的で、きっと無意識のうちに顔や態度に出てしまっているのだろう。
今日だって……。
「とにかく、それ食ったら帰れよ」
「はーん。やっぱ長居させたくないんだ」
「始発で帰って学校間に合うならいいよ」
「………………今日はいつにも増して冷たい」
「いつもこんなもんだろ」
わかってる。わかっていても、僕には上手く受け流す事が出来ない。中途半端に受け止めて、呑み込む事も消化する事も出来ず、未だに腹に居座っている。
解決策は思い付かない。そもそも解決するべきかどうかも疑わしい。解決していいのだろうか。
「ご馳走様でした」
問題ない訳がない。でも解決しょうがないし、それが彼女達に必ずしも「良い影響」があるとは限らない。
腫れ物に触れるのなら、その傷を癒せる様に。
けれど差し伸べた手で、首を絞めたくはない。
本能に身を委ねる危険は、先日痛い程知った。
「お粗末様でした」
頻繁に模様替えをしていない筈なのに、入る度に景色が変わるあの部屋で、僕は一体何を見ているのだろう。
これまでも。
これからも。
「…………チョコと抹茶、どっちがいい?」
「………え?」
「選ばんと無いぞー」
「じゃあ……………抹茶」
僕は食べ終えた食器を流しに連れて行き、頭を冷やすように上から冷水を浴びせ、自分達も頭を冷やす為に冷凍庫を漁った。
もう少し暑くなったら食べようかと思ったが、八つ当たった反省の意を込めて、
「それ洗ったら食おうぜ」
「………やるやん」
キンキンに冷えたカップアイスを2つ、今を乗り切る為に食べる事にした。
期末試験が刻一刻とにじり寄ってくる事実を、淡々と報告する期末試験内容説明の授業に、後で見返せばいいやの精神で対抗し、惰眠を貪る雨上がりの昼下がり。
慣れ親しんだ音楽を垂れ流し、何か言ってる教授のろくろ回しに目線を送りながら、音楽でも試験でもないモノに、思いを馳せる。
無論、今日のシフトである。
神宮寺とのバイトだ。
嫌ではないと言えば嘘になる。中々に長い付き合いで、それなりに慣れてきた。慣れない訳がない。
しかし、その、………嫌なのだ。前言撤回する。嫌だ。めちゃくちゃ嫌だ。
あの何しでかすかわからない思考回路が、数ヶ月も続いているバイトでも、サービス残業にも等しい謎組織に入団しても、未だに理解できない。
犬も歩けば棒に当たるように、神宮寺とバイトをすると何かトラブルを起こす。そんな奴と一緒に働いて、気分が良くなる人間など皆無だと思う。まぁ、ルックスは整ってるから、外見が評価の最重要項目な人なら話は違うかもしれないけど。
兎に角。
嫌だ。
しかしながら、聞かないわけにもいくまい。
彼女2人の関係性を。距離感を。何があったのかを。
「……………はぁ………」
一昨日から体調不良が続く。原因は明白で曖昧だ。
美彩の一件である。
どうも体に出やすい体質なのか、決まって不調になる。
体が重い。頭はさらに重い。心はもっとだ。
重い物ほど地球に引っ張られ、地に伏せるのが世の摂理。いや、地球に引っ張られているから重いのか?まあどうでもいい。とりあえず体は椅子に根を生やし、頭は机に埋まり、心は下の階まで引っ張られている。
まだ半分以上も、授業が残っていると思うとさらに体が重い。
この歳で整体に行くのは気が引けるが、それを検討するぐらいには僕の体は疲れ果て、休息を求めている。
「……………………………」
何となく、慣れ親しんだ音楽すら邪魔に思えてしまい、僕はイヤホンを取り外す。
ケースに仕舞い、音楽を止める。
ふと周りを見れば、一足早く夢の世界に旅立った先駆者が、似たような姿勢で額を机に置いている。
既に授業レポートを書いてしまったから(感想を授業開始と同時に埋めてしまった)、本格的にやることが無いし、僕も彼らを見習って、目を閉じる。
人間の感覚のおおよそ8割を占めると言われる視覚情報を遮断すると、余計な刺激を遮ることができて、意識はさらに遠のく。
寝て忘れられるような悩み事では無いが、寝て先延ばしというより、むしろ縮めている昼寝に手を伸ばし、重力に従って瞼を下ろすと、
「マジっ!?」
睡魔を追い払うには最適な、予想外の音刺激は、僕の右後ろの座席から聞こえ、意識が覚醒する。そして声の主は注目の的になる。
「………そこ。私語するなら外でやって」
「スンマセン……」
大声を上げた青年はばつが悪そうに何度か会釈をし、姿勢を正し座り直した。周りの友人は口を抑え、笑いを堪えている様だ。
「何やってんのお前」
「しゃーねぇだろマジでビビったんだから」
「何があったん?」
雑談に花を咲かせる男子グループ。
それを横目にもう一度、睡魔に襲われようと腕を枕に突っ伏して、目を閉じようとした時、
「ミサキがガキ堕ろしたんだとよ」
瞼が上がる。
鼓膜を一本の矢で貫かれた様に、イヤホンから大音量で音楽が流れた様に、意識が鮮明になる。
「そらウケるな」
「相手誰なん?」
「わかるわけねぇだろ」
「だろうな」
下品、とは言い難いが、少なくとも学校の授業中に、勉学に勤しむ場で聞く内容ではない話に、
「………………………………」
僕は、ギュッと歯を噛み締める。
そして拳を握り、二の腕を掴み、唇を噛む。
いくら目を閉じても耳は閉じれず、聞きたく無いことも聞こえてしまう。どうして耳には蓋が無いのだろうか。
「そんでさ」
「ウソ」
「ヤバくね」
「だからさ」
「なにそれ」
教授には聞こえないコソコソした声で、僕には聞こえる不快な言葉を、ジャグリングをする様に鮮やかに紡ぎ、喉の奥に糸が絡まる。
「……………………………」
何かが煮える。
「……………………………」
何かが浮き上がる。
「……………………………」
ぼんやり見えてたそれが、
「……………………………」
輪郭を帯びて、
「……………………………」
くっきりと。
「そこ」
授業態度に過剰な教授は僕を指差し、
「勝手に立つな」
自分のことを棚に上げ指摘する。
「………………………あの……」
僕は、
「体調が優れないんで……」
青白い肌をしているであろう額に手を当て、片目を覆い、
「失礼します……」
荷物を持って退室する。
少しふらついて、教授が何か言っていたのを無視して、扉を閉め、歩き出す。
冷房の効いた部屋から廊下に出ると、その温度差で息が更にしにくくなる。
でも、そんな事を気にしてる余裕は無い。
足早になって、廊下を走って、ドアに体当たりをして、僕はトイレに駆け込む。
吐いた。
こんな経験は初めてだ。
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