第35話 望き穴
「穂乃佳、僕はお兄さんに話したよ。虐待の話」
「……………えっ……?」
「……………………………」
あまりに突然だったから、長話の気の緩みもあって、僕は何も言えずに、喉が詰まった。
独り言のようにも聞こえた。でも、針ヶ谷の目線は彼女の方へ伸び、様子を伺っていた。
「……………………………」
彼女は硬く口を紡ぎ、彼女から話す気がない事を察した針ヶ谷は、口に入れていたお茶菓子を飲み込み、追い討ちをかけるように、
「後になればなるほど、言いにくくなる事だからね。僕は言ったよ」
見詰めるというより、睨み付けるように。
でも、怒気は含んでいなかった。見定めると言った方が正しかったのかも知れない。
「穂乃佳は、どうする?」
目線を逸らす望月に、針ヶ谷は問い詰める。
「……私は………私、は…………」
肩が震えている。酷く震えている。顔が真っ赤というより、目頭だけが赤い。
口は半開きで、何か言おうと開いては、唇を噛むように閉じての繰り返しで。
両手を胸の前で握り、服の皺が深くなる。前髪の隙間から、望月の目が覗いた。目が合った。
いつもの僕なら、何か言うのだろうか。でも、僕は何も言えなかった。針ヶ谷に根回しされてるからではなく、状況に着いて行けず、何を言ったら良いか分からないから。
「………………心の準備が出来たら……」
苦し紛れに言った言葉が、針ヶ谷の琴線に触れたのか、
「…………また、隠し続けるつもりかい」
「っ!………………………」
「それは、お兄さんにも嘘をつき続けると言う事かい」
「ちがっ……」
「違わないよ。黙ってたら伝わらないんだ」
物静かな彼女からは想像付かないほど、刺々しい言葉が並んだ。
いや本当は、怒っていたのかも知れない。無表情だからと言って感情がない訳じゃない。表情が読み取りにくいからと言って、感情を表に出さない訳じゃない。
「その心の準備がいつまで経っても出来ないから、美彩さんと牡丹姉さんは知らないんだ」
「………ちゃんと話すよ。………いつか…………タイミングが合えば……」
「いつかって、いつ?言うタイミングってどんな時?そんな事言ってたら、手遅れになるよ………あの時みたいに」
流石に、もう止めた方がいいんじゃないかと思って、僕は重い腰を上げた。なるべく自然体にと言われたから、これは僕の判断で、僕の意思で、口を挟んだ。
「望月、何だか知らんが、無理に話す必要はないぞ?針ヶ谷も、そんな強く言わなくたって……」
「話す必要があるんだよ。強く言う必要が」
針ヶ谷は珍しく、酷く複雑な表情を浮かべる。色々な感情が混じって、いつも以上に無表情に見えるが。
「手を差し伸べる事が正解とは限らないんだ。お兄さんには言っただろう?与える事で奪ってしまう物があると」
「………………………………………」
与える事で奪ってしまう事。
その言葉を聞いて、僕はハッとした。あの時の不気味さを、一週間前の不快感を思い出した。
この家の家主は、この部屋の持ち主を酷く愛していた。溺愛していた。過保護なんて言葉じゃ済まされないほどに。
愛を注いで、本人の意思なんて関係なくって、本人の為という自己満足を血が繋がっているだけの他人に押し付ける、そんな光景を思い出した。
まさしく此処だ。
答えだけ教えて、成長を奪う。
何もかも与えて、自由を奪う。
「流されるままじゃ、あの頃と変わらない。甘えないで、他人を信じて、傷付け、傷付く覚悟をしないと、穂乃佳は一生助けて貰えなくなる。そうなったら、また………………」
「……………………………」
気づくと、望月は泣いていた。
目元は手で抑えて隠れていたけれど、頬を伝う雫は隠しきれず、洋服の袖口に、シミを作った。
「………………すまない。柄にも無く熱くなった」
いつの間にか前のめりになって、固い拳を握っていた針ヶ谷は、自分の行いに気づいて、その手を緩めた。
「………リビング《下》で頭冷やしておくよ。お兄さんは穂乃佳の側に居てあげて」
「…………針ヶ谷……」
そう言うと、針ヶ谷はあの重苦しい扉を開けて、外へ出て行った。
取り残された僕の心は宙ぶらりんで、状況がイマイチ理解出来ていないから、来る時以上に浮き足立っていた。
でも、(これは言われたからではなく)僕は出て行った扉ではなく、膝を抱える彼女に、目線を向けた。
メンバーに入らされて、日が浅い僕からしても、2人は仲が良かった様に思う。歳が近いだけじゃない、僕が知らない理由もあったのだろう。
まだ泣いている。
子供を宥めるのは慣れてない。保育士でもなければ親戚の子供なんてそんな多くない。お年頃の女子中学生となれば尚更。
「……………望月……、大丈夫か?」
かけるべき言葉は、聞くべき言葉は、何とは無しにわかっている。それでも、臆病な僕は、そんな言葉を吐いてしまう。
「………………………………」
幸か不幸か、返事はなかった。大丈夫じゃない事など、見ればわかる。当事者ではないが、第三者でもない、事の発端も終局も見た僕が、今言うべき事は、多分この言葉。
だから、僕は意を決して、その言葉を口にした。
「望月は、どうしてここに入ったんだ?」
「………………………………」
腑に落ちた感覚は無かったけど、彼女が僅かに上を向き、少しだけ口を開き、何かを言おうとした仕草で、間違いではないと思った。
望月は長い沈黙の後に、ぽつりと「変わりたい」と唇を噛むように、ボソッと呟き、服の袖を握る小さな拳を徐々に緩め、
「…………最初…………私は、………神宮寺さんのような人の側にいれば、………………変われるんじゃないかと、………………そう思っただけです」
涙の滲む袖で口元を隠しながら言った。
一つ一つ、言葉を選ぶように、石橋を叩いて渡るように。
「………こんな自分が嫌で、嫌で嫌でたまらなくって、何でもいいからとにかく変わろうと、………そう思い、提案してくれたので、藁にもすがる思いで………それだけです」
鼻を啜った。普段の恥ずかしがり屋な彼女なら、顔を真っ赤にして覆い隠しそうだが、今日は別の理由で顔が真っ赤で、別の理由で
「ごめんなさい。………ちょっと時間をください…………。すぐに泣き止みますから……」
「いいよ。僕の事は気にしなくていい。焦らずゆっくり、望月のペースで話して」
「……………ごめんなさい………」
謝罪の声は、涙ぐんでいた。
それでも少しずつ泣き止んでは、落ち着きを取り戻す。
何分待ったかわからない。10分くらいか、1分も経ってないか、もしかしたら1時間経ってるか、体内時計は狂ってしまって使い物にならなかった。
じっくり待って、鼻声でも涙声でもない声になってから、
「私、いじめられっ子だったんです」
水面に水滴を垂らしたように静かで、聞き逃してしまいそうなほど小さな言葉は、次第に大きな波紋を生んで、その言葉の意味を理解する頃には、僕の覚悟が如何に小さかったものか、ありありとわかる程、肥大化していた。
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