第34話 真昼の月
「いらっしゃい瑞ちゃん。……それと、……彰平さんも…………」
「……お邪魔します」
「すっかり治ったみたいだね、穂乃佳」
あっという間に一週間が過ぎ、先週も来た一軒家の門を、今日も潜る。
しかし先週とは違い、両親は不在のようだ。軽自動車もワンボックスカーも無い。今日は平日だから、言われてみれば当たり前なのだが。
客人用のスリッパを履き、階段を登る。針ヶ谷曰く、望月はリビングより自室の方が落ち着くみたいで、2人で遊ぶ時は決まって自室との事。
「狭い部屋ですが
カーテンの開けられた部屋は依然との印象とは少し違う。でもあまり変わらない。この程度であの時感じた悍ましさは和らがない。
望月もいつもと印象が違う。ビデオチャットで話してる時よりもテンションが低く、初対面の時のように余所余所しい。
「今、お茶とお菓子持ってきますね…」
「お気遣い無く」
「いってらっしゃい」
定位置があるのか、針ヶ谷は丸いローテーブルを囲むように置いてあるクッションのうち、クローゼットの前に置いてあるクッションに座って、
「お兄さんも座ったら?」
と、入り口前のクッションを少し持ち上げて、座るよう催促した。
郷に入れば郷に従えでは無いけど、少し浮き足立っている僕の足を地につける為にも、ここは素直に従おう。
友人とはいえ客人が
クッションに腰を落として足を組もうとしてる時、不意に針ヶ谷が言った。
「薄々気づいてると思うけど、お兄さん。今のうちに、覚悟を決めておいて欲しい」
「……………あぁ………」
針ヶ谷が僕をここに連れてきたのには、きっと意味がある。その上で、後輩にシフトを代わってもらい、午後の予定を空け、ここに馳せ参じた。
一週間。腹を括るには十分すぎる時間だ。
「わかってる。大丈夫だ」
自分自身、何に対して大丈夫と言ってるかわからなかった。でも、他に言葉が出てこなかった。
「悪いね、本当に。…………今度何か奢るよ」
「いいよ気にしないで。女子中学生に奢られる男子大学生とかヤバすぎる」
「それもそうか。でも他に僕が出来ることなんて無いよ」
「飯作ってくれてるだけで十分だろ。いつも世話になってる分、このくらいどうって事ない。気にすんな」
「いいや気にするよ。今回の件はお釣りが出る。だいたい僕の気が済まないんだ」
「…………………………………」
最近わかったことがある。この子も彼女らに負けず劣らず強情だ。一度出した主張はそう易々と曲げたりしない。
まぁ、あのメンバーを引っ張るなら、やわな精神じゃ簡単に流されてしまいそうだが。僕みたいに。
「つってもな、これ以上迷惑かけるのも、それこそ僕の気がひける」
「……………迷惑なんて微塵も、……むしろ助かってるのだけど」
「……………………………ダメだ。全然出てこない」
「お兄さんさぁ……」
呆れられた。針ヶ谷に呆れられた。もう死ぬしかない……。
だって出てこないんだもん!世話になりっぱなしで特に思い当たる事が無いんだよ!
「……………わかった。なら『貸し』にしよう」
「『貸し』?」
「うん。何か困ったことが起きたら言ってくれ。力になるよ。僕が出来る範囲で」
「…………針ヶ谷がそれでいいなら、わかった。なんかあった時頼むわ」
外食で奢る奢らないの言い争いで負けた気分だ。哀れなりけり。
「最後に一つだけ。お兄さんは、変に気を遣わないで欲しい。なるべくいつも通りに、自然体でいて欲しい」
「……………下手な演技するよりマシだもんな。わかった、頑張るよ」
「僕は頑張らないで欲しいんだ」
「…………………………」
確かに、自然体を意識してる時点で自然ではなくなってる。気を遣わないことに気を遣っていては本末転倒。
見るなと言われるとつい見たくなってしまう。行くなと言われると行きたくなってしまう。天邪鬼とは少し違って、意識しないように意識するのは、難しい言葉で皮肉過程理論と言うらしい。有名な話はシロクマ実験。
実験参加者はシロクマについて考えないように指示され、指示通りシロクマについて考えないよう意識しようとすると、むしろシロクマの事ばかり考えてしまう。普段全く考えもしないシロクマの事を考えてしまう。
見るなと言われると見たくなるように。
何かを考えないように努力すればするほど、かえってそのことが頭から離れなくなる。誰だって一度は経験した事がある筈だ。
「お待たせ。お茶とお菓子持って…………ど、どうしたの2人とも。すごい怖い顔して……」
お盆を持ったままドアノブを捻り、体当たりの要領で扉を開けた望月が、少し怯えた様子で僕たちを見た。
「気にしないで、何でもないよ」
「そう。バイト先でも優紀があんな調子みたいで、お兄さんが愚痴ってただけだよ」
僕は本当にわかりやすいみたい。嘘をつくのはやめよう。
「そうだったんですか………大変ですね彰平さんも」
本人のいないところで、でっち上げられた事実を、好き勝手に咎められているが、あながち真実だから、これといって申し訳無さは滲み出ない。
「前も廃棄の菓子とか食ってたし、細かいミスは多いわ騒がしいわで……………近々後輩増えんのに、そんな調子だとね」
先輩になる後輩が、先輩は心配です。
「よく見てるんですね。優紀さんの事」
「危なっかしくて目が離せん」
望月にとっては他人事だけど、他人事の様に笑うその顔はやはり、何処となく、ぎこちなさを感じるものだった。
これから望月の話を聞く事になるのだろうが、いきなり本題を持ち出す程焦っていないし、僕もそれは気が引ける。
まずはジャブから。ワンクッション置いて、会話の空気作りから始めよう。
「この前もさ………」
場を和ませる為、嘘を混じえない程度に、面白おかしく、愚痴というか、共通の話題である神宮寺の話をする。僕しか知らないバイト先の話を。
思ったより長々と話してしまったのは、日頃のストレスによるものか、はたまた望月の話を無意識のうちに引き伸ばそうと思って、御託を並べていたのかも知れない。
真相は僕も知らないけど、望月がいつも通りの笑みが溢れたあたりで、僕が内心ホッとしたのを、僕だけが知っている。
まぁ、ここまで話の出汁にしてしまうと、いくら迷惑をかけられている神宮寺とはいえ、罪悪感が出てくる。
今度、しろくまアイスでも奢ってやろう。
そんなこんなで、ティーポットが冷めて来た頃、つまり何時間か居座って、雑談という丁寧で必要な無駄話をして、ある程度落ち着いた時、
「穂乃佳、僕はお兄さんに話したよ。虐待の話」
残り少なくなったお茶菓子を口に入れる前に、針ヶ谷は何の前触れもなく、そう言った。
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