第26話 浴槽
他人の風呂場とは不思議なのもで、緊張しつつリラックスしてしまう。講義やバイトで溜まった疲労感が溶けていく。
そもそも一人暮らしのお風呂は入浴ではなくシャワーが多いから、単に湯船に浸かるのが久々という相乗効果もあるだろうが。
前々からお泊まりの準備をしておくようにと言われていたので心構えはしていたものの、こんな急に、なんの前触れも無く、風呂を借りるとは思わなかった。
「野郎の一人暮らしじゃ、風呂も沸かさないし入浴剤なんて入れないよな……」
贅沢な風呂だ。
永遠に入っていたいと冗談抜きで言いたいところだが、そんな事をしたらのぼせるし、人間の進化が巻き戻って魚類になってしまう。何よりあとが詰まってる。
水面に映る僕の顔を歪ませて、湯船から上がる。
曇りガラスではないから曇りパネルと呼ぶべきか、半透明のドアを開けて外に出て、バスマットの上にあったバスタオルを拾う。
僕は体を拭く際、必ず顔から拭く。どうでもいいけど。
「………………………………」
白いふわふわのタオルは肌触りが良すぎて、逆に気持ち悪い。僕の家のタオルは何年も使ってクタクタになった物だから、多少皮膚を削るような肌触りで、それに慣れてしまったからだろう。帰ったら新しいやつを買おう。
顔に次いで頭、腕、胴体と拭いていく。
というか、このタオル白すぎないか?漂白剤使ってるか、新品かのレベルだぞ。まぁ、漂白剤なんぞ買った事ないからわからんけど。
あらかた拭き終わって、ふと気づく。
「……………………買ったパンツ外じゃん……」
保温できるエコバッグでアイスと一緒に冷やす必要はないし、僕も針ヶ谷も他の袋を持っていなかったから有料のビニール袋に入れたが(もちろん僕の自腹)、その下着を入れたビニール袋を、あろう事か外に置き忘れてしまった。
一人暮らしなら全裸だろうと構わず部屋を移動し、クローゼットだろうとタンスだろうと漁るが、今はそうはいかない。
女性だらけのこの場所では、尚のこと出来るわけがない。する気もないが。
仕方がないのでタオルを腰に巻き、引き戸に手をかける。目指すは隣の部屋にある僕の私物及び下着。
不要だった勇気を振り絞って戸を開けると、自動ドアに手を添えてるかのように、何の力も入れずに開いた。もちろん自動ドアではなく、手動の引き戸だ。
カラクリとしては単純明快。外側から誰かが開けたからだ。
「お兄さん下着忘れ………………すまなかった」
「………………………………」
驚きと恥ずかしさと気まずさと、色々な感情が混ざり合っていたが、一番大きかったのは安堵だった。
叫ばれなくてよかった。危うく
「ここ置いとくから、ごゆっくり」
「いやもう拭いたし、ごゆっくりも何も……」
買った下着と一緒に、ジャージのような服を一緒に置く針ヶ谷。
不幸中の幸いか、見られたのが針ヶ谷で……助かったわけではないけど、変に転ばずに済んでよかった。
「…………着替えを見守れと?」
「…………………………………」
「冗談だよ。脱いだ服はそこの洗濯カゴに入れといて。まとめて洗うから」
「……………ハイ……」
気軽に声をかけてくれるのは嬉しいことだが、神宮寺路線に行くのはやめてほしい。
引き戸を閉められ洗面所に閉じ込められたから、とりあえずパンツの袋を開け、中身を取り出す。
同様にシャツも開封しようと思ったら、下のジャージがめくれ、
「………………………マジか…」
僕は項垂れる。
その拍子にバスタオルが緩み、完全な全裸となる。
「似合ってるじゃん」
「サイズ合うか不安だったけど、問題ないみたいだね」
「……………………………」
神宮寺は相変わらず(?)しおらしくなって無言だったが、美彩と針ヶ谷は「折坂」と
「ちょっとキツイけどね……」
ジャージというか体操着というか、着替えは半袖と長袖の上下フルセットが用意されていたが、僕は半ズボンだけ借りた。最近暖かくなってきたし、これぐらいラフでも風邪は引かないだろう。
「ってか大丈夫なの?折坂さんの借りて…」
「問題ないよ。本人もたまに着てるし、その服で嘔吐はしていないはず」
「……………………………」
僕が聞きたかったのは本人の許可とかなんだが。それはそれで問題だ。
話によると折坂さんの勤務時間は定時過ぎだが、いかんせんピチピチの社会人だから夜遅くになるらしい。前回は既に居たが、今日は残業とのこと。世の中そう上手くはいかない。
まぁ、本人が来ても既に履いてる状態で、許可も何もって感じではあるが。
仕方ないからLINEしよう。ちゃんとした理由を誤解なく伝えられる文章で。
「優紀はお風呂入れる?」
「……………………………」
首を縦に振る。今日はこのまま、部屋の隅っこで永遠とクッションを握りしめる予定かと思いきや、風呂は入るらしい。
「……………………………」
「……………………………」
しかし一向に立ち上がらない神宮寺。それを見兼ねた針ヶ谷は、小さなため息を吐き、
「……………仕方ない、僕も一緒に入ろう。さっぱりすれば多少は変わるだろうし…………美彩さん、お兄さんの相手してもらっていいかな」
「いいよ〜いってらっしゃ〜い」
「ほら、ちゃんと着替え持って」
「……………………………」
なんだろう。老人介護みたいだ。
今一度、送信した画面を見る。仕事中だからか返信は来ないが、既読はいつた。あ、いや、オッケーとスタンプが送られてきた。
謝罪と感謝のメッセージを送って、半ズボンのポケットにスマホを入れる。
「あー、美彩さ。ドライヤーって何処か知ってる?」
「ドライヤー?ちょい待ち」
スマホをいじってた美彩は椅子から立ち上がると、洗面所の方に行って、
「ほい」
「さんきゅー」
「男でも使うんね」
「ハゲてなきゃ使うよ」
黒色のドライヤーを持って来て、僕に手渡した。
あたりを見回しては、近場のコンセントにコードを刺し、電源を入れて、髪の毛に熱風を当てる。
ゴォーと勢いよく回るファンの音では掻き消せない「ねぇ」という声は、目を瞑る僕の耳に届き、電源を切らせた。
「ユキに何したの」
声色と顔色は一致していて、どちらとも不機嫌だった。苛立っているというより、静かに怒っていた。
いや、それは僕の勘違いかもしれない。神宮寺の前では決して見せない表情を、僕が勝手に怒ってる表情と思ってるだけかもしれない。
「何もしてないよ。バイト始まった最初から最後まであんな感じだった」
「それは知ってる。あたしが送ったし」
あれを連れてくるのは一苦労だったろうに。お疲れ様。
「…………あんなんだったら休んでいいと思うぞ、仕事になんねぇし。交代でも良かったし」
「交代って?」
「もう一人いるんよ。神宮寺から見て先輩で、僕から見たら後輩のバイト君が」
年齢的には先輩だけど、職歴としては後輩の、少し説明がめんどくさい後輩がおるんよ。
「で。僕は何も知らないし、してない。話せる事なんて無いと思うけど、何聞きたいの?」
「…………何もしてないなら良い。………いや、何かしてて欲しかったかも……」
「…………どういう意味?」
人の目を真っ直ぐ見る彼女が、その「何かしてて欲しかった」と呟く瞬間、目を逸らしたのがとても気になった。
でも少なくとも、あの眼ではない。
「早く乾かさないと風邪引くよ?」
「…………………………」
日に日に暑くなる6月上旬に風邪引く馬鹿いるかと言いたいところだが、僅かに冷房の効いたこの部屋ではあり得なくない話だ。
お言葉に甘えなくとも、さっさと乾かそう。
その時に届いたであろう妹の連絡には一切気付かず、僕は中々乾かない髪の毛に風を当て、頭を掻き続けた。
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