ぼっち魔術師の異世界召喚~魔術師は科捜研の男と世界平和を模索する~
いちご
第1話
陽が南天に差し掛かろうという頃、青年は一人で森の中を歩いていた。
無造作に一つ結びにされた白金の髪は腰に届くほど長く、細見な体躯は些か頼りなさげに見えるが、道なき道を行く軽い足取りは非常に安定していた。
火を熾すのに適した枝を見つければ拾い、虚空に放る。枝は空気中に沈むように波紋を広げて消えていく。枝だけではない。ポーションの原料になる草花や、色のついた小さな石なども摘まみ上げる度に虚空に投げ入れていく。
青年の、貴重な研究成果の一つである。
「お、解熱用のキノコ! 森のこっち側でも繁殖していたのか」
薬草の陰に隠れるように自生していた茶色いキノコを発見して、彼は嬉しそうに目元を和らげた。
と、何かに気付いたように、今度は虚空に向けて話し掛ける。
「ああ、おはよう。うん、熱覚ましは街で売れるからな。……そうか、今日は一日こんな陽気なのか。それは嬉しいな」
さわさわと温かな春の風が森の木々を波打たせる。
「えっ、それは是非とも釣っておきたい……しばらく留まりそうか? 家の側の川だよな?」
ぶわりと強い風が吹く。それはまるで、青年の言葉を肯定するように。
彼は会話しているのだ。
この森に暮らす、数多の精霊達と。
青年――アズライトは孤独な魔術師だ。
年齢は21とまだ若いはずなのだが、物心ついた頃から祖父母に育てられていた事。そして、その祖父母が大好きだった事もあって考え方が少しばかり老成しており、同年代からは「面白くない」「ヘンな奴」と煙たがられた。
更には祖父母の研究を引き継ぐと決め、人里離れた山の中に引き籠るようになってしまって早10年。食材等を調達するために街を訪れる事はあっても、名前を呼び合うどころか、彼の名を知る者さえただの一人もいない。
そんなアズライトが祖父母から引き継いだ研究と言うのが、世界を恐怖に陥れるとされる魔王を封印した魔法陣の解析。
このことが、更に彼を孤独にしていた。
約700年前に強大な軍勢を率いて人間の国を滅ぼし、暴虐で以て世界を支配しようとした魔王ソロモンは、後に大賢者と呼ばれたアオイトーカによって封印され、世界は平和を取り戻したと語られている。
事実、今日も世界は平和であり、この国の王都近くの山中には魔王を封印している石碑が厳重な警戒態勢のもと監視されているのだ。
そんな状況下でアズライトが祖父母の研究を引き継ぐ事に決めたのは、大賢者の封印は非常に頑強で未来永劫破られる事はないと伝えられているにも関わらず、50年ほど前から魔王の手下である悪魔の暗躍が世界の各地で確認されるようになったからだ。これに対し世界は対抗策を模索し、悪魔に対抗し得る勢力として異世界からの『勇者召喚』を試みた。何故なら大賢者アオイトーカこそが異世界から召喚された勇者だったからだ。
繰り返しになるが、魔王を封印した魔法陣は大賢者アオイトーカにしかどうこうする事は出来ず、決して破られることはないと信じられている。
しかし悪魔の暗躍が確認されてしまっている以上は魔王の復活が絶対に無いとは言い切れず、魔法陣が大賢者アオイトーカにしかどうにも出来ないのであれば、魔王が復活した際に討伐、または再封印可能な人材を確保したいのは当然だろう。
国の首脳陣がそれを選択した気持ちは理解出来る。
だが、50年前に行われた『勇者召喚』を目の当たりにした祖父母は、その結果に戦慄した。
勇者が招かれてからも魔王が復活する事はなかったとか、そんな事はどうでもいい。異世界から召喚された彼らは確かに人外の強さでもって悪魔を撃退したし、それで守られた平和もあった。
問題は『勇者召喚』を行ったことにより精霊が死滅しかけたという異常事態。
精霊王達が存命であれば新たな精霊が絶えず生まれてくるし、いずれは元の状態に戻るだろうが、世界を世界たらしめる精霊を犠牲にして行われる『勇者召喚』に果たして相応の価値があるのだろうか――。国の要職にありながらそんな疑問を抱えた祖父母は職を辞して魔王封印の魔法陣解析に着手したのだ。
魔法陣の解析さえ叶えば『勇者召喚』など行わずとも、この世界の誰かが対処出来るのではないかと考えて。
「……ま、志は立派だけど研究は暗礁に乗り上げてお先真っ暗だ」
森の散策から戻り、独り暮らしの小屋の中で収納空間に放り込んでいたものを取り出し、選別を始めたアズライトは、その視界に資料が散乱した机を入れながら自嘲気味に呟いた。紺青色の瞳に帯びるのは僅かとはいえ否定できない諦めの感情。
12年前に祖母が亡くなり、祖父も10年前に亡くなった。それからずっと一人で祖父母の研究を続けて来たけれど、調べれば調べるほど判らなくなっていく。
原因は判っている。
異世界の知識のせいだ。
この世界とはあまりにも違い過ぎるそれを独力で解析しようなんて発想が、そもそも間違っていたのではないか、……そんなふうに考えながら、アズライトは溜息を吐く。
「異世界の知識がある連中に話が聞ければとも思うけど、そんな人脈は、無い」
城に勤めていた祖父母にならあったかもしれないが、職を辞し、内包する魔力量故に与えられていた貴族の身分も剥奪された現在では期待出来ない。存命のはずの両親も何処にいるのか不明だ。
何せ魔力ゼロだった両親は生まれながらに高い魔力を持っていたアズライトを恐れて祖父母に押し付けたのだから。
「……俺が生まれてから『勇者召喚』が行われた事は無いし、異世界人に話を聞きに行くっていうのも現実的じゃないしなぁ」
そのおかげで精霊達が順調に増えているのだから、むしろ感謝の気持ちでいっぱいだ。精霊達が穏やかな心地で世界に満ちるということは、つまり森の木々は美しく、水が清く、空気も美味しいということだ。
田畑の実りは豊富。
家畜の成長も良好。
漁場で獲れる魚も脂がたっぷりと乗ったぷりっぷりの身で、大変美味。
第一次産業がこれだけ順調なおかげでここ三十年は飢饉も無い。
日照りによる干ばつ、豪雨による水害といった天災も同様で、悪魔による被害は度々確認されているものの、人命が失われる危険は最小限に抑えられていると言えなくもないだろう。
だからこそ、ただ一度の『勇者召喚』でこれを一変させる事態を祖父母は憂いたのだ。
祖父母が求めた答えは「正しい」と、アズライトも胸を張って断言できるが、それも答えを得られれば、である。
「……どうしたもんかな」
集めた枝を竈の側に積み、草花やキノコは調合鍋の側に置くと、もう何度目になるかも判らない溜息を吐きながら研究用の机に近付いた。
散乱する書類の上では、いつの間にか祖父母の筆跡よりも自分の筆跡の方が目立つようになっていた。
街で仕入れる魔道具、用意する道具、そのどれもが自分仕様に変化していた。
それは机の上に限らず、家全体がそうだ。
今は独り暮らしだが、祖父母と一緒に暮らしていた家はそれなりに広い。三つある部屋の内、一つは自分の寝室。一つは祖父母の遺品庫、そして居間と台所、調合室と研究室も兼ねたこの部屋。もはや自分以外の人の気配などほとんど消えてしまっている……。
「……ダメだダメだ。飯を食おう!」
何とも言えない気持ちになってしまったアズライトは、自分自身を誤魔化すように大きな声を上げて台所に立つ。
一週間ほど前に街で購入した固い黒パンと、さすがに今日が最終日だろう三日目の根菜のスープ。竈に火を入れるのは面倒なので、木製の器に注いでから火魔法で手を発熱させ、じわじわと温めた。
天井から吊るしてある燻製肉は、三枚ほど薄く切り取って皿に。
「畑の野菜で食べられるのはあったかな……」
きゅうりにトマト、ナス、枝豆。
じゃがいも、にんじん、玉葱、レタス。
とうもろこしなんかも植えてある。元々はこの大陸になかった食材も多いのだが、大賢者アオイトーカを筆頭に、召喚された異世界の勇者というのはとにかく食べ物にこだわるそうで、魔王討伐(最終的には封印だったが)を条件に世界各地から食材を集めたと言われている。
加えてこの森は精霊が多いおかげで植物が良く育つのだ。
普通であれば時間の掛かる農作物が半分以下の期間で育つし、一度収穫しても夏が終わるまで繰り返し実のなるものもある。
貧乏人には非常にありがたい食材だ。
外に出て、家の裏手に広がる畑を歩きながら食べられる野菜を幾つか選び取り、小さなトマトを口に入れると、新鮮な野菜特有の瑞々しさと甘みが口いっぱいに広がった。
「んま……っ」
生産者だけが味わえる幸せに頬を緩めていると、精霊の賑やかな声が聞こえて来た。
「ん、いるか? ほら」
アズライトが小さめのトマトを一つ差し出すと、緑色の髪の精霊は嬉しそうに受け取る。真っ赤なトマト抱き締めながらキスすると、ふわりとその全身が光りを帯びた。
周囲の精霊達も興味深そうに近付いてきて、緑の子が抱き締めるトマトにキスをする。
そして、光る。
きゃっきゃと楽しそうにはしゃぐ精霊達の姿に、アズライトは先ほどまでの沈んだ心を慰められる気がした。
アズライトは、自分以外に精霊の姿が見える人間を知らない。祖父母でさえ声は聞こえていたようだが姿までは見えていなかった。
街の人々ならなおさらだ。
先ほどのトマトだって、彼の手から離れた途端に消えたようにしか映らないだろう。だから精霊達が『勇者召喚』で消えてしまっても、誰も何とも思わない。
だが、アズライトにとっては、……そう、恐らく精霊達は、彼にとっての友人であり、家族なのだ。
「諦めるくらいなら、とっくに……だよな。泣きごとなんか言っていられない、か」
自分の研究は精霊を守るためでもある。
「今日も頑張ろう……あ、けどさっき教えてもらった川魚を釣りにも行きたい」
絶対に諦めてなるものかと自分自身に言い聞かせ、気持ちを上げていくためにも今日の予定を立てながら家に戻ろうとした、正にその瞬間だった。
「!!」
ズンンッ!!
途端に空気が重くなり、精霊達の悲鳴が上がる。
…… …… !!
―― …… ……!!
「なっ……」
目を見開くアズライトの周囲から次々と精霊達が消えていく。
「待っ」
咄嗟に手を伸ばして精霊を鷲掴んだアズライトは、ほとんど無意識に自分の魔力をその小さな体に押し流した。
手のひらで覆えそうな小さな体がビクンと跳ねたが、今にも消えそうだった姿は原型を留めてアズライトの手の中で驚いた顔をしている。
「助けられる……!」
それに気付いたアズライトは畑に戻ると、トマトを抱き締めていた緑の髪の精霊を見つけ、急いで魔力を流す。
続いて周囲にいた、先ほどきゃっきゃしていた子達にも。
全員が驚いた顔をしていたが、消えずに済んだ。
その事実があれば充分だった。
「……っ!」
そこからは手あたり次第だった。
目に映った精霊達にとにかく魔力を与えた。
「消えそうな子がいたら連れて来てくれ!」
回復した精霊達にそう指示を出し、一人でも多くの精霊を生き延びさせようと森の中を走り回る。
あれほど心地よかった青空は、今も青いはずなのに、くすんで見えた。
木々の緑はあんなにも生命力に溢れていたのに、今は冬を控えた雨の日のように萎れて見える。
いつもは吸い込んだだけで気分転換になる森の匂いも、鼻腔を通るたびにねっとりとした何かを残していくような不快なものに変わっていた。
何が起きたのかなんて明白だ。
『勇者召喚』が行われたのだ。
「くそぉ……っ!!」
ギリッと音がするほど奥歯を噛み締めた。
行き場のない怒りが腹の底で渦を巻き、激情が目頭や鼻の頭を熱くさせた。
守ろう、と。
改めて決意した矢先にこれか。
これが、諦めそうになった俺への罰か……っ!?
それからどれだけの時間が経ったのか正確に知る由は無い。
何人の精霊に魔力を与えたかなど数えてもいなかった。赤い髪の精霊に魔力を与えたところで足元が覚束無くなり、金色の髪の精霊に魔力を与えたところで眩暈がした。
精霊達が、消える時とは異なる悲痛な叫び声を上げたのと同時、力強い腕に支えられている事に気付く。
「無茶をし過ぎだ。魔力が枯渇しかけている」
「ぁ……」
言われて初めて自分が倒れかけていた事を知った。
魔力枯渇。
そのせいで視界がぼやけ、身体に力が入らなくなってしまっているのだ。だが、そのような状態でも自分に声を掛けて来た誰かの、圧倒される存在感は、声の主が何者なのかを悟らせた。
……判ってしまったら、途端に気持ちがぐちゃぐちゃになった。
「ごめ……っ、人間が、すまん……、ごめん……!」
「おまえに罪はない。己を顧みずに我等の同胞を数百も救ってくれたのだ。礼を言う」
「違っ……あんたが礼なんて言わないでくれ……! 人間のせいで生まれたばかりの小っちゃい精霊達はほとんど全滅しただろ!? 力のある子達だってあんなに弱って……っ、この森では救えた子がいても、世界中でどれだけの精霊達が死んだか……!!」
「それでもです、人間の子よ」
新たな声、その主を確認しようにも指一本動かない。
見えない。
だが、その声の主も何者なのかは判った。
「この森の精霊達を見ていれば、あなたがこの子達のために心を砕いてくれたことは明らか。あなたは我等の友人です」
「……っ」
「しばらく休め。このままではおまえの命が危うい。家までは運んでやる」
「森の精霊達のためにも、あなたは健やかでなければなりませんよ」
***
貴い二つの声は、逆らう事など許さないと言わんばかりにアズライトを強制的に眠らせてしまった。
次にアズライトが目を覚ますと、彼は自分の部屋のベッドの上だった。視界は良好、身体も動く。筋肉痛のような全身に及ぶ痛みと倦怠感が動作を鈍くさせているが、問題というほどではない。
「……現実、だよな」
窓から外を眺めると、太陽の位置が最後に記憶にあるよりも東だ。つまり丸一日眠ってしまったのか、それ以上か。
実は数年振りの目覚めだと言われても信じてしまいそうだった、……それほどに森の様子は変わってしまっていた。
森が沈黙している。
いつもなら自由に宙を飛び回り、無邪気に笑っていた精霊達の姿が一つもないのだから当然だ。
「くっそ……っ」
生まれたばかりの小さな子達は全滅だった。
救えた子達だって、辛うじて姿を保てていただけで力を取り戻すにはしばらくの時間が必要だろう。魔力が枯渇するほどに走り回っても、他人よりは魔力が多いと言われても、その程度でしかなかったのだ。
「魔力枯渇なんて、ほんと……情けない……っ」
自嘲気味に零れた呟きがだんだんと震えていく。
空は青。
森は緑。
今までと何ら変わりのない色に、少し前までの輝きはどこにもない。
「……っ」
アズライトは両手で顔を覆った。
前髪をかき上げるように、……情けない顔を擦り消すように、痛みなど無視して爪を立てた。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
精霊達の悲鳴が耳の奥でこだまする。
消えていく光景が瞼の裏にこびりついている。
「くそっ……!」
彼は寝室を飛び出し、最後に記憶している通りに研究用資料が散乱する机まで大股で近付くと、怒りに任せて机上に拳を叩き付けた。
崩れ落ちる紙の束。
転がる魔道具。
インクが波立って机上に黒い染みを広げ、羽根ペンは床に落ちた。
「……ふざけんな……っ」
ぽつりと零れた声と共に膝から崩れ落ちたアズライトは、顔を伏せて、そのまま微動だにしなかった。
どれくらいそうしていたのか、気持ちが落ち着いてきたアズライトは、ふと祖父母の遺品庫になっている部屋から奇妙な気配がする事に気付いた。
「……?」
誰かがいる、という感じではない。
敢えて言うなら勝手に起動した魔道具が注意喚起しているような、呼ばれているような。
「……放置している魔道具なんてないはずだが……」
アズライトは不審に思いつつもその部屋に近付いた。
かつては生前の祖父母が二人で使っていた寝室。
今は二人が使っていた物や、読まなくなった書物などを保管する場所にしているため、カーテンは引きっぱなし。そのため、扉を開いた先は薄暗い。
「ん……? 精霊の気配……?」
そこに妙に強い精霊の残滓のようなものを感じ取ったアズライトは、ようやく意識を失う直前に声を掛けて来た圧倒的な何者かの存在を思い出した。
「……っ、そ、そうだよ、あれって、まさかの、精霊、王……だったよな……?」
もしかすると精霊王に次ぐ強い力を持った精霊という可能性もなくはないが、勇者の伝承と同様、人と直に触れ合い、言葉を交わせるのは精霊王だけだと伝えられている。
ましてや、あれほど強烈な自然界の力に接しておいて、その存在を間違うなんて事は有り得ない。
思い出すだけで全身を震えが襲う。
更に言うならば、気絶した自分を此処まで運び、寝台に寝かせてくれたのも精霊王達だったはずで――。
「恐れ多いっつーか……それで、どうしてこの部屋に入ったんだ……?」
アズライトはカーテンを開けて部屋に光りを取り入れた。
と、魔法陣が描かれた大きな紙が床に広げられている事に気付く。
「じいちゃんの字だな……んん? これって『勇者召喚』の魔法陣の改変版……? なんだこれ」
使われている文字や記号は解読出来る。文字の一つ一つが右肩上がりになっているのは祖父の癖で、アズライトは祖父が複写した『勇者召喚』の魔法陣を見た事があったため、目の前にある魔法陣が祖父によって記された派生なのは理解出来た。
一方で、祖父は自分が研究に必要ないと判断したものは早々に仕舞い込む人だったし、アズライトも引き継いだ研究以外に割ける時間がなかったため、落ち着いたら遺品を整理しようと考えるばかりで、部屋にどんなものが残されているかなんてほとんど把握していない。
なので、見知らぬ魔法陣が一枚現れたくらいで驚く理由にはならない。
判らないのは、それがこうして床に敷かれている理由である。
「最後にこの部屋に入ったのって一週間くらい前で、その時にこんなのは無かった……ってことは、これは精霊王のお導き……?」
まさかなぁと思いつつも、魔法陣の解読を進めていく。
「限定……知識……、あぁそうか、精霊が犠牲になるのは召喚された勇者の身体に魔王と戦えるだけの力を宿させるためだもんな。勇者じゃなくて知識人を召喚するためなら……いや、けどここが……ぁ、これ……」
ぶつぶつと呟きながら祖父が描いた魔法陣を指でなぞっていたアズライトは、ふと祖父のものではない筆跡に気付いた。
当然、祖母のものでもない。
他の部分は経年相応に劣化しているのに対し、そこだけはインクに艶があるのだ。明らかにここ数日以内の書き足しだ。
しかも人間の言葉ではないという分かり易さ。
精霊王のお導きというフレーズが、俄然、真実味を帯びて来た。
「……強烈に残されていた残滓。広げられた魔法陣。付け加えられた精霊語……三つ揃えば、もう必然だろ……?」
心臓が早鐘を打つようにバクバク言い出した。
何が起きるかは判らない。
もしかしたら人間の行いに怒った精霊王の鉄槌が下されるのかもしれない。
不安は尽きない。
だが、この魔法陣を起動すべきだとアズライトの直感が告げている。
「……男は度胸!」
アズライトは魔法陣に力を込めた。
無事に全快した魔力を惜しみなく注ぎ、其処に力が満ちた証として陣が光り輝いたのを確認して立ち上がる。
手を掲げ、魔法陣によって増強されて立ち昇る魔力を掌で受け止めた。掌から心臓へ、全身へ。こうして体内を巡らせ、足下から更に陣へと魔力を注ぎ込む。そうすることで魔法陣を起動させる記号が言葉に変わり術者の口から紡がれるのだ。
だからこそ読めない精霊語でも問題はなくなる。
「我は喚ぶ 其を招く 道を繋ぐ 月白の未知 求めるは知識 奪わぬは願い」
力を含んだ言葉は陣を更に輝かせ、強大な魔力の渦を室内に発生させた。部屋どころか、小屋全体がガタガタと震え始め、本棚からは本が、棚の上からは小物が床の上に落下していく。
「代償には精霊王に愛されしこの身を捧げ……、ん??」
解読するままに言葉を紡いでいたアズライトは、そこに至って初めて疑問を抱いたが、既に魔法陣は起動され、魔力は最大まで高まりつつある。ここで止めては尋常ではない被害が出ると判断し、一先ず進める事を選んだ。
「この身を捧げん――聞き届けし者よ、我の召喚に応えよ……!!」
ぶわりと魔力の渦が円状の突風に変わる。
「ぐ……っ」
アズライトも風圧に押されて後退ったが、何とか堪えて魔法陣の帰結を見守る。
中心に留まった魔力は陣の上で小さな竜巻となり、次第に勢いを失っていくと共にそこに一枚の扉を顕現した。
「……不思議な色……というか、素材……? 見た事のないものだ……」
完全に魔力の渦が消えたと同時、一際強い光りが放たれたかと思うと、魔法陣は描かれていた大きな紙ごと部屋から完全に消え失せていた。
その代わりとでも言うように、部屋の中心に現れた異様な存在感を放つ扉。
「……これは……」
厚さ5センチくらいの、一枚板だ。
ノブと思われる部分は驚くほど滑らかな手触りで、銀色の、鉱石と思えないことも無い不思議な素材で出来ているらしかった。
扉全体の色は白に近い茶で、木目柄。
デザイン的にはこの木造の小屋に合いそうだが、部屋の真ん中に扉が一枚というのは明らかに異様だ。
後ろに回ってみても、見た目は同じ。
「これは、開く……のか……?」
元の位置に戻り、アズライトは緊張した面持ちでドアノブに手を伸ばした。
だが、その手が銀色の部分に触れようとした直前にそれが勝手に下がった。
「!」
驚いて手を引くと、まるでそれを待っていたかのように向こう側から扉が開かれて――。
「……っ」
「――」
現れたのは長身の男だった。
短く切り揃えられた黒髪に、黒い瞳。
年齢は20代後半だろうか。少なからず疲れて見えるので、もしかしたら予想するより若いかもしれない。
「え、っと……」
戸惑っている。
当然だ。
お互いに限界まで目を丸くして見合う姿は、傍から見れば滑稽だったと思う。
だが、だんだんと状況を受け入れられるようになってくると、アズライトの胸を占めたのは歓喜だった。
自分の呼び声に応えて異世界の人間が現れてくれたという、喜び。
なのに言葉が出て来ない。
呼吸すら苦しくなるほどに考えが纏まらない。
そのうち――。
「……あー……と、お邪魔、しました?」
語尾を上げながら、男は扉を閉じた。
姿を消した。
「! あっ」
アズライトは焦るが、扉が閉じられてもそれは消えなかった。
更には扉の向こうが妙に騒がしくなる。
「 …… …… !」
「…… ……!」
「――――でしょ?」
「いやっ、でもそうじゃなくて……!」
バンッ!
再び扉が開き、今度は先ほどの男と一緒に、髪の長い10代後半と思しき少女が現れた。三者三様の表情でお互いを見合う。
アズライトは意を決し、ごくりと喉を鳴らした。
「は、初めまして。俺はアズライトと言って……魔術師、です。あなた……達は、異世界の知識人だろうか……?」
その言葉に、更に目を丸くする二人。
固まる彼らの反応を見て、アズライトは緊張したままぎこちない笑みを浮かべるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます