第50話
融は奥で昼食の仕込みをしているのだろう。出汁のいい香りが店内にたちこめ始める。
少しして藍乃がお盆に載せたお茶を運んできてくれた。ところが、「あっ」と声を上げたかと思うと、藍乃は何もないところなのに足を滑らせて転倒しかけた。
するとそこに、「藍乃!」と融が飛んで出てきて藍乃を抱きかかえた。
「大丈夫か? 怪我してへんか?」
「いややわあ。融さん。大丈夫よ。ちょっとひっかけただけやし」
「あほ言いな。こないだかてちょっとひっかけたで、そのままひっくり返って頭ぶつけて脳震盪起こしてるところに更に物が落ちてきて、結局救急車で運ばれるいうコントみたいなことしとったばっかりやないか」
心配性ねと膨れる藍乃に、融ががっくりとうなだれている。
そんな二人を、蔵王はにこにこしながら眺めている。
そんな彼らを見比べて、葛葉は気になっていたことをそうっと尋ねた。
「えっと、もしかして、お二人は……ご夫婦なんですか?」
「あ、言うてへんかったね。そうなんよ。融さんとは、私が虎月堂の大阪支店を任されて異動した後に出会って、蔵王が高校生の頃に再婚したんよ」
「おかげで、今では僕も二人の妹弟の兄なんだよね」
楽しそうに穏やかに笑う蔵王を見て、疑問が氷解した。
どおりで融とはやや他人行儀ながらも、それなりに親しいわけだ。
「時の流れを感じるわね。でも、なんだか懐かしい」
葛葉はくすりと微笑んだ。それに、蔵王もまた、どこか昔を懐かしむように目を細めた。
「そういえば、虎月の家でもいつもこんな感じだったね」
「そうそう。藍乃さんはおっとりしてるから、いつも代わりに蔵王があれこれ動いてて」
「母は、お米のとぎ方も知らないお嬢さん育ちだったからね」
蔵王が肩をすくめるのに、葛葉は目を丸くした。
「そうだったの?」
いつも食卓には手の込んだ料理の数々が並べられていたので、てっきり藍乃は料理が得意なのだと思っていた。
(もしかして、あれって蔵王が作ってたとか?)
そう考えれば、今の蔵王の料理がプロ並みなのもよくわかる。
藍乃も身に覚えがあるのだろう。
「さすがに今はお米もちゃんと炊けるんよ? せやけど、まあ、当時はお嬢さん言う程やないけど、実家が呉服屋やったんよ。一時期は随分羽振りもよかったみたいでね。家のことは人を雇て任せてはったんよ。せやけど、結局は社長やった父が亡くなったんをきっかけに、色々あって倒産してしもてね。そしたら、お見合い結婚した相手からも離縁されてしもて」
苦笑しながら藍乃は語った。
「そんなひどいことがあったなんて……」
随分と理不尽な理由だと思う。けれども、藍乃は緩く首を横に振った。
「まあ、そんなひどい言うこともないんよ。蔵王のためには結果的にはそれでよかった気もするし。せやけど、実家ものうなってしもたし、帰るところもあらへんしでね。三歳なったとこやった蔵王を抱えて途方に暮れてたところを拾てくれはったんが、実家の馴染みのお客さんやった雅世様やったんよ」
「え?」
まさかそんな経緯で藍乃と蔵王が虎月家に来たとは、全然知らなかった。
藍乃は懐かしむように目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。
「雅世様は、ほんまにようしてくださってね。うちもそうやったけど、他にもそうやって、雅世様に住み込みのアパートを用意してもろて働いてるシングルマザーの従業員さんとかも、今もようさんいはるよ」
「おばあさまがそんなことを?」
厳しく葛葉を指導してきた雅世の姿からは、想像もつかない。
けれども、現に藍乃や蔵王はそうやって雅世に守られてきたのだ。
「そんな雅世様だから、人が集まる。雅世様に恩を返したいと思って虎月堂を大事に思って勤めている職員は、一人や二人じゃないはずだよ。実際、僕もそのうちの一人だ」
蔵王の言葉に、カウンター越しで藍乃がうんうんと何度も頷いている。
「雅世様は人を一番の財産だと思っている。だから、人を育てて守ることに心血を注いできた。虎月堂はそのための箱なんだよ。本当は見守りたいけど、難しければ箱が変わっても、大事に育ててきた人を守ることができるならそれでいいって思ってるんじゃないかな」
「でも、それじゃあおばあさまは……!」
一つの企業にトップが二人いれば、よほど気が合う関係でなければ分裂は必至だ。
けれども、資本が足りない虎月堂にとって、対等な関係を結び続けることは難しいだろう。いずれは分が悪い契約となるのは目に見えている。
それがわかりながらも、大事にしてきた人達を生かすために、手段を選んではいられない。
それはわかる。でも、本当にそんな形を、皆は望んでいるのだろうか。
「……私には、自分や血縁者を切り売りするようなやり方が正しいとは思えない。どうして自分だけで抱え込もうとするの。どうして自分だけで決めるの。どうして……何も相談してくれないのよ」
呟くように、知らず知らずのうちに声が漏れ出ていた。
それを聞き取った蔵王が、くすりと笑った。
「葛葉ちゃんと雅世様は、やっぱり似てるね」
「なっ!? おばあさまと私が似てるですって?」
あんな厳しくて頑固なばあさんと一緒にされるなんて、冗談じゃない。
顔を跳ね上げて蔵王を睨みつけた。けれども、蔵王は全く動じずに面白そうに笑った。
「ねえ。母さん。葛葉ちゃんが小学生の頃に運動会のリレーで一位を取ったけど寝込んじゃった時のこと覚えてる?」
「ああ。雅世様がお仕事から帰ってきて、葛葉ちゃんの枕元にずっと座って、手ぇ握っててくれはったあの時のことやんね。疲れてはるから休んでください言うても、雅世様はうちが無理さしたんやて葛葉ちゃんの傍からひと時も離れんと看病して。せやのに、朝になって葛葉ちゃん起きる前に、仕事に行かなて。一睡もしてはらへんかったのに。あれ見てて、ほんまに血筋やわあて思たわ」
やれやれと思い出したように、ため息交じりで藍乃は語った。
「責任感が強くて、何でも自分で背負い込んじゃうところ。自分だけが我慢すればいいと思ってるところなんか、そっくりな二人だよね」
「ほんまに、誰にでも人一倍愛情深いお人やのに、身内には全然素直やないんやものねえ」
蔵王の言葉に、藍乃も深く頷いた。
(私の知らないところで、おばあさまがそんなことを)
胸が締め付けられて、息ができないほどに苦しかった。
「……ねえ、蔵王」
「何かな?」
穏やかな目が、こちらを見つめている。
それをじっと真っ直ぐに見つめながら、葛葉は言った。
「私、おばあさまに足りないものがわかった気がする」
それを聞いて、蔵王はふわりと微笑んだ。
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