第8章 それぞれの思い
第36話
『間も無く、東京。東京です』
新幹線のアナウンスを聞きながら、窓側の席に座った青年がゆっくりと顔を上げた。
窓の外には、地元では見ることのない髙さのビル群が流れていく。
夜の帳が落ちても尚、燦々と煌めく都会の夜景を眺めながら、青年はぽつりと呟いた。
「ここが、東京……」
摩天楼のごときビル街を見上げる瞳には、期待と不安が入り混じる。けれども、その奥には、強い決意の色が宿っていた。
そんな彼の手には、『大人の暮らし手帖』と題された雑誌が握られていた――
十二月も中旬に近付き、冷え込みが強くなってきたこの季節。
ひんやりとする夜風を防ぐようにジャケットの前を合わせ、錦糸町の駅を出た。
出た瞬間にぴゅうっと吹く木枯らしが、スカートの裾をはためかせる。
「はあ、さっむい」
やや小走りになりながら、目的の店『居酒屋 鈴音』に向かう。
赤ちょうちんが釣り下がる店ののれんをかき分けると、ちりんと鈴の音が響いた。
「へい、らっしゃい!」
いつも通り、大将の威勢の良い声が響き、ほぼ満席の店内には熱気が籠る。
カウンターの奥では煮炊きものをする煙が上がり、お出汁の良い香りと焼き物の炭火の香りが葛葉を迎えてくれた。
「葛葉、こっちだ」
カウンターテーブルでビールグラスを片手に、杏那が葛葉を手招きしている。
今日はオフなのか、先日とは打って変わって、ハイネックセーターにタイトなロングスカートとややカジュアルな装いだ。
葛葉がそちらへ足を向けると、女将がさりげなくコートとストールを預かってくれた。
「お疲れ様。ごめんね。遅くなっちゃって」
「構わん。先に一杯やってた」
席に着くと、杏那の前にはすでに瓶ビールとほうれん草としめじのお浸しが置かれている。
「だいぶ寒くなってきたわね。何頼んだ?」
「おでんと牛すじの煮込み。白魚の天ぷらあたりだな」
「いいところ攻めてるわね。あと、焼きネギと焼き鳥も頼みましょ」
「ああ、いいな。とろっとろの下仁田ネギとかたまらん。よし、日本酒も頼むぞ」
わくわくと顔をほころばせる杏那の横で、メニューを睨む。
「カリカリじゃこと水菜の豆腐サラダなんかもいいわね。ここって打田のしば漬け散らしてくれるのがまた美味しいのよね」
「『うちだ』って、京都の錦のか?」
「そうそう。打田のはどれも美味しいんだけどね。個人的には京の里がおすすめ。お茶漬けによし、サラダによし、パスタにあえてもよしの万能漬物よ」
「それだけで一杯行けそうだな」
にんまりと口元を緩ませる杏那に、葛葉はくすりと微笑んだ。
「日本酒でいくなら、長芋とかも美味しいかも。ちょっとワサビが効いてるから、きりっとした日本酒には合うわよ」
「それはたまらんな。よし。今度京都に行ったときに買って帰るか」
言っている間に、先付けの鶏肝の生姜煮と共にビールが運ばれてきた。
杏那とかちんとグラスを合わせ、ぐっと一口煽る。ホップの苦みと泡に喉を刺激され、すっきりとした感覚に一日の疲れが癒される。
「京都と言えば、例の件どうなったんだ?」
女将にさらさらと注文を告げた杏那が、身を乗り出してきた。
「例って?」
きょとんと眼を丸くすると、杏那が顔をしかめた。
「先日、幼馴染とやらが押しかけて来たんだろう?」
「あー」と、葛葉は苦笑した。
いきなり本題に入られるとは思っていなかった。
「うん。まあ、今日はその報告も兼ねてなんだけどね。単刀直入に言うと……その人と、付き合うことになった」
改めて口に出すと、妙なむず痒さが葛葉を少し落ち着かなくさせた。
「ほう。それはどういう風の吹きまわしだ」
興味深そうに、杏那が片眉を上げる。
葛葉はそれに、少しだけ視線を泳がせた。
「杏那に言われて、彼そのものと向き合ってみたの。彼は、昔の彼――私が好きだった頃の彼と、全く変わっていなかった。そのことを、ここ最近色々あった中で再確認したっていうか」
思い返せば、ひどい再会の仕方だった。
けれども、先日、蔵王の気持ちを初めて耳にし、葛葉もまた、初めて想いを口にした。そして、お互いに実は心が通じ合っていたことを実感した。
今でも葛葉を呼ぶ蔵王の声を思い出すと、心に柔らかで温かい火が灯る。
(こんなに心地よいものなのに、今までどうしてこの気持ちを認めることができなかったんだろう)
自分の気持ちに素直になるだけで、これほど心が軽やかになるなど思ってもみなかった。
今は、蔵王の隣に自分の居場所があると実感できる。そしてそのことが、この上なくしっくりくるのだ。
「収まるところに収まったっていうわけか」
こくりと頷くと、杏那は「なるほどな」と合点がいったように深く頷いた。
「葛葉に言い寄る男は、学生時代もそれなりにいたし、お試し感覚で一緒に出かけてみたりしてみていたこともあったな。でも、いつもお前の方がどこか心ここにあらずで、結局自然消滅してしまっていたのは、心の奥底に幼馴染の男がいたからだったんだな」
にやりと笑ってビールを乾す杏那に、葛葉は顔をしかめながら笑った。
「無意識だったけどね。でも、それだけ彼のことが、私にとって印象的で、忘れられなかったんだって、今になって思う」
「その割には、おひとりさまも随分楽しんでたようだが」
「就職してからは、ね。学生の頃はお金に余裕もなくて、生活することで必死だったから、愛だの恋だのを考える余裕もなかったし。でも、実際のところは、考えること自体をあえて避けてたのかもしれないわね」
「まあ、それはそうかもしれんな。何しろ、家を飛び出した理由が理由だ」
軽く息をつき、杏那は運ばれてきた日本酒を杯に注いだ。
葛葉はおでんの大根を箸で切り、口へと運んだ。
カツオと昆布の出汁がしっかりと奥までしみ込んだ、優しい味が口の中に広がる。
それが葛葉を、懐かしくもどこか切ない気持ちにさせた。
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