第24話

 蔵王は東京駅から、そのまま品川駅へ向かうと、ホテルに併設された水族館へと足を踏み入れた。

 ブラックライトと光が織りなす空間は、どこか幻想的で異世界を感じさせる。

 指定されたクラゲ水槽の前に立っていると、少し離れた場所にその人は来た。


「やあやあ。りんちゃん。急に呼び出してどうしたのかな?」


 たゆたうクラゲを見上げながら、ガラス越しに映る女性に声をかけた。


「蔵王さん。雅世様のお言いつけ、お忘れになったわけではないですよね?」


 窓ガラス越しに映るのは、肩までの黒髪を持つ、華奢きゃしゃな女性だ。

 見る者が見れば、紫陽社の総合案内の受付嬢だということがわかるだろう。

 名を後藤稟ごとうりんという。年は二十歳だ。名前だけでなく年齢も把握しているぐらいには、蔵王はこの女性のことをよく知っていた。

 なにしろ虎月堂に就職して以来、雅世の側で幾度となく顔を合わせている娘だ。

 稟は雅世の側近の一人であり、蔵王のお目付役なのだ。

 会社の経営はともかく、葛葉との関係性については、雅世が蔵王を完全には信用していないことは、以前からわかっていた。幼い頃とはいえ、二人の距離が随分と近かった自覚はある。警戒されても致し方ないことだと思っている。

 だから、蔵王が葛葉の帰省を説得するために東京に向かうことになった時、「何なら監視役でも付けますか?」と冗談交じりに言ったところ、あてがわれたのがこの稟だった。

 それもあって、進捗状況の報告のため、定期的に情報交換していた。

 けれども、今は定期報告のタイミングではない。

 それにもかかわらず連絡してきたということは、おそらく、昼間のカフェでの一件を、どこかから見られていたのだろう。


(稟ちゃんが会社の受付に立ってる時間を見計らって、外に出たつもりだったんだけどね)


 偶然なのか何かはわからないが、随分と職務に忠実なことだ。


(どうしてこんなに必死なんだか)


 葛葉を京都に連れ戻すのは、虎月堂の経営に参画させたいためだと聞いている。

 実際、ここ最近再び、虎月堂の経営は傾きつつある。そのために、雅世が何らかの対策を講じていることは間違いない。

 蔵王としては、すべてを社長に任せて待っているだけでは、虎月堂に就職した意味がないと思っている。そんな人形のような部下になるつもりはない。

 けれども、それ以上に、どうも蔵王が知らない事情がありそうだ。

 とはいえ、今は稟を……そして、その裏にいる雅世を納得させる必要がある。


「もちろん。忘れるわけないよ」


 振り向くこともせず、ポケットに入れたスマホを取り出し、のんびりと操作をしながら蔵王は答えた。

 親密な様子を他者に見られるメリットは、お互いない。それを稟もわきまえているのだろう。蔵王のそっけない仕草に頓着することなく、言葉をつづけてきた。


「葛葉様と、随分と親しげなご様子でしたが」

「おやおや。任務を忠実に実行している部下に対して、随分と勘ぐってくれるね」


 やっぱり見ていたかという言葉はおくびにも出さず、蔵王は悲しそうに首を振りながら肩をすくめた。


「それだけならばよいのですが。よもや、葛葉様に懸想されているわけではありませんよね?」

「そんなことあるわけないでしょう」


 胸の奥がわずかに痛むのを抑えて、くすりと微笑んだ。


「そうですか。では、私の勘違いだったようですね。でもよかった。私、蔵王さんのことを、憎からず思っておりますので」


 稟がそんなことをさらりと言うのに、蔵王は目を細めた。


「へえ。それは光栄だね。だけど、あまり見え透いた嘘はつくものじゃないよ? 稟ちゃん」


 すると、稟はそこでわずかに笑って、ぺこりと頭を下げた。


「冗談ですよ。失礼しました。それでは、引き続きよろしくお願いいたします」


 稟は静かにそう言うと、暗闇の中に消えていった。


「本当に、何を隠してるんだろうね」


 後に残った蔵王は、スマホをポケットに戻すと、渋い顔でじっと稟の消えていった闇を見つめた。

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