第14話



 一通り作業を無事に終えた頃には、もう十時を過ぎていた。あとはデザイナーさんからの返事を待ち、明日の朝に編集長からの最終チェックを受けて入稿するだけだ。

 ミーティングルームを借りて作業をして時間を潰していた蔵王と合流し、一緒に会社を出る。

 そして、だいぶ乗車率もまばらになってきた電車に乗り、錦糸町駅へと向かう。

 一緒に帰るなんて、間が持つだろうか? とも懸念していた。

でも実際は仕事の疲れからか、頭が回らない。車内の暖気にぼんやりとしてしまい、話題探しをする余裕などなかった。

 蔵王もまたそんな葛葉の様子を察したのか特に話しかけてくることもなく、互いに黙したまま電車を降りた。

 この時間でも錦糸町の駅前はまだまだ明るく、人の出も多く賑やかだ。

 煌めくネオンの鮮やかな色を見つめていると、徐々に気持ちが仕事モードからプライベートモードへと切り替わってくる。疲労困憊していた脳内も、やっと回り始めた。


「こっちよ」


 目的の居酒屋は、駅から自宅マンションに向かう道程の、ちょうど間くらいに位置している。

 大通り沿いに道を進み、大型ショッピングビルを通り過ぎ、少しずつ周囲が静かになり始めたあたりで小道に入ると、そこに「居酒屋 鈴音」という暖簾を掲げた小さな店があった。

 扉を開けて暖簾をくぐると、扉に付けられた鈴の音がちりりんと鳴る。同時に、「へい、らっしゃい!」という店主の威勢の良い声が飛んできた。


「おう、いつもの姉ちゃんじゃねえか! 今日は遅かったな! 仕事、お疲れさん!」

「ありがとう。今日は二人なんだけど、席空いてる?」

「カウンターもテーブルも、今ならどっちでも空いてるぜ!」


 適度に人が入った店内を見渡すと、一番奥のテーブル席が空いているのが見えた。 


「じゃあ、テーブルで」


 そう言って蔵王と二人で奥の席に向かう。

 自宅マンションから近いこの店には、杏那と連れだって飲みにくることもあれば、夕飯代わりに一人で訪れることもある。いわゆる、店主に顔もよく知られている常連というやつだ。とはいえ、例えこうして男性を連れてきたところで、何も野暮なことは言ってこない。店主はいつも通り、元気いっぱいな笑顔を向けてくれるだけだ。  

 そんな気楽さが、葛葉は気に入っていた。

 コートを脱いで着席する。すると、和装の上に割烹着という姿の女性店員が水とお通しのたこワサビを運んできてくれた。「ごゆっくりしていってください」と会釈して微笑む様子は、楚々としてどこか儚げだ。


「今の清楚な女の人、店主の奥さんなのよ。店の名前も、奥さんの名前からとったんですって」

「へえ、豪快な店主さんと、大人しそうな奥さんで、きっといい感じにバランスがとれてるんだね」

「確かに、そんな感じね」


 そんな他愛もない会話が心地よい。実家のしがらみやいさかいといった面倒なものなど、何も無かったかのようにすら思えてくる。

 瓶ビールを頼んで乾杯し、一息に煽ると、その心地良い苦みが身体に沁みわたる。

 身体に回るお酒の力もあるのだろうか。蔵王に対する警戒心のようなものが、ゆるりと抜けていくような気がした。


「なんか不思議だね」


 じっとこちらを見つめながらそんなことを言ってきた蔵王に、葛葉は「え?」と、きょとんとした目を向けた。


「いや、葛葉ちゃんとこうやって、お酒を飲んでるっていうのがさ。昔は一緒に並んで飲むものといえば、お茶かジュースくらいだったでしょ」

「そりゃあ、子供だったし」

「うん。それが今となってはお互いこんなに成長してさ。なんか、不思議だなあって」

「言われてみれば、確かにそうね」

「こういうのって、いいね」


 笑う蔵王の顔は、記憶の中に在る優しい笑顔と、何も変わっていないように見える。


(久しぶりに会った幼馴染と再会できた。これは素直に嬉しいこと)


 今、この時間は何のしがらみも感じず再会した日のやり直しだ。

 そう思えば、話題も自然と口から出てきていた。


「……二十年、くらいよね。蔵王が家を出てから」

「そうだね。それくらいかな」

「この二十年、どうしてたの?」


 店主の奥さんが運んで来てくれた、炭火で炙ったホッケの干物を上手く切り分け、口に運びながら、蔵王は「んー……」と少し考え込んだ。


「勉強に部活に、それなりに忙しくしてたよ。ちょうど中学受験のタイミングで、母が大阪店に勤めることになったから。雅世様の計らいで、大阪の私立進学校に通える事になってね。そのまま高校にも進学して……K大学を受けたって感じだよ」

「K大って……凄いじゃない」


 それだけ高学歴ならば、就職先も色々選択肢があっただろうに。何故あえて虎月堂に入ろうと思ったのか。

 その辺りのことを詳しく聞きたい気持ちもあった。でも、ここで虎月堂の名前を出したくないという気持ちが勝ってしまった。


「まあ、元気にしてたみたいなら良かったわ」

「そういう葛葉ちゃんはどうだったの? 葛葉ちゃんこそ、T大学でしょ? すごく頑張ったんだろうね」

「よく知ってるわね。私の動向を探ってた人にでも聞いた?」

「うん。こっちに派遣される時に色々聞かされたからね。とはいっても、簡単な経歴くらいだよ」


 蔵王は隠すことなく頷いた。それに「やっぱりおばあさまからの情報ね」と苦笑しながらも、あえて突っ込むことはやめた。


「まあ、授業以外の時間は、学費稼ぐためにもバイトばっかりやってたから。サークルにも一応参加はしてたけどろくに活動も出来てないし、あまり華々しいものではなかったわね」

「慣れない土地で、仕送りも無しに学生生活を送るって、かなりの覚悟と根性がないと出来ないことだよ」

「家出同然で出て行ったしね。当然実家は頼れないし、頼る気もなかったんだけど。我武者羅にやってれば、意外となんとかなるものね」


 実際、学生時代はそれなりに大変だった。何しろ徹底したお嬢様教育は受けたが、一般的な生活の知識はほとんどないに等しい。家を探したこともなければ、バイトを探したこともない。保証人を付けることも出来ない。そんな中で、すべてが一からの経験だった。

 今思えば、いい社会経験と思い出だ。

 葛葉はくすりと微笑んだ。


「うん。本当に……何もない中で色々と辛かったろうに。よく頑張ったね」

「……ありがとう」


 何故だろう。胸の奥がじんわりとあたたかくなった。


(きっとお酒のせい……よね)


 そう思わないと、蔵王の顔が直視できなくなる気がした。

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