アナグラ:バックビート

亀野 航

イントロ

イントロ

       *


 わずか一時間ほど前に下した自らの判断を、密かに後悔し始めていた。

「ちょっ! いやそれは困るってリクさん! こっちはあんたの助けを借りる算段で、完全にそのつもりで……それじゃ予定狂っちまうよ!」

 携帯端末を耳に当てた男――ほんの一時間ほど前、自分を助けてくれると言ってのけた二十代ほどの男が、そのときの自信たっぷりな顔をどこへやったか、哀れな泣き言をあたふたと撒き散らしていた。縮れた癖のある髪をたわしみたく伸ばし、暗緑色のくたびれた上着で白シャツをまとうこの人物に、狭山さやま黎司れいじはついさっきをしたばかりだった。

「なあ、らしくもない冗談よしてくれって。俺とあんたの仲じゃん?」

 おろおろと足踏みをするように歩きながら。だらしのない声で口説きに掛かる。電話の相手の言葉は聞き取れないが、やかましいっ、という怒鳴り声だけは分かった。響きが標準語とは違う。関西弁にも聞こえた。

 聞き苦しい押し問答はしばらく続きそうだった。重い溜め息をつき、黎司はそこで初めて、自分が連れてこられた場所の内装を、じっくりと観察し始めた。

 喫茶店か、はたまたバーか。夜も遅い時間に、オレンジ色の照明がろうそくの火みたく灯っている。建物の左にあるドアから入ったちょうど対角線上の端に、カウンターと五つの椅子が備え付けられ、そのカウンターを挟んだ中と外に、それぞれ店の奥へ続く出入り口がある。テーブルは、ドアから見て右側に一つと、左側に壁に沿う形で三つ。今、黎司はその三つのうちの、ドアに最も近い一つの席に座らされていた。

 室内には、自身と目の前の男の他にも人がいた。二人。

 まず、カウンターの隅に立って寄りかかる、長身の男。のれんのようにまっすぐ下りた髪が印象的だった。歳は、今自分の傍らで電話をしている男と同じくらいか。端正な顔立ちは無愛想にまとめられ、猛禽類を思わせる鋭い目付きが、近寄りがたい威圧感を放っていた。細身の体を薄手の灰色のシャツで包み、片手をジーンズのポケットに突っ込んで、空いた方の手でつまらなそうに端末を操作している。

 そして店の一番奥のテーブルの、四つある椅子のうちの一つに座っていたのは、十代ほどと思しき青年。頭のてっぺんの、まるで生き物のように伸びた一本の毛が目を引く。見たこともない珍妙な道具――玩具にも見える――を覗き込み、科学好きの小学生が自由研究でもするように、ドライバー等の工具を使ってちまちまといじっていた。時折、電話をする男に呆れた面持ちで目をやっている。そんな彼の顔立ちは、歳相応の子どもらしさをほのかに宿しながらも、やや大人びて見えた。

「あっちょまっ……!」癖毛の男の叫び声がした。振り向くと、彼は耳から離した端末の画面を呆然と見下ろしていた。あまりにもいたたまれない。男はがっくりと肩を落としたのち、荒々しく咳払いをすると、気まずそうなしかめっ面でこちらを向いた。

「まあ、その……そういうことだ」

 どういうことだ。

 黎司は頭が痛くなっていた。本当にこの男、延いては彼が率いるというで大丈夫なのか。男はむすっとした表情を、何とか余裕のある笑顔につくろった。

「心配すんな金髪。……いやまあ無理だと思うが心配すんな。俺たちが何とかするから。だから依頼取り下げとかしないで。頼むから。そんな冷たい目で見ないでお願い」

 幸先は最悪だった。

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