僕の母
星織
第1話 僕の母が亡くなった
初秋、携帯に母が亡くなったと連絡がきた。
病院に見舞いに行っていた妹からのメールだった。世界が、静かに感じた。
母はここのところ体の調子が悪くなり、1ヶ月前から入院していた。
僕と妹は2人兄妹で、母の体調が悪化した1週間ほど前から、交代でお見舞いに行くようになっていた。
朝日が登り、社会が動き始めた頃、病院に来た妹と交代し、僕は家へ帰宅した。母が、いつ亡くなるか分からない緊迫感と生活習慣の乱れからの疲労感で、お腹の空きはなかったが、とりあえず軽い朝食の準備にかかった。瓶に入っている粉のインスタントコーヒーを2杯、クリーミングパウダーを2杯、角砂糖を2、3個。母が昔作ってくれたコーヒーが、一人暮らしになってもそのまま好きで飲んでいる。ふと見ると、コーヒーの粉が切れた。
「買いに行かなきゃな…」
その時だった、妹からの連絡だった。
『お兄ちゃん、急でごめん。たった今、お母さんが息を引き取った。』
『今から来れる?』
電話でなくてよかった。ヒュッと息を吸い込む音と共に膝から崩れ落ちた。
目の前がチカチカとなり、すぐに返信できなかった。
「今から向かう。」
と返信だけし、コーヒーを一杯飲んだ。
ついに亡くなってしまった。女手一つで2人の子どもを育てた。いつも、お金がなくてごめんねと謝っていた。小柄で元々華奢な体が病気によってより小さく見えた時は、そのまま逝ってしまうのではないかと、勝手に焦り家で一人、泣いた。入院してからは、窓側のベッドからいつも空を見上げていた。
「今日は青空。天気がいいねえ。」
「今日は曇ってる、頭痛がしそう。」
毋は昔から、気圧が下がってる時や雨や曇りの天気が悪い時は頭痛がすると、市販の鎮痛薬を内服していた。母曰く、命の次に大事なものと冗談っぽく言っていた。最近は目を開けることもなくなり、問いかけにも応じなくなっていた。
「母さん、このまま逝ってしまうのか…?」
「お母さん、どうか一度だけでも、目を覚まして…お願い…」
妹とそう、願っていた。
突然の訃報は、僕に動悸を起こさせた。ドッドッドッドッと激しく心臓がうるさい。“悲しい”その感情の前に感情の整理ができなくて汗が流れる。冷や汗なのか、脂汗なのか分からないが。感情を整理させる前に、無にして動き出した方が楽なのか……?冷静になろうと色んな考えが脳を駆け巡る。
すると、コトン……………と後ろで音がした。
「?」
後ろを振り向く。フローリングの床に鍵が落ちている。小さな鍵。玄関の鍵ではない。
「なんだ、この鍵…」
鍵を拾う。どこかで見たことがある。小さい頃、母の部屋で。
************************************
病院までタクシーで行き、病室まで走った。
「どこかで見たことあると思ったんだ、この鍵、母さんの大事な日記の————」
ドアは開きっぱなしになっていた。妹が赤く腫れた目で僕を見た。
「遅い。」
「ごめん。これ。」
なんとなく、握っていた鍵を見せた。
「知ってる?この鍵。」
「なにこれ?私知らないよ?」
知らない?見たこともないのか?
「母さんの部屋に入ったことないのか?母さんが大事な日記をしまっていた引き出しの鍵。」
妹の様子を見る限り、本当に見覚えがなさそうだ。
「部屋に入ったことはあるよ。でも、大事な日記?日記を書いてるのなんて見たことないよ。引き出しに鍵がかかってるのなんてもっと知らない。」
なぜ、僕だけが知ってるんだ?なぜ、僕だけに日記を書くその姿を見せていたんだ?
不思議に思い考えていたところを妹の声が遮った。
「今はそれどころじゃないよ!やらなきゃいけないことが私達には沢山あるんだから!」
そうだった。悲しみに暮れる前に、残された僕達にはやることが山積みに残されているのだ。母の顔を見ようと布を軽く浮かす。とても安らかな優しそうな顔をしていた。
母の葬式後、僕は実家に戻ることにした。
高校を出て就職し、ある程度の貯金が貯まったのち、生活力を身に付けようと一人暮らしを始めたが、現在妹しか住んでいないということと、部屋も余っていることから妹に戻ってこないかと提案された。
今までの部屋から退去するため、引っ越しの準備を進めていた。
その頃になると、色々と冷静になり、母が亡くなった日のことを思い返すようになっていた。あの鍵が落ちた時、動悸で冷静になれなくなっていた時、鍵の落ちた音で一気に現実に戻され、気づけば体の不調など目もくれず鍵と日記のことにだけ考え、脳を支配されていたように思う。
なぜあの鍵が僕の部屋にあったのか。母は僕の部屋に来たことがない。鍵や日記の存在を知らなかった。僕はあの鍵を触ったのはあの日拾った時が初めてだった。なぜあったかを考えるとキリがないが、母が「落ち着いて」とでも言ってたのではないかと思うことにした。
ピンポーン————
ガチャリとドアが開く。
「おかえり。」
と妹が顔を出す。
「ただいま。」
靴を脱いで中に入る。
懐かしい匂いが体に纏う。かすかに母の香りもした。
「お母さんの部屋は、そのまんまにしてる。掃除機かけたりはしたけど、壁のものとか、積んであるものはそのまま。お兄ちゃんが好きに使ったらいいよ。」
「————ナツキは?」
「私は私の部屋があるもの。もう十分。ま、お兄ちゃんの部屋もそのままだけどね。」
妹のナツキの名前は僕がつけた。母が妹を抱えて帰ってきた時、母が
「この子はあなたと血の繋がった妹、あなたが名前をつけてあげて。」
今思うと母は妊娠していなかった。ある日突然赤子を抱え帰って来た。
僕は、当時6、7歳だった。子どもながらに理解していた。妹が知っているかは分からない。けど知らないままでもいいと思った。母と妹と質素ながらに幸せだと思い暮らせるなら。
母は僕達を養子として育てたのかもしれない。血の繋がりが全然がなくて、全くの他人だけど、愛情をたくさん注いでくれていたのかと思うと、温かくて感謝してもしきれない。幸せを知ることができた。
あまり、人の日記を見るのを見る気は起きないが、鍵を落とされた手前、見てみようと思った。
トントントンと階段を上る。母の部屋の前に立つ。
なんか緊張する……
「失礼、シマス………」
ナツキが先に換気をしていたのか窓が開き、カーテンがひらひらと揺れる。
母の部屋は小さな図書室のようだった。大きな本棚に本がたくさんあって、入りきらないものは床に積まれていた。当時見た机もそのままだった。鍵が合うのか、手に汗が滲む。
鍵を差し込んでみる————
———— ———— ————開いた。
スッと引き出しを開けると、分厚い日記が一冊。
「間違いない、この日記だ。」
ゴクリ、と固唾を飲む。
コンコンコン
ドアをノックされ、心臓が跳ね返った。
「ビッックリした……」
「お取り込み中失礼、お母さん特製ホットミルクでもお供にどうぞ?」
母のホットミルクは牛乳を温めたものだはない。クリーミングパウダーを2杯、角砂糖を2、3個入れお湯で溶かした飲み物だ。甘く美味しい。母は牛乳が苦手だった。
「ありがとう…」
「これが日記?実物を見ても見覚えがないわねえ。下にいるから何かあったら呼んでね。」
「わかった。」
ナツキが去り、一階でTVをつける音がした。TVの音とともにナツキの笑い声も聞こえる。
ホットミルクを一口飲み、日記を開いた————
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