激情の獣
志央生
激情の獣
頭にのぼっていた血が引いて、冷静さを取り戻したとき妻は目の前に倒れていた。いつから力を込めていたかわからない右手が脱力して、持っていた真っ赤な包丁を落とす。フローリングに跳ねた音がする。
激情していた心は落ち着き、湧いていた頭も冷めている。妻を刺したのは自分であり、どこを刺さしたのか、どんな感触だったのかも覚えている。言い訳などできないほど自分に非があることは明白だった。
「浮気していたのね」
数分前の妻の言葉を思い出す。机の上に並べられた証拠と離婚届。私を軽蔑する眼差しは顔を下に向けていても感じ取れるほどだった。
「これは、たまたまで」
苦し紛れの言い訳を話そうとしたが、彼女は遮るようにして離婚届を私の視界に押し入れてきた。
「理由なんてなんでもいいの。結果としてあなたは浮気をしていた。それさえあれば別れるには十分よ」
そう言ってボールペンを渡してきた。何を言っても聞く耳を持ってくれそうにない妻に私は負け、離婚届にサインしていく。
「今回の離婚の原因はあなたの浮気。だから、慰謝料請求をさせて貰うわ」
妻はそう言って席を立った。足どりの軽そうな姿を見て、私の中に今までに溜まっていた不満が沸々と湧き上がっていた。判子が手元にないため取りに行こうと立ち上がったとき、キッチンの包丁が目に入る。衝動的な感情に負けそうになるが、冷静になって押さえ込む。
判子を取って再び部屋に戻ると彼女が入り口に立っていた。そして、こちらにゆっくりと近付き包丁を振り上げてきたのだ。
突然のことに驚きつつも、彼女の手を押さえる。私のほうが体格的に勝っており、力で負けることはない。彼女の足元を払い床に倒す。それと同時に彼女が手放した包丁が床を滑っていく。
なぜ、彼女がこんな暴挙に出たのかがわからなかった。離婚することはでき、慰謝料も手に入る。なのに、私を包丁で刺そうとした。そんなことをすれば妻のほうが罪に問われる。誰だってわかる簡単なことのはずだ。
私は妻から離れて包丁を回収する。さきほど自分が襲われたように彼女も感情に飲まれてしまったのだろうか。そう思いながら、手に持った包丁を強く握る。
床に張り付く足音に振り返ると、妻が私に飛び込んできていた。その顔は鬼気迫るもので、私はとっさに手を出して防ごうとする。突き出した手に包丁があることを忘れて。
再び自分の目の前に転がる妻を見る。彼女から流れ出た血が私の中に溜まっていた不満を形にしているように見えた。
激情の獣 志央生 @n-shion
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