第137話 アクアリウムを抜けて

 

「!」


 水の流れる壁に向かって踏み出した足は、壁を突き抜け––––地面に着地した。


 そこを足場に、そのまま半身だけ壁を通り抜ける。


 一瞬で、景色が変わった。


「これは…………」


 俺は絶句した。




 遥か頭上から、光がちらちらと降り注いでいる。

 小さな魚の群れが横切ってゆく。


 そこは湖の中だった。

 水を押しのけ、数メートル先までできた水の回廊。


 自分が立っている足場も水が固まってできたものらしく、足のずっと下の方で水草が揺れていた。


 おそらく、自分たちが進むと、それに応じて道ができてゆく仕掛けなのだろう。


 俺は、半身を戻した。




「大丈夫ですか?!」


 視界が祭壇の間に戻ると、目の前に不安そうにこちらを見るエステルがいた。

 彼女に、笑って答える。


「ああ、大丈夫だ。行けるよ」


「よかった……」


 ほっとした顔で胸をなでおろすエステル。

 可愛い。


 俺は今度は他の仲間の方を向いた。


「問題なさそうだ。行こう」


「げ……そんな怪しいとこに入るのかよ」


 嫌そうな顔をするカレーナ。


「さっきまでのアレの方が、よっぽど怪しいだろ?」


 俺はあごでラムズが消えたあたりを示す。


「目に見えるものはいいんだよ。先が見えないのは、なんかイヤなんだ」


 珍しく不安そうな顔をするカレーナ。

 まあ、気持ちは分かるがな。


「仕方ないな。エリス、カレーナと手を繋いでやってくれ」


 いきなり話を振られた天災少女は「えっ、私?!」と戸惑ったが、


「仕方ないなー。はい、一緒に行ってあげる」


 カレーナに手を差し出した。

 その手に彼女は、


「えっ……とぉ……」


 しばらく壁と手の間で視線を彷徨わせたあと、


「…………ごめん」


 結局エリスの手を握った。


「いいのよ。苦手なものは誰にでもあるわ」


 微笑むエリス。

 なんだかんだ面倒見がいいんだよな、こいつ。


「よし。それじゃあ行こうか」


「いくけぷよー!」


 ひだりちゃんが俺の頭に飛び乗る。

 そうして俺たちは水の回廊へ……出口に向かって踏み出した。




 水面から降り注ぐ光がゆらゆらとそのカーテンを揺らし、湖の中を照らしている。


「きれい……」


 水の壁の向こうを泳ぐ魚たちを見ながら、隣のエステルが呟いた。


 その横顔は、まるで水の妖精だ。


 思わず口まで出かかったくさいセリフを飲み込み、ただ「うん」とだけ相づちをうつ。


 俺たちは今、緩やかな水のスロープを上って、水の上を目指している。回廊の幅は、大人が二人並んで歩けるくらい。

 先頭を行く俺の隣には、もちろんエステルがいる。


「ボルマンさま」


「ん?」


 エステルが俺を見た。

 俺も、彼女と視線を合わせる。


「助けに来てくださって、ありがとうございます」


「…………当たり前だろ」


「ボルマンさまと皆さんが来て下さらなかったら、今ごろわたし……」


 そう言って俯くエステル。


 君が落ち込むことない。

 君は被害者なんだから。


 そんな陳腐な言葉が出そうになる。だけどそれじゃあ彼女の無力感は拭えないだろう。

 だから代わりにこう言った。


「僕も、君にお礼を言わないと」


「え?」


「エステルがいなきゃ、僕は間違いなく死んでたよ」


 目を見開くエステル。


「だから、ありがとう」


 そう言って微笑むと、彼女はしばらく考えて、


「…………はい」


 ぎこちなく微笑んだ。




「…………」


 互いに次の言葉が見つからず、なんとなく黙ってしまう。

 しばらくして––––


「約束……」


「えっ?」


 エステルの言葉に、思わず聞き返す。


「犯人の人たちに捕まっているあいだ、あの日の約束を思い出していました」


 何を、とは訊かない。

 俺と彼女だけが分かる約束。


「ボルマンさまがきっと助けに来てくれる。––––あの時の約束が、わたしを支えてくれたんです」


 その言葉が、少しだけ胸に刺さった。


「『必ず幸せにする』って約束したのに、君を危険な目に合わせちゃったな」


 俺の言葉に、彼女は慌てて首を振る。


「ちがいます! あれはボルマンさまの責任ではありません。彼らはわたしとカエデを拐かすため、入念にわたしたちを調べあげていました。ボルマンさまに落ち度はありませんよ」


「いや、僕は……僕だけは気づけたはずなんだ。あいつらの危険性について。せめて用心をしておくべきだった」


 遺跡の伝承を調べている。

 それを知った時点であいつらの素性を洗うべきだった。俺にはゲームの知識があったのだから。


 つい、後悔を口にする。

 そんな俺に、エステルは、


「……いいではありませんか」


「え?」


 彼女は顔を上げ、微笑とともに頭上を舞う光を見上げた。


「彼らに拐われているとき、素敵なホールと建物を通ったんです。頭の上に魚たちが泳ぐ、きれいな場所でした」


 彼女が言っているのは、きっと水天の間と神殿の入口のことだろう。


「そのとき強く思いました。『となりにボルマンさまがいてくれたら。ボルマンさまといっしょに来ることができれば、どれだけ幸せだっただろう』って」


 エステルがこちらを振り返った。


「わたし、今、しあわせです」


 花咲くような笑顔。

 その笑顔に思わず破顔してしまう。


「僕もだ」


 たがいに笑い合う。

 すぐ側を、小さな魚な群れが泳いでいた。




 十分ほど歩いただろうか。

 頭上にあった水面が割れ、夕暮れの空が顔を出した。


「ここは……!」


 目の前に現れた景色を前に、エステルが感嘆の声をあげる。

 俺はその言葉を引き継いだ。


「テルナ湖の湖畔、だね」


 目の前には、半年前に彼女と語り合った、あの巨大な岩。

 湖は夕暮れの朱に染まっていた。


「お、おおっ?!」


 最後尾のジャイルズの声。

 つられて振り向くと、ゴポゴポと音を立てて水の回廊が沈んでゆくところだった。


「これもユグナリアの力なのかしら?」


 目の前の光景に見入ったまま、エリスが呟く。


「もちろん、ママの力けぷよ☆」


 得意げに宙を飛び跳ねるひだりちゃん。


「そ、そう……」


 エリスは顔を引きつらせながら応える。

 どうやら彼女の『苦手なもの』は謎生物のようだ。


 その時––––


「––––––––!」


「––––!!」


 遠くから、何やら人々が叫びあう声が聞こえてきた。


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