第75話 リスク
テルナ川。
ローレンティア王国東部を流れる大河川で、川幅は中流域で二百〜三百メートル、下流域では一キロに及ぶ。
西岸の人間の勢力圏である「狭間の森」と、中〜高レベルモンスターの棲家である東岸の「魔獣の森」を、物理的に隔てる境界線だ。
流域は、本来であれば水運が発達してしかるべき地形なのだが、人々は魔獣の森の魔物を恐れ、この川に近付こうとしてこなかった。
人間がこの川に関わるのは、年に一度。
雪解けの頃に行われる「魔獣の森の間引き」の時期だけだ。
間引きは、三月の頭から約一ヶ月かけて行われる。
国から付託されたテルナ川流域の五つの領主家が、それぞれの領地の対岸に討伐隊を送り込み、魔物を狩ってゆく。
この国が建国された三百年前から行われている行事で、人類は魔物の大暴走(スタンピード)を防ぐため、途切れることなくこの間引きを続けてきた。
「『魔獣の森の魔物は、テルナ川を渡らない』。毎年間引きをされている伯爵ならよくご存知でしょう」
俺がやんわりと問うと、伯爵は顔をしかめた。
「確かに、普通の魔物は『魔獣の森』から一歩も出てこない。ワイバーンのような飛行型の魔物を含めて、な。だが狂化した個体は別だ。やつらは川を渡り、街や村を襲う。商船が狂化個体に襲われたらどうするつもりだ?」
「どうもしませんよ」
「……どうもしない、だと?」
こともなげに返す俺に、絶句するフリード卿。
「はい。気配遮断のスクロールを用意しますが、それで対処できなければ、打つ手なしです」
気配遮断の封術は、発動位置から半径一メートル程度の範囲の、臭い、音、光を遮断する。
結果、発動位置に黒い半球状の空間が現れることになり、人間が見れば怪しいことこの上ないのだが、知能が低く本能で行動する類の魔物にはかなり有効な防衛手段である。らしい。
クリストフによれば、魔獣の森の間引きでも必須の封術なのだとか。
そのスクロールは非常に複雑で、作成にも封術への相当な理解と手間が必要なことから、お値段も非常に高価。
ぶっちゃけ貧乏人の俺は、発動している様子を見たことがない。
「つまり、被害を覚悟で交易を進めるということか」
伯爵は深く考えるように目を細める。
「違います。…………と、までは言えないですね。リスクを取って、リターンを得る。通常の商いや戦におけるあり方と、全く同じですよ」
「同じではないだろう。あまりに危険な賭けだ」
「そうでしょうか?」
「そうだ」
伯爵と俺の視線がぶつかり合う。
この世界の感覚では、魔獣の森に隣接して流れるテルナ川を水運に使うなど、あり得ない話なのだろう。
それはきっと三百年前の魔獣の大暴走が原因だ。
旧王国東部全域を飲み込み、王都を全壊させた大暴走。その恐怖が、口伝で、戯曲で、絵画で伝えられている。
国民の心の深いところに、いまだ魔獣の森への恐怖が刻まれているのだ。
実際、オルスタン神聖国の呼びかけによるオルリス教国家連合と、その支援を受けたローレンティア建国の父、英雄王と呼ばれた何某の反攻がなければ、この国は人の住まない土地になったと言われている。
だがまぁ、それはそれだ。
残された時間は四年足らず。
短期間に我が領を発展させ、魔獣の襲撃に備えるのなら、使えるものは使わないと間に合わない。
俺は、この提案の第二段階に入った。
「ちょっと切り口を変えてみましょう。例えば、貴領では積極的に外国と貿易をされてますよね」
「ああ。我が家自体も商船隊を持っているし、領内にも商船を保有する商会は多数ある」
頷く伯爵。
「船で外国と貿易をしようとすると、それなりの期間、それなりの距離を航海する必要があります。ですが、航海中に天候悪化や魔物・海賊などの襲撃で無事に帰って来れない場合も、当然あるのではないですか?」
「……何が言いたい」
目の前の海賊伯は、話の流れを理解したようだ。
ここで相手の想定内の話しかできなければ、交渉の主導権を握ることはできない。
大丈夫。
この提案のために、ちゃんと準備してきた。
こっちにはオネリー商会の会頭がいるんだ。
負けてたまるか。
俺は、懐から紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
その場の全員が、紙を覗き込む。
そこに描かれているのは、王国の北辺が面しているナイセット海を中心とした広域図。
フリード伯爵領フリーデンの街から各国に矢印が引かれていて、それぞれの矢印の下には、ある数値が書き込まれていた。
「私が調べたところ、ナイセット海の中心に位置するオルスタン神聖国への貿易船の未帰還率は約五パーセント。海を挟んで北にあるヴェンス共和国への船は八パーセント。同様に、西方のタラント公国が二十、北東の島国ブルターナ・イルラ連合王国への船に至っては、三割が帰って来ないとか」
ペラペラと喋る俺に対する伯爵の最初の反応は、驚き。
そのあとは段々苦々しげな顔になっていき、やがて話し終わったところで、不機嫌そうに口を開いた。
「よく調べているな。もっとも連合王国は、近年のエルバキア帝国との小競り合い激化で未帰還率が四割を超えているが…………概ねお前の言う通りだ」
「古い数字で恐縮です」
なんせ、旧オネリー商会が営業していた頃の数字だしね。
苦笑いする俺に、伯爵が反撃を仕掛けてくる。
「確かに、外国との貿易はハイリスク・ハイリターンだ。テルナ川を利用した水運での交易も同じだと言いたいのか? 言っておくが、海外貿易のリターンは莫大だぞ。護衛含め五隻の商船団でも、一隻帰ってくれば十分利益が出る。たかだか国内の交易とは訳が違うわ」
片頬を引きつらせて笑う海賊伯。
さすがに話が早い。
だけど、その予想も裏切って差し上げませう。
「そうですね。……と、言いたいところですが、私の主張はちょっとだけ違います」
「どう違うと言うのだ」
「テルナ川交易は、ローリスク・ローリターンにできる。……それが、私の主張です」
言い切った瞬間、部屋になんとも言えない空気が漂った。
その空気を代表して、正面のエリスが顔をしかめながら呟く。
「ローリスクって……正気?」
失敬な!
「正気も正気。いたって真面目ですよ、僕は」
俺は、エリスに苦い顔をしてみせた。
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