第167話 幼馴染みと後輩と友人と
南国らしい明るく開放的なホールに、軽快でそれでいて重厚なピアノの旋律が流れている。
ポーランド生まれの偉大な作曲家であり、ピアノの詩人と称されたフレデリック・ショパンが、協奏曲を演奏するための練習曲として作曲した作品群。その中でも難曲とされている
その速くて複雑な運指が必要でありながら情緒的な演奏までが求められるという、プロでも難しいと言われる曲を見事に弾きこなしているのは、まだ年若い、というか、黎星学園芸術科音楽学科2年生の華音である。
普段は無表情でどこか気怠そうな態度の変わり者だが、今はどことなく浮かれているような、楽しそうな雰囲気で鍵盤を叩いている。
そんな彼女の後ろで演奏に耳を傾けているのは同じ年頃の男女と小さな女の子の3人。
年若い彼らにとって、クラシック音楽の鑑賞などは退屈に感じるのではないかとも思うが、そこはそれ、やはり生演奏というのは迫力が違うらしく、感心したような、あるいは聞き惚れているような様子だった。
「すっげぇなぁ! やっぱ楽器ができるのってカッコイイよな。俺もギターとかサックスとか練習してみようかな」
「うちの学園、芸術科は全国から才能ある人を集めてるって聞いてましたけど、本当なんすね」
「お姉ちゃん、スゴイ! カッコイイ!」
ギャラリーからの手放しの賛辞に華音もご満悦のようで、鼻を膨らませてドヤ顔をしている。
「ウチ、カッコイイ」
調子に乗って
せっかく友人たちを招待したというのに陽斗は何をしているのかというと、どうも久しぶりに友人や祖父たちのために料理を作りたいと思ったらしい。
今は厨房にこもって昼食の準備に奮闘している。
何しろ人数が多い。重斗と桜子だけでなく、四条院家、門倉家、大隈家、羽島家の招待客とメイド、使用人たちの分まで作るとなるとちょっとしたレストラン並みの準備が必要になる。
もちろん全てを陽斗が作るのは無理なのでメインの料理を担当することになっている。穂乃香も手伝いをすると言うが、あまり邪魔にならなければ良いのだが。
「せっかく目の前が海なんだから昼飯まで泳ごうぜ!」
念願だったスタインウェイ&サンズの高級ピアノを堪能して満足そうな華音に光輝が提案する。
光輝や華音の家族も朝から行っているそうなのだが、巌と明梨の母親はひとりだけだと気が引けるのか少し離れた椅子に座って穏やかに子供たちの様子を見守っている。
誰かが人の輪に入っていないと気になってしまうのは光輝の性分なのだろう。その提案には少なからず全員で楽しみたいという気持ちが込められているようだ。
「明梨も海行きたい!」
それに明梨も乗っかり、着替えてからビーチに向かうことになった。
昨年は陽斗と穂乃香、それから晃が利用しただけだったプライベートビーチだが、今回は4家族ということもあり、大型のタープやドリンクカウンターなどが用意され、さながら海の家のような状況となっている。
南国の日差しと開放的なビーチのおかげか、到着直後は緊張でガチガチになっていた門倉家や羽島家の大人たちもすっかり寛いだ様子で、ビーチチェアに座りながらドリンクを飲み、談笑を楽しんでいる。
ただ、波打ち際近くに居ながらも泳いだりはしていないようだ。
そんな大人たちとは違い、高校生の光輝たちはもちろん泳ぐ気満々である。
男子たちの着替えなどあっさりしたものなので、ふたりとも黒系の似たようなサーフパンツ姿だ。
「にしても、大隈、すっげぇ筋肉してんなぁ」
光輝が巌をしげしげと見つつすこしばかり悔しそうに言う。
「あ、あはは、自分、昔からでかくて、小さい頃いじめられることが多かったんで鍛えはじめたんですよ」
今でこそ2m近い身長に全身鎧のような筋肉の巌をいじめるような猛者は居ないが、昔はできるだけ目立たないように大きな体を丸めてオドオドしていたらしい。
それが、妹の誕生を機に、家族を守ろうと体を鍛えはじめ、ターミ○ーターもかくやという変貌を遂げたのだから大したものだ。
そんな巌に冗談交じりの嫉妬の目を向ける光輝ではあったが、その彼も無駄な肉のない引き締まった細マッチョ体型である。
「お兄ちゃ~ん!」
光輝たちが海の家、いや、メイドたちが用意してくれたドリンクカウンターで飲み物をもらって待っていると、ようやく準備を終えた女の子たちが建物から出てきた。
満面の笑顔でお腹に浮き輪をつけ、両手に大きなシャチの浮き袋を持ち上げた可愛らしいワンピース水着姿の明梨が走ってくる。
その後ろをハラハラしながら追いかけてくる母親の紗江は落ち着いた色合いで、そのまま街を歩いても違和感のない、ショートパンツとキャミソールのようなデザインの水着だ。
そして、
「なんでここに来てわざわざスク水なんだ?」
「男を悩殺するにはこれが一番だって聞いた」
「それ、絶対間違ってますよ」
呆れたように訊ねる光輝に自信ありげに答える華音。
巌もなんともいえない顔でツッコミを入れるしかない。
これまでの言動から、華音をツルペタ無愛想ロリのような想像するかもしれないが、実際は年相応の体型である。
むしろピアニストらしく手指と腕、足はすらりと長く、それほど大きくもないがちゃんと胸もある。
そんな彼女がどこぞの漫画にでも出てくるようなスクール水着を着ていると背徳感がハンパない。普通に通報されるレベルである。
「チェンジで」
「さすがに着替えてください」
男子ふたりの言葉に不満そうに唇を尖らせるも、様子を見ていたらしい母親がすっ飛んできて耳を引っ張っていったのだった。
「はぁ~、食った食った」
「食べ過ぎた。陽斗のご飯、美味しすぎる」
昼食は予定どおり、陽斗が作ったサンドイッチだった。
蒸し鶏やスモークサーモンにチーズなどを挟んだもので、デザートにアイスクリームも用意していた。
皆が美味しそうに食べているのを見て陽斗も嬉しそうに笑顔を浮かべていたが、食事を終えると片付けに向かってしまったのだ。
食事の用意は後片付けまでがセットだからというわけである。世のお父さんはしっかりと胸に刻んでおいたほうが良い。料理を作るだけで片付けもせずに「作ってやった」などと口にしたら好感度はむしろマイナスになるのである。
「あの、聞いても良いっすか?」
「ん? なにを?」
食べ過ぎたお腹をさすりながら、ロビーのソファに伸びていた光輝と華音に巌が訊ねる。
午後は陽斗や穂乃香も一緒に街に買い物に出かけることになっているので、陽斗たちの作業が終わるまではヒマなのだ。
「クマちゃんの質問なら答える。でもスリーサイズはシークレット」
「あ、別にそれはいいです」
「……後輩が生意気でショックな件」
半ばじゃれ合いのようなやり取り。
無愛想な華音だが、意外に光輝や巌と打ち解けるのは早かった。陽斗という共通の友人がいるというのが大きいのだろう。
「陽斗先輩と光輝さんってどういう切っ掛けで仲良くなったんですか? 羽島先輩とは生徒会の仕事でって聞いてますけど」
「ん。確かに気になる。倉ポンだけ呼び方が違うし」
巌と華音は光輝と会うのは今回が初対面だ。
飛行機の中で親しく会話はしているし、光輝の人なつっこさもあって打ち解けてはいるが、さすがに踏み込んだ話まではしていない。
「あ~、どうすっかな。まぁ、桜子さんが呼んだメンバーだから大丈夫か」
ふたりの期待するような目を受けて、光輝は少し考えてから頷いてみせた。
「たっちゃん、えっと、陽斗とは小学校の時に会ったんだよ……」
光輝と陽斗の出会いを説明しようとすれば、当時の陽斗、井上達也と呼ばれていた頃の状況も話さなければならない。
相当にディープな話であり、おいそれと口にできるものではないが、恋人の穂乃香はもちろん、親しい友人である壮史朗や賢也、セラには話してあると聞いているし、桜子がここに招待したということは、陽斗の祖父も大叔母も彼らを友人と認めているということだ。
だからある程度は言っても大丈夫だろうと光輝は判断し、彼の立ち位置から知ることのできたことだけを話すことにした。
「マジ、ですか。だから陽斗先輩はあんなに優しいんすね」
「……普通の子とは違うと思ってた。陽斗、凄い。立派。偉い」
陽斗が誘拐されていたことは話さなかったが、それでも虐待を受けながらも決して折れず、腐らず、ひたむきに生きてきたことを知り、ただでさえ高かったふたりの陽斗への評価がさらに爆上がりする。
巌も複雑な家庭環境の中で必死に母と妹を守ってきたという自負があるが、陽斗の苦難は自分とは比較にならないと思えた。
「まぁ、爺ちゃんに引き取られることになった経緯とかはたっちゃんに直接訊いてくれ。さすがにそこまでは俺から勝手に言うことでもねぇし」
「いや、もう十分っす」
「ん。陽斗が苦労してきた。これからは幸せになる。それで良い」
ただの好奇心からの質問に、思っていた以上に重い話が返ってきたわけだが、それでも巌と華音が陽斗に向ける気持ちが揺らぐことはなく、それどころかさらに絆が太くなる。
それを感じて光輝が密かにホッと胸をなで下ろす。
今回彼らが家族ごと桜子に招待された理由を、光輝はなんと無しに察していた。
これから先、自分たちが期待されていること。
そして、社会に出た後に陽斗が全幅の信頼を寄せることのできる相手を見つけるのは非常に難しいことも。
絶対に裏切らない味方。
言葉にするのは簡単でも、現実には作ろうと思ってできるものではない。
人はそれぞれ大切にするものがあり、固有の価値観がある。
利益で繋がった関係はある意味簡単で計算しやすいものではあるが、苦境に立ったときに頼れるものではない。
だがそれが関係を深めた上で恩義によって繋がったものならばそう簡単に壊れることはない。
もちろん中にはそんなものは関係ないとばかりに裏切る者も居るだろう。しかし現在陽斗の友人たちは皆、義理堅く、真面目な性格をした者ばかりだ。……まぁ、多少個性的な性格の者も居るのは確かだが。
この先どんな出来事が起こってそれが覆らないとまで断言はできないが、少なくともあれほどの苦難の中で優しさと思いやりを失わなかった陽斗が友人を裏切るとは思えないし、それがなければ友人たちも陽斗を支えようとするだろう。
加えて家族からの口添えまであれば不満が多少生まれたとしても心理的なブレーキが掛かる。
「少しやり過ぎだってばよ」
陽斗の一番の親友を自認する光輝は、重斗と桜子の過保護っぷりに呆れるばかりだった。
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