第160話 資産家の功罪

「あの、資産家が嫌いなんですか?」

 陽斗の、非難や怒りなどの負の色がまったく含まれていない、純粋な疑問の声に占部貴美子が一瞬驚いた後、気まずそうに顔を伏せた。

 その表情を見た陽斗は少し考える素振りを見せてから、斜め後ろにいた重斗に顔を向ける。


「お祖父ちゃん、少し占部さんとお話ししたいんだけど、良いかな?」

 その言葉に驚いたのは重斗だけでなく、指名された貴美子も顔を上げて口をひらきかける。が、先に酷い言葉を投げかけたという自覚からか、拒否することはなかった。

「陽斗が、ひとりでか?」

「陽斗さん、わたくしも一緒に」

「ううん、きっと僕だけの方が良いと思うから」

 陽斗の真っ直ぐな目を受け止めた重斗は、悩ましげに眉を顰めてから小さく息を吐き、研究所の所長、嶋田に視線を移した。


「嶋田くん、申し訳ないが彼女を少し借りても良いだろうか。それとどこか面談できる場所も」

「え、あの、しかし……」

 嶋田の立場からすれば、優秀であるものの、つい先ほど失礼な態度を見せていた貴美子を、最大の支援者である皇氏の孫と二人きりで話をさせるのは抵抗があるどころではない。

 さりとて重斗の頼みを断る口実もなく、逡巡の後に了承の言葉を口にするしかなかった。

 個室になっている面談室へ向かう道中で、これ以上無礼なことを言わないように釘を刺したかったが、重斗と穂乃香にさりげなく間に入られてそれも叶わなかった。

 

(彼女は優秀だし頭も切れる。それに普段は気遣いも忘れないし若い者にも親切だ。子供相手に酷いことを言ったりはしないはず)

 嶋田のそんな内心の呟きは、どちらかと言えば願望に近い、自分に言い聞かせるものだ。

 いっそのこと面談室に着かなければ良いのになどという気持ちとは無関係に、ほんの数分歩いただけでロビー脇の面談室に到着してしまう。

 いくつかの個室が並ぶ一角で、クライアントへの報告や打ち合わせに使うスペースだけに防音はしっかりしていて中の会話は聞くことはできないようになっている。


「こちらをお使いください。鍵は掛けず、何かご用があれば内線の受話器を取れば受付に繋がるようになっていますので」

「ありがとうございます」

 保険を掛けるように言葉を加える嶋田に、欠片も不安のない顔で朗らかな笑みを返した陽斗が、気遣わしげに見てくる穂乃香にも小さく頷いてから先に部屋に入る。

 貴美子の方も、少し困惑した顔を重斗に向けるが、不満と楽しみが絡み合った複雑な彼の表情を見て諦めたように後に続いた。


 面談室の中は少し大きめの長テーブルと椅子がいくつか置かれたシンプルなミーティングルームのようになっていた。特に装飾などはなく、本当にビジネス的な部屋という感じだ。

 陽斗は手前側の椅子をふたつ引き、奥側にちょこんと座って貴美子に笑みを見せる。

 もう一方に彼女が座れば手を伸ばすと届くような距離に、貴美子はますます戸惑う。

 敵愾心も露わに罵った相手に、どうしてこうも無防備に接することができるのか疑問ばかりが湧いてでる。


「私が何かするとか思わないの? 酷い言葉を投げつけるかもしれないし暴力を振るうかもしれない。それどころか、自分で服を破って襲われたとか言いふらすかもしれないのよ」

 なかなか想像力のたくましい発想だが、それを聞いても陽斗は動揺することなく、逆に少し困ったように頬を掻く。

「僕は占部さんとお話ししたいだけだから」

 貴美子が口にしたどれも実行することは無いと確信しているかのような態度に、彼女の方が毒気を抜かれてしまう。


「はぁ、わかったわよ。それと、さっきはごめんなさい。つい苛ついて貴方たちに当たってしまったこと、申し訳なかったわ」

 仕方なしにというわけではなく、真剣な顔で頭を下げる貴美子に、気にしていないと陽斗は首を振る。

「それで、教えてもらえますか?」

 前置き無しの質問に、貴美子は真意を確かめるように陽斗と目を合わせると、ふぅ、と溜め息を吐いてから口を開いた。


「そう、ね。ちゃんと説明しないといけないわよね。質問の答え、資産家のことを嫌っているかは、どちらかと言えば嫌い、かしら」

「どうしてですか? 何か嫌なことをされたんですか?」

「嫌なこと、まぁ社会人であれば多かれ少なかれ嫌なことを言われたりされたりするのは普通のことよ。ただ、態度が横柄だったり高圧的だったりする資産家は多いわ」

 他人に横柄な態度を取る人のタイプは大きく分けるとふたつだ。

 ひとつは自分に自信が無く、他人を見下すことでようやくプライドを保っているタイプだ。人数としてはこちらが大部分を占めるだろう。

 そしてもう一つが、社会的地位などが高くなり、自分が他者よりも優遇されて当然だと思い込んでいる人間。

 社会的地位と資産、どちらが先かは関係なく、環境や運を考慮に入れず、成功しないのは努力が足りないからだと平気で切り捨てるタイプだ。

 もっとも実際には視野が狭く考えが浅いからこそ他人を見下すことができるわけだが。


「……私の家はあまり裕福ではなくてね。母親はあまり身体が丈夫じゃなかったから長時間外で働くことができなかったの。父親の方は真面目だったけど要領が悪い人だったみたいで、中小企業の工場作業員を細々と続けていくのが精一杯だったわ。もちろんそれが悪いってことじゃないわよ。お酒は飲まなかったし煙草も吸わない、ギャンブルだって怖くてできないってくらいの善良な小市民よ。家族も大事にしてくれてた」

「そうですか。ちょっと羨ましいです」

 陽斗の口調と視線から皮肉とは受け取られなかったようで、貴美子は苦笑してから話を続ける。


「弟も居て、家族仲は良かったわよ。ただ、経済的には余裕がなかったから高校も大学も奨学金をもらいながら必死になって勉強したわ。大学の経済学部を卒業してから証券会社に就職して、3年ほど前にこの研究所から声を掛けられたの」

 証券会社から市場経済の研究所に。

 キャリアを考えるに、これまでそれなりの数の資産家たちと接してきたのだろう。そういった相手が横柄な態度の人間ばかりだったら資産家を嫌うのも無理はないのかもしれない。


「知っているかしら? 世界全体の個人資産は上位10%が全体の76%を握っているのよ。そして半数以上の人はほとんど資産を持っていないわ。資産家がほぼ全ての富を独占しているの」

 少し前のデータになるが、フランスの研究チームが発表したものによると、個人所有の資産は人口比上位10%が全体の75.6%を占め、特に最上位1%の富裕層が全体の37.8%を独占している。逆に全体の半数の資産は合計してもわずか2%に過ぎなかった。


「そんな状況なのに、実際の資産家たちは自分の我が儘は聞いてもらえるのが当然。経済弱者は努力が足りないと人を見下す。世の中にはどれほど努力しても成果が出ない人も、人が積み上げてきた成果を奪う人も居るのにね……」

 言葉の途中で陽斗と目が合い、貴美子は気まずそうに目を逸らした。

「……要は嫉妬よ。私は必死になってアルバイトをしながら寝る間を惜しんで勉強してなんとか国立大に合格したわ。それでも卒業と同時に何百万もの奨学金返済が待っていたのよ。でも富裕層の人たちは十分な学費と生活費を親に負担してもらって遊んでいた。腹が立って仕方なかったのよ。まして、今日迎えたのは世界でも指折りの大富豪とその孫。何の苦労も知らずにただ莫大な資産を受け継ぐと考えてしまったの。子供っぽい八つ当たりをしてしまったわ。友人たちはみんな結婚して子供を産んで幸せそうにしてるのに、私は仕事ばかりで出会いも少ないし、口が悪いせいで男性から敬遠されてるし、今朝なんて近所の子供にババァって言われるし、白髪が3本も見つかるし……」


 陽斗の持つ独特の能力。

 相対した人がどういうわけか良い意味でも悪い意味でも本性をさらけ出し、心の襞まで読み解く特質が遺憾なく発揮され、貴美子が言わなくて良いことまで吐露してしまう。

 特に後半は資産家云々はまったく関係のない、ただの愚痴である。

 ただ、陽斗は誤解だけは解いておきたいと思ったらしい。

「あの、占部さんが苦労されたのを理解できるなんて言わないですけど、僕も貧乏で辛い生活だけはわかります」

「は? 皇氏の孫なのに? あっ!」


 思わず不快そうに眉を顰め、すぐに思い至ったようで顔を青くする貴美子。

 陽斗が幼い頃に誘拐され、近年保護されたという話はごく一部ではあるが財界の噂話として伝わっている。

 経済動向の研究が主な業務である貴美子も耳にしたことはあったが、それに伴う経済の変動にばかり目がいって陽斗の存在に直接結びついていなかったのだ。

 同時に、これまで貴美子が口にした八つ当たりも愚痴も、重斗の資産をいずれ引き継ぐという部分以外なにひとつ当てはまらないことに思い至った。


「はぁ~、本当にごめんなさい!」

 自分の理不尽な言葉がどれほどこの小さな男の子を傷つけたことか、苦労知らずどころか、誘拐犯に連れ去られた幼子がまともな扱いをされるわけがない。間違いなく自分とは比較にならない労苦があっただろうと考えて、貴美子は椅子から立ち上がって深々と頭を下げたのだった。

「わ、わかってくれたのなら良いです。それに、まだ聞きたいことがあって」

 陽斗が慌てて手を左右に振りながら言うと、羞恥に顔を赤くして申し訳なさそうにしながら貴美子が席に座り直す。


「聞きたいこととは何でしょう。私にわかることならどのようなことでもお答えします」

 汚名返上とばかりに鼻息荒く前のめりで聞き返す貴美子の態度に若干引きながら、疑問に思っていたことを訊ねる。

「あの、さっき、世界の富の8割近くを一部の資産家が独占してるって言ってましたけど」

「そうですね。それが現実です」

「もし、その人たちが居なくなって、その人たちの持っている資産が他の人に行き渡ったとしたら、その人たちは豊かになれるんでしょうか?」

「っ!!」


 おそらくは富の偏在を知った人が一度は持つであろう疑問。

 現実的には不可能な、この不公平な実情を解消するであろう手段は果たして有効なのか。

 人生を何十回とやり直しても使い切れないだろう莫大な資産を受け継ぐ予定となっている陽斗にとって、どうしても知っておきたい疑問だ。

 だがそれは、経済の本質を突くものでもある。


「……間違いなく、豊かにはなれないと思います」

 そう。それが答えだ。

「世界の富の大半を所有する資産家たちは経済を動かしているだけではありません。物を消費すること自体は富を分配すれば、それを手にした人たちによって続けられるでしょう。でも、資産家たちはその資産の大部分で投資をしています」

 

 まず前提として、現在の大富豪たちの資産を取り上げて分配したとしても、すぐに別の者が成り代わるだけだ。

 それを防ぐためには単純に所得や財産に上限を設けるしかないが、そうなると成功したいというインセンティブが働かなくなり、社会が活力を失ってしまうことになる。社会主義を標榜したほとんど全ての国が生産も経済も低迷して破綻していった例を見ても明らかだろう。

 その上で、資産家たちがどのようにその富を使っているかを考えなければならない。

 彼らは有り余る資産の大部分を投資という手段で社会に供給している。

 それらは多分に利益を追求したものではあるが、投資を受けた企業や個人は様々な分野で研究・開発を行い、それが社会の発展に寄与している。

 もちろん消費という経済活動の中で得た利益で研究開発を行う企業も多いが、株式の公開や新株の発行などを原資として開発を進める企業は少なくないし、株価自体が企業価値を高め、その企業価値がさらなる信頼を担保する。

 それらの目に見えない金の流れが実体経済を動かしているのだ。

 そしてそれだけでなく、多くの資産家は寄付という形で学術研究や福祉に多額の資金を無償提供もしている。


 懸命に働く庶民の富を吸い上げて独占するという”罪”。

 同時に、その富を社会に還元すると共に価値を見いだされない学問や、国の手が行き届かない者達への救済を行うという”功”。

 陽斗の祖父である重斗も、いくつもの大学への支援だけでなく、伝統芸能への支援や孤児・交通遺児施設へ毎年寄付をしているし、利益が見込めなくても社会発展に繋がると見込んだ研究開発には積極的に出資している。

 罪と功はある程度以上の資産家にとっては両輪であり、罪に傾けば淘汰され、功に傾けば資産を失う。

 社会的な責任を全うできるかが長く家を保っていられるかの分水嶺なのかもしれない。

 そしてそれはいずれ陽斗も背負わなければならないものなのだ。


「ありがとうございました」

 貴美子の説明を聞き終え、陽斗は真剣な眼差しで礼を言う。

 それを見て心から恥ずかしい思いをしたのは向けられた方だ。

 単に金を稼ぐことのみに拘泥し、非合法な手段すら厭わない金の亡者と、社会的責任を果たしながら経済を回している資産家を同列に扱うことはできない。

 そんな当たり前のことに頭が回らず、ましてや未成年の学生に大人げない苛立ちをぶつける自分が酷く情けない。


「えっと、陽斗くん、だったわよね。君は将来どんな人間になりたいのかしら」

 ひどく抽象的な問い。

 問うた貴美子自身がなにを聞いているんだろうと思ったほどなのだが、陽斗は考える素振りを見せることなく柔らかな笑みを浮かべる。

「僕は多分お祖父ちゃんみたいにはなれないと思います。知識も経験も足りないし、力もないから。でも、僕には力を貸してくれる人がたくさん居ます。だから、その人たちに恥ずかしくない、その人たちが困ったときはいつでも力になれる。そんな人になりたいです。その、まだ全然ダメダメだから、もっと頑張らなきゃいけないけど」

「皇氏の跡を継ぐのよね? あの方の後継者になるのはすごく大変よ?」

「はい。覚悟は、えっと、まだ足りないけど、お祖父ちゃんが安心できるようになります」

 はにかんだ笑みの中に、しっかりとした決意が込められているのを感じて、貴美子は眩しさに目を細める。


「頑張ってね。困ったこと、知りたいこと、調べてほしいことがあったらいつでも連絡してきてね。今回のお詫びよ」

 貴美子は取り出した名刺に、個人用の連絡先を書き足して陽斗に差し出しのだった。




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何とか書き終えることができましたw

次回も重斗祖父さんの英才?教育(@_@)


というわけで、今週も最後まで読んでくださりありがとうございます!

皆様の感想は全てありがたく読ませていただいています

執筆の励みになりますので本当に嬉しいです


それでは、また次週までお待ちください。

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