第110話 大隈家
「ようこそおいでくださいました。わざわざのご足労、申し訳ありません」
都内の超高級ホテル。そのさらに最上階にある一室で壮年の男と初老の男が向かい合う。
「相変わらず慎重なことだ。今更儂等が会ったところでつまらぬ詮索をする者などほとんど居ないと思うが」
初老の男、重斗が苦笑気味に言うと、相対した錦小路正隆も頬を掻きながら頷いた。
「その通りではありますが、今はグループ内がゴタついておりますからな。些細なことにも気を回さなければならないのです。そのせいで手間をおかけすることになってしまいましたが」
口ではそう言うものの正隆はいささかも悪びれることなく肩をすくめ、重斗を対面のソファーに誘った。
そして自らカウンターに備えられた冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、そのまま重斗の前に置く。
その仕草に、重斗は思わず笑い声を上げてしまう。
「クックック、本当に相変わらずだな。そこまで用心深いとなかなか生活しづらいだろうに」
「自分でも気にしすぎだとは思うのですが、こればかりは性分と諦めるしかないですな。確かにいろいろと不便ではありますが」
正隆の保守的とも言われる用心深さは普段の生活にも表れており、先ほどの行動もその一端だ。
人を介さずペットボトルを取り出してそれを自分と重斗のところに置く。
言葉にすればたったそれだけのことだが、ペットボトルは一度開けたものはすぐにわかるように作られている。だが今の世の中でそんなことをいちいち気にするのは暗殺を警戒する独裁者くらいなものだろう。
「これでもかなりましになったのですよ。場所は選びますが外食もできるようになりましたから」
正隆の行動は本気で毒殺を警戒しているというわけではなく、言ってみれば潔癖症を拗らせたものに近い。
信用できない人間が作った料理は口にしないし、パーティーなどでも食事を口にすることは少ない。
そして、万が一相手が体調を崩したときに疑われることの無いように、屋敷以外で誰かに飲み物を提供するときはペットボトルを用意しているというわけだ。
病的な用心深さと言えるが、正隆のこの行動は知られているし、錦小路家の当主相手に文句を言う人間もいない。
「それだけに今回の件は驚いたな」
「お恥ずかしい限りですな。桜子さんと陽斗君の助言が無ければ、致命的ではないもののかなりの損害を被るところでした。とはいえ、今回は相手がかなり周到に準備を整えていたので気づけなかったことを咎めるわけにはいきませんが」
「10年も勤務していた者を疑うなど、よほど怪しい動きでもしていなければ難しかろう」
「本人の自供によれば最初からそのつもりで入社したようです。それどころか、前職すら錦小路家の企業に入社するための経歴作りだというのですから気の長い話ですな」
先日高桑親子によって企みが暴かれた御子神はすでに司直の手に委ねられているが、警察に逮捕される前に錦小路家によって聞き取り調査がおこなわれた。
どのような方法で聞き取ったのかは不明だが、かなり深いところまで判明したものである。
「とても個人が金のためにしたとは思えんな。後ろに居るのは大陸系か」
「大きいとはいえたかだか民間企業に対してこんな手間も時間もかかる方法を実行するのはあの国くらいでしょうな。同じくらいの情熱を傾けて研究開発を進めたほうが、盗むよりも良いと思うのですがね。ただ、国内の企業や資産家、旧家の中にも協力者が多数いるようで、炙り出しに苦労しています」
「錦小路家ともなればさぞ血の啜り甲斐があると思ったのだろう。儂の助力は必要かな?」
苦笑いしつつ訊く重斗の言葉に、正隆は首を振る。
「すでに粗方は判明しておりますのでご厚意だけいただいておきます。ただでさえ前回から借りを作りっぱなしですからな。これ以上は御免被ります」
「持論である“力のある家は適度な距離を保つ”か? 皇家と錦小路家が近づくのは好ましくないと」
重斗の言葉に正隆が真剣な顔で頷く。
「ただでさえ今後皇と四条院の関係が深まりそうですからな。天宮家の子息達もご子息と親しいようですし、せめて我が家は距離をとらせていただきますよ」
頑なとも思える態度だが、親しくなくとも長い付き合いである。正隆を見る重斗の視線に含むところは無い。
「そうそう、今のうちに借りの一部だけでも返しておきましょう」
そう言って正隆は鞄から一冊のファイルを取り出して重斗に手渡す。
「これは?」
「現段階で判明している御子神の協力者、企業や家柄のリストです。大多数は錦小路家や我が家が運営する企業グループに恨みがあるわけではなく、単に足を引っ張りたかったり自らに利益を得るために協力したのでしょう。標的が我々だけとは思えません」
「道理だな」
会話を交わしながら重斗がリストに目を通す。
挙げられた企業や家のいくつかは皇家が関連したり出資したりしている企業と取引があるようだ。
「ん?」
名称だけでなく協力の内容や度合いなどが詳細に記されたリストのひとつに目を止める。そこにはどこかで耳にしたことがある家の名が記されていた。
「大隈家、ですかな?」
「うむ。よくわかったな」
対面に座る重斗がどこを見ているのか見えないはずなのにあっさりと当ててみせたことに眉を寄せる。
「それなりに歴史がある家柄、と自称していますが、実情としては地方の豪農だったようですな。現当主の曾祖父が明治期に火薬の生産をはじめとした軍需産業で財を成したとか。もっとも、終戦後は事業のほとんどを失い、今では産業機械部品を製造する中規模企業が残るばかりで、持っていた土地を切り売りしながらなんとか体裁を保っているといった感じでしょうか。印象としては御子神に体よく利用されただけと思われますが、協力の度合いは高いのでどうしようか考えているところです」
正隆は重斗の疑問には直接答えないままそこまで説明して意味ありげに見る。
「そうそう、鷹司君の話では、生徒会に入った新入生で、特に陽斗君と親しくしている生徒が大隈巌という名だとか」
「……そういうことか」
つまりは大隈家の処遇を重斗に一任するということだ。
「これで貸し借りは無しということだな?」
「まさか。さすがに大した力も無い名ばかり旧家ではバランスがとれませんよ。とりあえずは、そうですな、利子分ということで」
正隆の言いように、重斗は苦笑いを浮かべるしかなかった。
いつものように校内を回り終えて陽斗が生徒会室に戻る。
「お疲れ様です!」
元気な挨拶はいつも通りだが、今日はそれにもまして尻尾をブンブンと振り回す幻視が見えそうなほど笑顔を振りまいている。
一緒に入ってきた穂乃香はそんな陽斗に優しい目を向けている。
「西蓮寺、ずいぶんと嬉しそうだけど何かあったのか?」
先輩の男子が声をかけると、陽斗は大きく頷いた。
「はい!」
大輪のひまわりのごとく満面の笑みを受け、先輩男子がのけぞる。
「今日、身体測定があったんですけど、身長が伸びてたんです! 5センチも!」
「そ、そうか、良かったな」
おそらくは昨年の身体測定の時と比べてだろうが、一年間で5cm。同じ歳であれば10cm以上伸びる生徒もいるだろうから決して成長著しいというわけではない。のだが、無邪気に喜んでいる陽斗にそんなことを言えるわけもなく、まるで父親や年の離れた兄にでもなったかのような心境で思わず頭を撫でてしまう。
「僕、小学校の頃からあんまり背が伸びなかったから、少しだけど伸びてて嬉しいです」
「わたくしはあまり背の高さは気になりませんけれど、陽斗さんはもっと高くなりたいのですね」
あまりのはしゃぎように穂乃香が若干苦笑気味に訊ねる。
「えっと、どこに行っても子供扱いされちゃうから、もっと男らしい体格になりたいなって。できれば大隈君くらいになれたら良いんだけど」
(いや、無理だろ!)
男女問わず、その場に居た生徒会役員の心の声がひとつになる。
が、当然、そんな無粋なことを言って陽斗を落ち込ませたいと思う者は居ない。
もっとも、だからといって賛同するかというとそれは別の話らしい。
「反対!」
一人の女子生徒が手を大きく挙げる。
入ったばかりの新入生、
「陽斗先輩は今のままが良いです! っていうか、先輩は可愛いのも魅力のひとつなんだから無理して変わろうとしなくて良いんです!」
中等部の頃からチャリティーバザーなどで交流があったせいか智絵里の言葉はある意味容赦が無い。より正確に言えば自分の欲望に忠実である。
なので、言われた陽斗も傷つくよりも呆れて肩を落とす。
その様子に他の生徒達が笑い声を上げた。
「ただいま戻りましたぁ」
陽斗が智絵里にイジられていると、再びドアが開いて二人の男子生徒が入ってきた。
「あ、お疲れ様。アンケートは集まった?」
「はい、大体集まりました。まだちょっと抜けがありますけど、明日には持ってきてくれるそうです」
弛緩した空気を元に戻して3年の女子生徒が訊ねると、入ってきた男子のひとり、
先日、熱烈なプッシュを受けた陽斗が会長の雅刀に事情を話したところ、元々候補に名前が挙がっていたこともあり、無事和志は生徒会に迎えられることになったのだ。
入学初日の傲慢な態度はどこへやら、今では家柄にこだわることなく、外部入学者に対しても積極的に交流を持とうとしている。
今回は、生徒会役員会議で提案された新入生歓迎会を実施するにあたり、新入生達へアンケートを取っていたのだが、その回収をしてくれていたのだ。
「大隈君もお疲れ様」
「あ、はい、でもほとんど荒三門がやってくれたんで、ほとんどついて行っただけなんですけど」
陽斗に労われた巌は、そう言って頭を掻く。
一通りの案内や説明が済んだので、最近ではいろいろな人と行動しているのだ。
それからしばらくは通常の生徒会業務に全員で励むことになった。
「戸締まりは確認しましたわ」
「給湯室の水道やガスも大丈夫です」
「最後まで残ってくれてありがとう。鍵は僕が返しておくから」
他の役員達はすでに下校し、雅刀や陽斗達数人が残って作業をしていたが、日も傾いてきたので終わりにすることになった。
手分けして戸締まりや設備の確認をして、雅刀が生徒会室の鍵を手にする。
「あ、誰かスマホを忘れてるみたい」
入口に向かって歩き出してすぐ、陽斗が椅子の下に落ちていた物に気づいて拾う。
「誰のだろう、あ、大隈君みたい」
「持ち主がよくわ、これはわかりますね」
手にしたスマホをのぞき込んだ穂乃香も思わず吹き出す。
「妹さんが居るって言ってたし、書いてもらったのかな?」
スマホケースの裏に、油性マジックででかでかと“おおくまいわお”と、どこか拙いひらがなで書かれていて、微笑ましさを覚えてしまう。
「でも、スマホ無いと困らないかな?」
「そうですわね。気がつけば取りに来るかも知れませんけれど」
陽斗と穂乃香が顔を見合わせる。
「大隈君の家は学園から少し遠いみたいだから戻ってこれないかもしれないね」
「あ、じゃあ、僕が届けることにします」
雅刀の言葉に陽斗がそう応じた。
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