第90話 陽斗の強さ

 サラダと柔らかいパン、南国のフルーツで朝食を済ませた陽斗は着替えて別荘のビーチにやってきた。

 陽斗が到着すると、そこにはすでにビーチパラソル、ではなく、学校の運動会で使われるような大きなタープが設置され、デッキチェアやテーブルまでもが準備されていた。

 他にもバスタブのような大きさの容器に大量の氷とペットボトルの飲み物も入っている。

 

 ちなみに陽斗が気を使ったりしないよう、給仕として控えているのは裕美ひとりだけ。

 服装も水着姿ではなくロングスカートに半袖のシャツ姿だ。

 暑くないのかと思ったが、背後にはしっかりと工場で使うようなスポットクーラーが置かれているので大丈夫なのだろう。

 ちなみに陽斗からは見えないが、何があってもすぐに対応できるように警備班長の大山他数名がガチムチの身体にブーメランパンツという出で立ちで待機しているし、少し離れた位置にはいつでも動かせるようにウェーブランナー(水上バイク)を準備したプロのライフガードも控えていたりする。

 

 陽斗はタープのそばでキョロキョロと周囲を見回しながら落ち着かない様子で立ち尽くしている。

 穂乃香に誘われてビーチに来たものの、こういった場所に来るのが初めてなのでどうして良いのかわからないのだ。

 穂乃香を待たせたりしないように早めに来たのも相まってかなり挙動不審になってしまっている。

 そもそもが陽斗は別荘が海辺にあると聞いても泳ぐつもりがなかったから、水着もいつの間にか綾音が用意していたのをそのまま着用しただけだったりする。

 陽斗の今の格好はと言うと、無難なネイビーのサーフパンツに白いラッシュガードを羽織ったものという、ごく普通のものだ。

 

「あの、陽斗さん」

「ひゃい?!」

 背後から声を掛けられて陽斗が飛び上がる。

 実際にはそれほど接近してというわけではないので陽斗が過剰に反応しているだけだが、声を掛けた穂乃香は申し訳無さそうに頭を下げた。

「ごめんなさい。驚かせてしまいましたわね」

「い、いえ、僕が考え事をしてただけだから、っ!」

 言葉の途中で陽斗は慌てて横を向く。

 穂乃香の顕になった太ももが目に入り、顔が真っ赤に染まっている。

 穂乃香の方もそんな反応をされると途端に羞恥心が生まれるらしく恥ずかしげに頬を染めていた。

 

 目的が目的なので穂乃香も当然水着姿なわけだが、露出の少ないワンピースタイプの水着にパレオを巻き、薄手のパーカーを羽織っている。水着の色は淡いブルーで良家の令嬢らしくかなり大人し目な姿だ。

 それでも陽斗に取っては刺激が強いらしく穂乃香とまともに目を合わせることができない。

「陽斗さんがそんなに照れてしまわれてはわたくしのほうが恥ずかしくなってしまいますわ。そ、それに、陽斗さんなら別に見られても嫌ではありませんし」

 後半は小声になりながら穂乃香が言うと、陽斗もおずおずとではあるがなんとか気持ちを落ち着けて穂乃香の方を見ることができるようになった。

 

「やれやれ、妹の甘酸っぱい光景を見るのは兄としては複雑なんだけどな。それに、お前達、僕の存在を忘れてるだろ」

「! に、兄様!」

「あぅ、あの、ごめんなさい」

 否定しないところ、本当に目に入っていなかったらしく、陽斗が謝罪する。

「……まぁいいさ。穂乃香は本当に楽しみにしていたからね。ところで、陽斗くんは泳ぎは得意なのかい?」

 微妙に気まずい雰囲気になってしまったのを誤魔化すように晃が話題を変える。

 だが問われた陽斗は少し困ったような顔で首を振った。

 

「実は僕、今まで泳いだことって無くて。だから多分泳げない、かな?」

 その答えに晃が眉を顰める。

「プールのない学校もあるとは聞いたことがあったが、陽斗くんの学校もそうだったのかい?」

「あ、いえ、小学校も中学校もプールの授業はあったんですけど、僕は受けさせてもらえなかったから」

 晃からすれば奇妙に感じる答えだろう。

 だが少し考えて、体質や病気などでブールに入れない人もいることに思い至り、あまり踏み込んで訊くのも失礼だろうと再び話題を変えようと口を開きかけたところで穂乃香が遠慮がちに陽斗に質問した。

 

「あの、もしかしてそれは傷を隠すため、ですの?」

 穂乃香は夏のオリエンテーリングで陽斗の身体に虐待でできた傷や火傷の痕があることは聞いている。だからプールに入っていない理由をすぐに察した。

「うん。人前で絶対に服を脱ぐなって言われてたから」

 苦笑気味にそうこぼす陽斗に、穂乃香は抱きしめたい衝動をこらえてチラリと兄を見てから陽斗に視線を戻す。

「もし陽斗さんがお嫌じゃなければ見せていただけませんか? もちろん陽斗さんが辛いなら見せなくても結構ですわ。わたくしは陽斗さんに無理はしてほしくありませんから」

 

「別に大丈夫だよ。武藤くんと天宮くんは見てるし、少し恥ずかしいけど、その、ちょっと気持ち悪いかもしれないから、ごめんなさい」

 陽斗がそう言いながら躊躇すること無くラッシュガードのファスナーを下げて上半身を露わにする。

 陽斗の背中や脇腹、胸に刻まれた無数の傷跡や火傷の痕を見て穂乃香と晃が愕然とする。

 明らかに事故や不注意による怪我とは違う、人為的な、偏執的と言えるほどに執拗につけられた傷。タバコの火を押し付けたような火傷の痕もいくつもあった。

 まだ成長期なこともあって随分と薄くはなっている。だが生涯残りそうな傷も少なからずある。

 

「い、痛みはないのですか?」

「今は痛くないよ。それにあと何年かすればほとんど消えるんじゃないかってお医者さんに言われてるから大丈夫。あの、やっぱり気持ち悪い、よね?」

 不安そうに見る陽斗に、穂乃香はブンブンと首を横に振り、そして陽斗をそっと抱きしめる。

「ふぁ?! あ、あの?」

 普段よりもずっと薄い生地を隔てて穂乃香の柔らかな感触を顔に感じて慌てる陽斗に、穂乃香は優しく語りかける。

 

「気持ち悪くなんてありませんわ。陽斗さんの身体ですもの。見せてくださってありがとうございます」

 言葉は少ない。けれど、それだけに陽斗の気持ちを思いやってくれていることが伝わってきた。

「穂乃香さん、ありがとう。えっと、ぼ、僕ちょっと飲み物取ってきます!」

 陽斗が穂乃香の腕から抜け出し、真っ赤になった顔を隠しながらそう言うと、建物の方へ走っていってしまった。

 飲み物ならすぐ傍に用意されているを知っているはずだが、とっさに出た言い訳がそれしか無かったのだろう。

 抱きしめられて恥ずかしかったのもあるが、本当は穂乃香の優しさが嬉しくて泣きそうになってしまったからだ。

 

 穂乃香は少し名残惜しそうに陽斗の後ろ姿を見送るとひとつ小さくため息をつく。

「兄様、陽斗さんは10年以上もの間、母親だと信じていた人物から酷い虐待を受け続けていたそうです。あの傷痕を見ればそれがどれほど辛いことか、わたくしなどでは想像すらできません。ですが陽斗さんはそんな暮らしを送っていながら決して他人を恨んだり妬んだりすることなく、努力を続け、思いやりを持ち続けてきたのです。

 兄様は、それでも陽斗さんが世間知らずの箱入りで頼りないと、本気でそう思われますか?」

 それは朝の散歩の際、晃が陽斗を印象を語った時の言葉だ。

 

「い、いや」

「それに、陽斗さんは本当に必要な時はとても勇敢です。わたくしが拐われそうになった時もそうでしたし、もし、わたくしが海で溺れそうになったとしたら、きっと泳いだことがなくとも助けようと躊躇わずに海に飛び込むでしょう。もちろん陽斗さんにそんな危ないことをさせるわけにはいきませんから、わたくしも十分に安全に気をつけますけど」

 穂乃香はそこまで言って、晃を睨めつける。

 すると晃は肩をすくめて両手を上に挙げた。

 

「まいった、降参だよ。前言を撤回するよ」

 穂乃香はわかれば良いのです、と両手を腰に当てて笑みをこぼした。

 妹のそんな姿に晃が苦笑いで応じる。

「穂乃香が男の子にそこまで惚れ込むとはねぇ。僕も妹離れしないとな」

「ほ、惚れ、に、兄様!」

「ははは、さて、すっかりあてられて暑くなったからひと泳ぎしてくるよ」

 晃はそう言ってTシャツを脱ぐと手をヒラヒラさせながら海へ入っていった。

 

「おまたせしてごめんなさい。あれ? お兄さんは?」

 少しして陽斗が両手にミネラルウォーターのペットボトルを抱えて戻ってくると、晃の姿がないことに気づく。

「兄様はひとりで泳ぎに行ってしまいましたわ。それより、わたくしも泳ぐのはあまり得意ではありませんから、一緒に浅瀬で泳ぐ練習しませんか?」

「う、うん」

 穂乃香の提案に、気を使われているのに気づきながらも陽斗は嬉しそうに頷いた。

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る