第80話 夢の重み
「陽斗さま、お口に合いませんか?」
「え? あっ!」
ぼんやりと食事を口に運んでいた陽斗が、比佐子から声をかけられ驚いて箸でつまんでいた小芋をポロリと落としてしまう。
「ご、ごめんなさい」
綺麗な球形が災いしてコロコロとテーブルを転がって床に落ちてしまった小芋を眺めて陽斗がシュンとしながら謝る。
昔の陽斗なら慌てて拾い上げて埃を払い口に入れていたのだろうが、そんなことをこの屋敷のメイド達が許すはずもなく、陽斗が席を立つよりも速く拾い上げて厨房に持っていってしまった。
「陽斗、どうかしたのか? なにか考え事をしていたようだが」
陽斗の様子を気遣わしげに見守っていた重斗が問いかけると、陽斗は困ったように頬を掻いた。
今食卓を囲んでいるのは陽斗と重斗だけで仕事で外出中であるため桜子の姿はない。
「あ、うん、僕のクラスに夢を一生懸命追いかけている人がいて、凄いなって」
以前の陽斗の夢は高校に通って、ごく普通の生活を送れるようになることだった。
ささやかな、ごく普通の暮らし。
それこそが陽斗にとってなによりも憧れて、手に入れたかったものだ。
それが今や念願だった高校にも通えるようになり、望んでいたよりも遥かに恵まれた生活を送れるようになった。
そのことはもちろん嬉しいし、毎日幸せを噛み締めている。
しかし、望みが叶ってしまったことで逆に自分の将来を思い描くことができなくなってしまっているのを今回の詠美の件で気づいたのだ。
別にポッカリと穴が空いてしまっているというほど心に隙間ができたというわけではないし、今も祖父の孫として恥ずかしくないよう努力は怠っていない。
それに、まだ高校生という年齢では将来の夢などを具体的に思い描いていなくても不思議ではない。
だがそれでも親に打ち明けることができなくても陰ながら努力を続けてきた詠美や、家業に関わる仕事に就くと決めているかのような穂乃香や壮史朗を見ていると焦りに似た感情が湧き上がってくるのだ。
「ふむ。四条院の令嬢から当主を通じて儂にも話がきていたな。宝飾品のデザインを志しているという娘のことだな?」
「うん。お家の仕事じゃなくて別の仕事をしようとして、それでも家の仕事は好きだから両立させられるようにって頑張ってるんだ。
……でも、僕は、考えてみたらずっと高校に行きたいって思ってただけで、夢とか将来どんな仕事をしたいとか考えたことなくて」
そう言う陽斗の表情に、詠美に対する妬みや悔しさなどは全く浮かんでいない。ただ、少しばかり落ち込んでいるような色が見え隠れしている。
「夢に向かって努力する人を見ると儂でも羨ましいと思うことがあるな」
「お祖父ちゃんも?!」
「うむ。そういった者達は眩しく見えるものだ。若者だけでなく、壮年であれ、老境に差し掛かった者であってもな。儂とてそういった者達に恥じぬ努力をしてきたと思っているが、ただがむしゃらだっただけと思うこともあるぞ。それに、家業を継ぐことを幼い頃から言い聞かせられてきた者、陽斗のクラスにも大勢いるだろうが、そういった者達は夢を追わないからといって劣っているわけでもない」
重斗の言葉を真剣な表情で聞く陽斗。
「夢を見る期間が短くても長くても、夢が次々に移り変わっても、そして仮に夢など見なくても、自らを高める努力を惜しまなければその価値に貴賤はない。もし陽斗にまだ将来の夢がないのなら、いつか夢ができたときに後悔せずにすむように自分を高めておくと良い。夢や目標ができて、諦めることなく追えるように」
人は目標や夢があるから努力できるという側面がある。それもなくただ努力を続けるのは難しいのだ。
それでもその時のために、後悔しないですむように。
夢を見るのに年齢制限はない。きたるその時のために自分を高めておく。それもまたひとつの夢の形であろう。
「……あの、お祖父ちゃんは僕に将来どんな仕事をして欲しいとか、ある?」
陽斗は少し考えてから重斗に質問する。
その理由を察した重斗は一瞬少し寂しそうに目を細め、小さく首を振った。
「儂は陽斗がやりたいことがあるのならどんな仕事でもかまわないと思っているよ。無論、身を削るような辛い仕事や危険を伴うような仕事はできれば止めてほしいし、人を不幸にするようなことなら祖父として全力で止めるが。
儂自身はいくつかの企業を所有しているが直接経営に携わっているわけではないからどうしても後継者が必要というわけでもない。だから陽斗は自由に自分がやりたいことを探すと良い」
重斗の言葉に陽斗がはにかむような、それでいて少し困ったような笑みを返した。
今の陽斗は重斗が望むような孫でいたいと思っている。それは裏返せば重斗に失望され見捨てられることを恐れているということでもある。
最悪な環境から一転してこの上なく恵まれた環境へ。
ようやく手にした幸せな祖父との暮らしが再び失われてしまったら、その考えが陽斗が将来の夢を描くことを躊躇させてしまっているのかもしれない。
そんな陽斗の心情はもちろん重斗も理解している。
実際には陽斗がどんなわがままを言おうが、どれほど重斗に迷惑をかけようが、重斗が陽斗を見捨てる事などあり得ない。もし間違った道へ進もうとしたら心を鬼にして叱りつけるだろうが、決して見放すような真似はしない。
だが、陽斗が重斗と暮らし始めてからまだ1年にも満たない。顔も覚えていないほど幼い頃に引き離され、長い時を隔ててしまっているだけに陽斗がそれを実感出来るようになるにはまだまだ時間がかかるだろう。
そのためにも今回のような、夢を追う友人の姿を間近で見るのは良い刺激になるだろうと重斗は考えている。
「将来の目標や夢など、考えて思いつくようなものではない。それよりも、もっと色々な人と接してたくさん話しをすると良い。そうすればいつか見つかるだろう。儂は陽斗が幸せでいてくれるのならばどんな道を選んでも応援するぞ」
「うん。お祖父ちゃん、ありがとう」
重斗の心からの言葉に、陽斗はしっかりとうなずいたのだった。
「将来の夢、かぁ。小学生の頃だったら漫画家になりたいとか言ってた憶えがあるけどなぁ」
「俺もちっちゃい頃は料理人になりたいとか思ってたぜ。そうしたら毎日美味いものが食えるとか」
「そんなもんだよな。さすがに今はもっと現実的に堅実な道のほうが良いと思ってるけどさぁ」
黎星学園の食堂で陽斗と一緒にいるのはいつものメンバーではなく、夏休みのオリエンテーリングをきっかけに打ち解けた3人の男子生徒だ。
いつも穂乃香や壮史朗たちとばかり一緒に居ては交友関係を広げることができなくなってしまうので週に1、2回ほどこうして他のクラスメイトと昼食を摂ったり話をしたりしている。
とはいえ、基本的に人見知りの気質のある陽斗なので、穂乃香達のうち誰かが一緒にいることが多い。ちなみに、女子生徒と交流するときはどういうわけか必ず穂乃香が加わっている。
この日に昼食を共にしている3人は当初は外部入学者である陽斗に対して反感をもっていたのだが、今では穂乃香達を除けば一番陽斗と仲がいいといえる関係を築いている。なのでここに居るのは陽斗とこの3人だけだ。
陽斗はいい機会だからと、彼らにも将来の夢や目標について訊いてみることにしたのだ。
「っていうか、俺達の中で具体的に進路が決まってるのって浩二だけじゃない?」
3人組の一人である
「千場くんの進路って?」
「俺は一人っ子だからな。親が会社を経営してるから跡を継ぐんだよ。っつっても、他の会社のことも知っておけって言われてるから、一度は別業種の会社に就職するつもりだけどな」
陽斗の視線を受けて
「そういう意味では悩む必要がないから楽だよな。うちは兄貴がもう親の会社に入ってるから自分の進路は自分で決めなきゃいけないし」
「俺んとこもそうだよ。けど、特にやりたいことってないんだよなぁ。付属の大学に進学するつもりだからその間になにか考えようって思ってる」
陽斗は3人の話を聞いて、そういうものなのかなと少しだけ気が楽になる。
「それで、なんでそんな事聞くんだ? 西蓮寺は進路悩んでるのか?」
「そういうわけじゃ、あ、でも、もしかしたらそうなのかな?」
陽斗は一生懸命夢を実現するために努力する人を見て、自分にそういったものがないのが恥ずかしい気持ちになったことを正直に話す。
「う~ん、俺達の歳で将来の夢のためにって努力してるやつのほうが少ないと思うぜ」
「この学校だと俺みたいに家を継ぐ奴も多いだろうけど、大学卒業して就職した会社で出世しようとか、そんな程度の連中だって多いと思うよ」
千場と宝田がそう言うが、多田宮だけは少し恥ずかしそうに目を逸らしたのに陽斗が気づく。
「多田宮くんは、夢とかあるの?」
これまでの話で多田宮は自分の進路についてなにも言っていない。
「あ~、まだ実現するかも分からないし、具体的にそれほど努力してるってわけじゃないから恥ずかしいんだけどな。できれば、翻訳の仕事をしてみたいって思ってて、大学は外部の外国語学科に行こうかなって」
「え? 初めて聞いたんだけど!」
「マジで? 英太郎、スゲェじゃん!」
「だから、まだ具体的にはなんにもしてないんだってば! 漠然とそうなれたら良いなってだけで、どうしたらなれるのかもわかんないし。夢とかそんな大層なものじゃないって」
「そうなりたいっていうきっかけはなんだったの?」
「いや、ホント些細なことなんだって。中等部の頃に何気なく買って読んだイタリアの本があったんだけど、同じタイトルの本が学校の図書室にもあったんだよ。けど、作者は同じなのにところどころ違う部分があって、よく見たら翻訳者が違ったんだ。そこから翻訳って仕事が気になったんだよ。別に大した理由じゃないだろ? 夢っていうとなんか重い感じするけど、切っ掛けなんてそんなものじゃないのか?」
陽斗のキラキラとした目で見られて多田宮が恥ずかしげにそう軽口でごまかしたが、もちろん彼をからかう者などいない。
「そっか、難しく考えなくても良いんだよね」
陽斗は誰にいうでもなくひとりごちると、小さく何度も頷く。
「なんだったら俺が西蓮寺の将来を考えてやるぜ。そうだなぁ、アイドルとかどうよ? 西蓮寺なら絶対人気出ると思うぞ」
「あ、それ面白いじゃん! 確か俺の叔父さんが芸能系の仕事してるから写真送ってみようか?」
「え? えぇぇ?! ちょ、ちょっとまってよぉ!」
悪戯めいた千場の言葉に、本気で慌てた陽斗を見て笑う3人。
「悪い悪い、あ、でも、自分で言っててイケそうな気がしてきた」
しつこく言う千場に、とうとう陽斗が頬を膨らませた。
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