第43話 夏休みの始まりとお風呂

 良家の令嬢子息の学舎たる黎星学園にももちろん夏休みというものがある。

 期間は昨今ではやや長めといえるかもしれないが7月の20日頃から8月末までの40日程度だ。

 7月の上旬に期末試験があることも、夏休みの宿題があることも普通の学校と同じである。とはいえ宿題の量はさほど多くはなく、毎日進めれば1週間もあれば充分終えられる程度でしかない。

 芸術系や読書感想文などはなく、代わりに社会問題に関する論文と経済に関する論文(英文で)があるが、基本的に自主学習が奨励されており、休み明けにはしっかりと試験も準備されているので自堕落な休日を過ごすことはできない。

 もっとも幼少期からの教育の賜なのか、高校生にしてしっかりと将来を見据えている生徒が大部分を占めているので休み明け早々に追試になる者はほとんどいないらしい。

 

 とはいえまだ高校生。

 長期の休みが嬉しいのは皆同じである。

 黎星学園では学期の終わりに終業式などは特に行わず、最終日も午後まで授業が行われる。ただ、内容は休み中の自主学習の進め方をレクチャーしたり、2学期に学ぶ内容のポイントを説明したりという、夏休み中の学習に関することになっていた。そのあたりもこの学園の特徴といえるのかもしれない。

 それでも最後の授業が終わると教室には華やいだ声が溢れる。

 ホームルームまでの短い時間、生徒達はそれぞれの休み中の予定を話し合い、中には共に出かける日程などを話したりしている。

 寮で暮らしている生徒も少なくないので帰省のことを楽しそうに語っている者もいる。

 

 そんな中で余裕のない生徒が一人。

 クラスの誰よりも小柄で小学生じみた外見をした男子生徒、陽斗である。

 その陽斗は授業が終わるや否やカバンからファイルを取り出して真剣な顔で目を通していた。

「陽斗さん、あまり根を詰めすぎても良くありませんわよ。考えすぎると視野が狭くなりますし、計画通りに進まなくなると適切な対応がとれなくなります」

 穂乃香が陽斗の机まで近づいてきてそう嗜める。

 その表情も口調も責める色はなく、むしろ気遣っているようだ。

「あ、うん。ごめんなさい。どうしても気になっちゃって」

 指摘された陽斗は恥ずかしそうに首を竦めると素直にファイルをカバンに戻した。

 

「心配なさらなくても陽斗さんはしっかりと準備をされていますから手抜かりはないはずですわ。それに工程にも余裕を持たせていますので何かあっても大丈夫です。

 わたくしたちも居るのですからもっと責任者としてどっしりと構えていてよろしいですわよ」

 穂乃香の台詞の理由、それは明後日から予定されている生徒会主催の交流イベントである“野外懇親会”の1年生責任者に陽斗が任命されたことに端を発する。

 高原でのオリエンテーリングをメインとしたこの野外懇親会に参加するのは1、2年生の生徒達であり、基本的に自由参加となっている。

 だが良家の子女や芸術を将来の進路に見定めている芸術科の生徒達にとって学園の交流会はけっして無視することのできないイベントだ。

 在学中に築き上げた人脈が自分や家の将来に与える影響を考えれば、他のクラス、まして学年の違う相手と知り合う機会を逃してなるものかと、参加率はほぼ100%近い。

 

 人数が多くなれば目も行き届かなくなるため、それぞれの学年に一人ずつ責任者が割り当てられることになっている。

 そこに1年生の責任者として何故か陽斗が指名されてしまったのである。

 陽斗としては外部入学者であり学園の常識に疎いことや、そもそもそういったリーダー的な役割の経験が無いことを理由に断ろうとしたのだが、生徒会長である琴乃は柔らかな微笑みを浮かべているのに『テメェに拒否権なんざねぇんだよ』とばかりの色を瞳の奥に湛え、副会長の雅刀も穏やかな雰囲気はそのままに琴乃を掣肘する気配はなく、さりとて幾人もの役員の目が陽斗に注がれている中で拒絶することもできずに受けることになってしまったのだ。

 もちろん穂乃香はその後すぐに琴乃に対して強引すぎることを抗議してくれたのだが、元来生真面目で切り替えの早い陽斗は「あの、自信はないけど、頑張ってみます」と穂乃香を宥めたというわけである。

 

 それからの1ヶ月、陽斗は頑張った。

 もちろん穂乃香の全面的な協力や助言が大きな助けとなっていたが、これと決めたときの集中力と行動力は人並み以上のものを持っている陽斗は、果敢に琴乃や雅刀を質問攻めにしたり、2年生責任者であり今回のイベント経験者でもある桧林に突撃して詳しい仕事の進め方などを聞いたり、他の役員に頭を下げて回って協力してもらいながら準備を進めていった。

 事前準備を終えてからも陽斗は何度も手順や段取りを確認し、穂乃香も桧林も抜けや想定の甘い部分はないと太鼓判を押しているのだが、それでも心配は尽きないようで暇があればこうして資料をまとめたファイルを見てしまうのだった。

 

 

 

 それから2日後。

 黎星学園の正門前に大型のバスが何台も停められ、校舎前の広場には生徒達が集まっていた。

 担当の役員が参加者名簿を確認しつつ車内に誘導、その後陽斗と桧林に報告する。

 それもすぐに執行役員に伝えられてようやく出発となった。

 目的地は休憩を挟みつつバスで約2時間ほどの場所にある東北地方の高原である。

 山だけでなく湖も渓流もある風光明媚な場所で、大きなリゾートホテルが宿泊場所となっている。

 さすがに良家の子女が大半を占めているのでキャンプ場でテントやバンガローでの宿泊というわけにもいかないのだろう。

 ちなみに警備担当は半数がバスと同行し、残りの半数はすでに現地で警備にあたっている。

 

 大まかな日程としては初日であるこの日は現地への移動とホテルのある湖周辺での自由時間、夕食はホールを借りての立食パーティー。

 2日目が朝からオリエンテーリングとなっている。

 オリエンテーリングというのは専用に作られた地図を使って、大自然の中に設置されたチェックポイントを辿りながら走破するアウトドアスポーツだ。

 元が軍事訓練から派生したものであるため、スピードを競う面が強いかなり過酷なクロスカントリー走といったイメージなのだが、さすがに一般の高校生が行うようなものではないし、そもそも交流が主目的のイベントでガチな競技をする意味は無い。

 一応順位は発表するものの参加者もそれに拘ることはないのだ。

 オリエンテーリングが終了したら湖畔でバーベキューを行う予定だ。

 最終日は午前中に生徒会が企画したゲームを行い、昼食後学園へ帰ることになっている。

 

「西蓮寺、ホテルに到着したら自由に過ごして良いんだよな?」

 大型観光バスの車内で陽斗が予定の確認をされる。

 このバスの定員は40人ほどで座席は割とゆったりと広く作られている。黎星学園は一クラス30人前後なので皆十分なゆとりをもって座っていた。

「あ、うん。まずホテルのレストランで食事をして、それから夕食までの時間は自由だよ。で、でも、あまり遠くに行っちゃ駄目だし、離れるときも警備の人に言わないと」

 陽斗が乗り込んでいるバスは所属している4組ではなく3組のバスだ。

 このクラスには生徒会役員が居ないため、穂乃香とは分かれて乗っているのだ。

 ただ別のクラスとはいっても3組とは合同授業で一緒になることも多いので人見知り傾向のある陽斗でも普通に会話をすることができる。

 

「西蓮寺くんは自由時間も生徒会の仕事あるの?」

「えっと、明日のオリエンテーリングの会場を確認しなきゃいけないから」

「え~、残念。せっかくだから西蓮寺さんと交流したかったのに」

「そうだぞ。生徒会の仕事も大事だろうが隣のクラスなんだからもっと交流をもった方が良い。その、四条院さんも一緒に」

 このクラスの生徒に陽斗に対して敵愾心を持っている者は居ないようで、男女ともに割と気さくに話をしてくれている。中には別の意図がありそうな生徒も居るようだが。

 とはいえ、最初から全員が好意的だったというわけではなく、中にはやはり外部入学者に対する偏見もないわけでもなかった。

 だがそれも接する時間が増えるにつれ、陽斗の一生懸命さと歩み寄ろうとする頑張りを目にして徐々に話をする生徒が増え、陽斗の聞き上手さも手伝って今ではこの通りである。

 

 途中、高速道路のサービスエリアでトイレ休憩を一度取り、目的地に到着したのはお昼前だ。

 事前に宿泊者リストは提出してあるので最終確認と鍵の受け取りをしてチェックイン手続きは完了する。事前にホテルに荷物を送っている生徒も多いが、それは各自が受け取ることになっている。

 それから各自に鍵と昼食用のチケットを役員が手分けをして配布していく。

 一応鍵を受け取った時点で自由時間は開始となっていて、昼食もホテル内にいくつかあるチケットの対象レストランで自由に取れる。

 陽斗も穂乃香や壮史朗達と合流してインド料理のレストランに入った。

 

 

「ふぅ~、さすがに歩き回ると暑いな」

「そうか? 風が涼しいから気にならんが」

「賢弥は暑苦しい道場で慣れてるから参考にならないわよ」

「空気は爽やかですけれど日差しは強いですわね。帽子を着用するように伝えましょう。陽斗さんは大丈夫ですか?」

 昼食後、翌日のオリエンテーリング会場の確認作業を生徒会役員で分担して行うことになっていた陽斗は穂乃香と共に割り当てられたエリアに来ていた。

 ただ、確認作業といっても事前に、数日間の時間を掛けて地元民や警備担当者、リゾートの職員などが綿密に安全確認などを行っているし、この10日間ほどは天候も安定していたため実質的にはほとんど形ばかりの作業だ。

 事実、割り当てられた範囲を確認し終えて、特に問題がなければそのまま残り時間は自由にしていいと言われている。

 そのせいか穂乃香はこころなしか楽しそうに表情を綻ばせている。

 

 とはいえ、もちろん初めて責任者などを押し付けら…引き受けた陽斗としては手を抜くはずもなく、まるで無くした物を探すかのように担当場所の隅々まで茂みを掻き分けたりまでしながら見て回っていたのだが、一緒に居るのは穂乃香だけではない。

 自由散策を楽しんでいるはずの壮史朗や賢弥、セラまで陽斗の手伝いと称して同行しているのだ。

 当然最初は陽斗も遠慮していたのだが壮史朗の「別にいまさらこんなところで散策してもやることが無い。暇つぶしだ」というツンデレ気味の言葉と、「ここのホテルは源泉掛け流しが売りだからな。堪能するためにも少し汗をかくのも悪くない。だがホテル周辺は人が多くて煩わしい」という意外に風呂好きだったらしい賢弥の言葉に嬉しそうに了承したというわけだ。

 そうなると必然的にセラも加わることになり、最初は少々不満そうな表情を見せた穂乃香もすぐにいつものように会話を楽しんでいる。

 

「うん、心配してくれてありがとう。僕は結構暑いの平気だから大丈夫」

 暑いのだけでなく、冬は意外に寒い九州中部の一地方都市でエアコン無しの生活を十数年過ごしていたのだ。爽やかな風が吹く高原の真夏の暑さなど快適としか感じていない。

 まぁだからといって汗をかかないというほどではなく、ましてや遊び盛りの仔犬のようにあっちこっちを足早に移動しながらフィールドを見て回れば終わる頃には着ているシャツはジットリと重くなるくらいにはなる。

 ゆっくり巡っても2時間程度の範囲を3時間掛けて丁寧に見て回り、ホテルに戻ってきた陽斗達。

 夕食の時間まではまだ2時間以上ある。

 

「……風呂にいく」

 そもそもの目的がお風呂を堪能するために軽い運動感覚で同行していた賢弥はホテルに着くなり風呂に入るつもりらしい。

 このホテルは午前10時~12時までの清掃時間以外は自由に大浴場を利用できるらしく、まだ日が高いこの時間でも開放されている。

 学校行事ではないので入浴時間までキッチリと決められているわけではないし、予定の組まれた食事やレクリエーション以外の時間の過ごし方は自由なのだ。

「そうだな。せっかくだから僕もそうしようか。西蓮寺もどうだ?」

「う、うん。いいの、かな?」

「やらなきゃいけないことは終わったんでしょ? なら良いじゃない。私も四条院さんと一緒にお風呂行くし」

「わ、わたくしも?! い、いえ、わたくしは後で、ちょ、ちょっと待ってください、せ、セラさん?!」

 

 明るい内からお風呂というのは少しばかり罪悪感のある陽斗が戸惑っている内に穂乃香はセラに引き摺られて行ってしまった。

 壮史朗は呆れたように肩を竦め、賢弥はさっさと着替えを取りに部屋へ向かって歩き出している。

 こうなると陽斗に断るという選択肢は無い。

 誘われたこと自体は嬉しいし、それに陽斗もお風呂は大好きなのだ。

 壮史朗と共に着替えを取りに行き大浴場に向かう。

 

「おや? 西蓮寺くん達もお風呂かい?」

 大浴場の暖簾の前で雅刀が声を掛けてきた。

 手には着替えがあるので彼も陽斗達と同じく確認作業を終えて汗を流しに来たのだろう。

 流れでそのまま一緒に脱衣所に入る。

「わぁ~、広いですね!」

 屋敷の浴場も充分に広いがあくまで個人の邸宅である。

 それに陽斗が行ったことのあるスーパー銭湯よりもさらに広い脱衣所に目を輝かす。

 その好奇心旺盛な小動物じみた様子に雅刀はクスクスと笑い、壮史朗は口元と目元をヒクヒクさせた無表情で応じる。

 

「うわぁ、賢弥くんの筋肉すごい!」

 好奇心の対象は脱衣所だけに留まらないようで、賑やかな陽斗達にかまわずさっさと服を脱ぎはじめていた賢弥に目を向けた陽斗が感嘆の声を上げる。

 幼少期から空手で鍛え上げられた賢弥の身体はムキムキ、ではないが、均整のとれた重厚な筋肉の鎧に包まれていて、漢らしい身体に憧れる陽斗にとっては羨望の対象であろう。

「男に褒められても妙な感じだな。そんなことより、風呂に入らないのか?」

 苦笑しながら賢弥がそう突っ込むと、陽斗も慌ててシャツに手を掛け、勢いよく脱いだ。

 と、賢弥と壮史朗の顔は機嫌良く上半身を晒している陽斗を見て強張る。

 陽斗はすっかり忘れてしまっていたが、陽斗の身体にはいまだに虐待の痕である傷や火傷が生々しく残っている。

 生涯残るほど深いものではないにしても、それはまだ若年である彼等の目には陽斗の明るい表情との対比によってより異様に見えていた。

 

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