第37話 お姉ちゃん狂想曲
「えっとね? その、私の事、『お姉ちゃん』って呼んでみてくれない?」
「ふぇ? えぇぇぇ?!」
藍子の口から飛び出したあまりに予想外の申し出に、陽斗が思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「陽斗さん? どうなさったの?」
「西蓮寺、なんの騒ぎだ?」
陽斗の声に真っ先に反応したのは穂乃香と壮史朗だった。駆け寄った素振りも無かったのにいつの間にか陽斗のすぐ後ろにいた。
しかしそれでも藍子は止まらない。
「ね? ね? お願い! 一度で良いから! あ、できれば録画とまでは言わないけど、録音させて!」
苦手意識があったはずの穂乃香がすぐ側にいるというのに眼中にないらしい。何が彼女をそこまでさせるのか。
「心底どうでもいい内容の気がするが、一応聞いておく。神楽坂、西蓮寺に何を言ったんだ?」
「えっとね、西蓮寺君に『お姉ちゃん』って呼んで欲しくて」
「……血縁でもない同級生に何を言っているんだ」
予想通りと言わんばかりに呆れて溜息混じりの壮史朗。
「だってぇ! 私4人兄姉の一番下だし、身長もこんなだから中2の親戚にまで子供扱いされるのよぉ! もう高校生なのに一度もお姉ちゃんって呼ばれたことないの。だから西蓮寺君に一度で良いから『お姉ちゃん』って呼んでみて欲しくて。
だって西蓮寺君って、理想の弟みたいなんだもん!
ね? 誕生日だって私が9月で一応お姉ちゃんになるんだし、一度だけで良いからぁ!!」
小さな身体をピョンピョン弾ませながら必死に言い募る藍子。
マスコット的な扱いをされるのも納得の仕草だが、言っている内容は実に馬鹿馬鹿しい。
そもそも良家の子女ばかりのこの学園でこれだけ騒がしくしている女子生徒を見るのは陽斗は初めてだ。
「末っ子ならきっと私の気持ちわかってくれるはずだよ!」
エキサイトした藍子が騒ぐものだからいつしかクラス中の注目を集めていたようで、どういうわけか藍子の言葉に幾人かがウンウンと頷いていたりする。
「馬鹿馬鹿しい。他人に姉だといわれて何が嬉しいんだ?」
「天宮さんだって西蓮寺君に『お兄ちゃん』とか『兄さま』とか呼ばれてみたいとか思わない? 絶対可愛いと思うよ!」
「…………ば、馬鹿馬鹿しい」
微妙な沈黙の後に吐いた言葉には何故か先程のキレがない。
「あ、やっぱり天宮さんもそう思ったでしょ! ね?」
「い、いいかげんに……」
「か、可愛い……」
どう好意的に解釈しようが小っちゃな子扱いされた陽斗は地味にダメージを受けていた。
そんな陽斗の様子に気付いたらしい穂乃香は周囲に聞こえるようにコホンと咳払いをして会話の流れを断ち切った。
……穂乃香の顔が微妙に赤らんでいるのは、彼女もまた想像してしまったから、というわけではないはずだ。
「藍子さん、貴女の思いはともかく、陽斗さんに無理強いするような真似はどうかと思いますわ」
「うひゃぁぁっ?! ほ、ほほほ、穂乃香さまぁ?! ご、ごめんなさいっ!」
今の今まで穂乃香が側にいる事に気付いていなかったらしい藍子が、声を掛けられて跳び上がる。
あまりの過剰な反応に、穂乃香の顔が微妙に引き攣る。
「……以前から思っていたんだが、神楽坂はどうしてそれほど四条院に脅えているんだ? 過去に何かされたのか?」
「失礼ですわね。わたくしは何もしていませんわ。ただ、その、中等部の頃、神楽坂さんがちょっと転んでしまったときに、その、色々とありましたので」
「怒鳴りつけでもしたのか?」
「そんなんじゃありませんよぉ!」
壮史朗の失礼ともいえる物言いに憤慨した様子で藍子が反論する。そしてつい余計な事まで付け足してしまう。
「中等部の時に私が蹴躓いて咄嗟に穂乃香さまのスカートを掴んでしまったせいで、クラスメイトに穂乃香さまのパンツを、あっ!」
途中で気付いたものの既に9割方暴露してしまった後では慌てて口に手を当てても無意味である。
バラされてしまった穂乃香の顔は真っ赤になり、バラしてしまった藍子の顔は真っ青だ。
「ち、違うのです! あ、いえ、違わないのですけれど、あの時は男女別の授業で、その場に居たのは女子生徒だけで、その……」
どうやら男子生徒や男性教諭などの異性に見られたわけではないと言いたいようだが、誰になんのために言い訳しているのか穂乃香自身にもわかっていないだろう。
「あ~、なんだ、その、余計な詮索をした。すまん」
予想もしなかった過去の暴露に、そもそもの切っ掛けを作ってしまった壮史朗が気まずげに頬を掻きながら小声で詫びる。
とはいえ、壮史朗に怒りを向けるのはさすがに筋違いと弁えている穂乃香は恨めしそうに一睨みしてから陽斗に視線を移す。
陽斗はといえば、穂乃香に釣られたのか、それとも思わず想像してしまったのか、穂乃香と同じように顔を赤くしながらオロオロするばかりだ。
逆に藍子は米つきバッタのように穂乃香に向かって頭を下げまくっている。
教室内はしばし名家の子女が集う学園とは思えない混沌とした状況に陥った。
授業が終わり、自分達のクラスに戻る道すがらも藍子はひたすら穂乃香に「ごめんなさい」と謝り続け、穂乃香の方も元が随分前の出来事であるし、口を滑らせたことにだけ愚痴をこぼして以後この話を蒸し返さないことを約束させた。
これまでのように気にしすぎてはかえってまた口を滑らすことにもなりかねないので互いに和解した形に落ち着いたのだ。
これで一件落着となったと思いきや、どうやら藍子は陽斗に「お姉ちゃん」と呼んでもらうことを諦めていなかったようだ。
「ね? 一回だけでも良いから!」
先程までのしおらしい態度はどこへやら。
教室に戻った途端に再び陽斗の元へ突撃してくる藍子。
「え、えっと」
「やっぱり、駄目?」
「だ、駄目ってわけじゃないけど」
別に一度くらい「お姉ちゃん」と呼ぶのが嫌というわけではないのだが、陽斗の本音といえば単に意味がわからないだけだ。
まぁたとえ血が繋がらない同級生であってもじゃれ合いの中で冗談としてそのようなことを口にすることが無いわけではないだろうし、少々恥ずかしい気はするがどうしてもと言われれば陽斗の性格上『それくらいなら』と考えてしまう。相手に悪意がないのだから尚更である。
「藍子さん、まだ諦めていないのですか? いいかげんに……」
「あの、別に一度くらいだったら」
藍子のしつこさを見かねた穂乃香が嗜めようとするのを遮って陽斗が答えると、藍子は額がぶつからんばかりに顔を寄せる。
「本当?! 嬉しい! 約束したからね!」
入学してからふた月近くになるが、クラスの女子生徒は陽斗のイメージする良家のお嬢様という印象そのままの、上品で大声を出したりしない人が多い。
男子生徒に関してはさすがに悪ふざけなどはしないが、それでもそれなりに賑やかに騒ぐ者も多く、多少お行儀の良い普通の高校生といった感じだ。
そんな中で藍子は喜怒哀楽をはっきりと表すことが多く、今は喜色満面といった状態で跳び上がらんばかりに喜んでいた。
そしていそいそとカバンからスマートフォンを取り出してくると、画面を操作して陽斗に突き付ける。
「じゃあ西蓮寺君! お願い!」
録音モードになった画面を突き付ける藍子にちょっと圧倒される。
何が彼女にここまでさせるのかはわからないまでも、勢いに押されたとはいえ一旦口にした以上はいまさら嫌とも言えない。
「う、うん。えっと、『お姉ちゃん』」
おずおずといった感じでスマートフォンに向かって話しかける陽斗。
「うっ! も、もう一回! こんどは私の名前も入れて!」
一瞬で頬を染めて、さらに追加のリクエスト。
「えっと、『藍子お姉ちゃん?』」
「はぅ!?」
幾人ものクラスメイトが見守る中で言うのはさすがに恥ずかしいのか、少し顔を赤くして上目遣いで言う陽斗の様子に藍子が何かを堪えるように呻き声をあげる。
「さ、西蓮寺君、わ、私にもお願いしても良い? いえ、是非お願い!」
「わ、私も!」
「私は『有希お姉ちゃん、お疲れ様』って言って!」
「ず、ずるいです。なら私には名前と『おはよう』と『おやすみなさい』も!」
「お、俺も『兄ちゃん』って呼んでみてくれないか?」
藍子の末っ子発言で頷いていた人達なのか、様子を見守っていたクラスメイトが次々に陽斗にリクエストを繰り出してくる。
「え? え? あの?」
軽い気持ちで藍子の要望に応えたものの、まさか他にもいるとは思っていなかった陽斗は混乱するばかりである。
それでも一人にした以上、他の人のを断るわけにもいかず困惑しながらも順番に突き出されるスマートフォンに言われるまま台詞を録音していった。
藍子はちゃっかり再びその順番に並び直し、追加を要求していたが。
「……四条院は頼まなくて良いのか?」
「そ、そんなはしたない真似できませんわ! 陽斗さんに『お姉ちゃん』と呼ばせるなんて、その……」
呆れたような表情を作りながらその様子を見つつ、皮肉気に壮史朗が穂乃香に訊ねると、穂乃香は顔を赤くしながらワタワタと首を振る。が、その表情はありありと羨ましさをものがたっていたが壮史朗がそれを指摘することはなかった。
……やぶ蛇になりそうだからかどうかはわからないが。
幸いといっていいのか、複数の生徒が二度三度と追加のリクエストをしだして場が混沌としていたタイミングで担任の筧が教室に入ってきたことでようやく『お姉ちゃん祭り』が終了した。
その後はホームルームを終えてからもそれ以上陽斗がお願いされることもなく、穂乃香とセラと一緒に校門まで歩く。
連休前に陽斗が桐生貴臣に絡まれたことを壮史朗から聞いた穂乃香は柳眉を逆立て、同じく憤慨したセラと共に今後は必ず誰かが陽斗と一緒に行動すると決めたらしく校内で陽斗が一人になることはほぼ無くなった。
もっとも、陽斗がそれを不満に思うことなどあるはずもなく、恐縮しながらも穂乃香達と一緒にいられることを喜んでいる。
どことなく不満そうな雰囲気を漂わせた穂乃香の態度が気になりながらも3人で談笑しながら何事もなく校門前で迎えの車に乗り込んでそれぞれ帰宅の徒につく。
この日の迎え当番であった裕美にダンス講義の話などをしながら車内で過ごし、40分ほどで屋敷に到着する。
玄関前の車止めで降りて陽斗は自分で玄関を開ける。
最初の頃は陽斗が帰る度に外でメイド達が整列して出迎えていたのだが、恥ずかしがった陽斗の要望でそれは取りやめになっている。執事に恭しく扉を開けてもらうこともだ。
とはいえ、玄関を開けると数人のメイドが笑顔で出迎えてくれるのは変わらないのだが。
この日は湊と他に3人が陽斗を迎える。
「陽斗様、お帰りなさい」
「うん。ただいま『湊お姉ちゃん』、あっ!」
いつものように返すつもりが、クラスでさんざん『お姉ちゃん』を連呼する羽目になったせいで思わず『湊さん』を『湊お姉ちゃん』と呼んでしまう陽斗。
心境としては学校で先生に『お母さん』と呼んでしまったときに似たようなもので、陽斗は恥ずかしげに顔を赤くしてしまう。
が、湊の方はといえば、その直後、一瞬で惚けてしまい腰砕け状態である。
同時にあがる他のメイド達の悲鳴とも歓声とも響めきともいえない声。
その後の屋敷の状態が元の落ち着きを取り戻すのにはしばらくの時間を要したのであった。
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